通夜では、お坊さんが読経せねばならぬもの。とされています。お坊さんを呼ぶのにお金が掛かります。お礼、交通費、食事代などです。青森県は貧乏県で、寺が求める「やらねばならぬこと。」は大変な事です。到底出来ないことです。
父は無神論で、その考えは分かります。しかし死んだ後に私と意見が分かれました。私は母が好きだった花を霊前に1年間飾ろうと提案しました。
しかし坊主は切れて、葬儀屋を恫喝したのです。金づるには良い顔をする坊主です。私は1年間、母が好きだった花と好きな食べ物を飾ると言いました。しかし妹は「それは嫌だ。ちゃんとした仏壇が欲しい。でないと恥ずかしい。」と言います。兄弟でも考え方が全く異質です。
遺骨をどうするか。父は気持ちが悪いので墓へ入れるというのです。父はだんだんちぐはぐになってしまいました。遺骨をどうするかは本人が生きている内に、しっかり話して置く事は必要です。
位牌には魂は入っていません。そこに入る必要はありません。魂しろにならないのです。もしそこに入ったら自由が無くなります。死んだら瞬時に瞬間移動が出来、何でも出来るものになるのですから、誰もその中に居ないのです。そこにいて喜びを感じません。
また墓にも居ないのです。墓は遺族の為の祈りの場でしかありあせん。遺族がそこで拝むから来てくれるだけです。そのような形は、遺族の関係者が求めるなら必要です。そこをしっかり押さえておかないと、何度も繰り返すのでマインドコントロール、洗脳されてしまいます。洗脳で恐怖を植え付けられるのです。
執着のある霊人には問題があります。何故骨、墓、位牌に執着するか。しかしそこにほとんど居ないのです。子孫に押し付けてくるのは霊性が低い霊人です。崇めろと言う、傲慢な霊存在です。
死者は生きている時と同等で良いです。隣人と接する様に同等で良いのです。一般的に話し続けるのが供養です。依存せず、同等に関わり続けることが大事です。無視されるのは辛いことですが崇め奉る必要はありません。また、お願い事をするもので無いのです。ただ挨拶するだけで良いのです。
普通は周りに合わせてやるでしょうから、自分で遺書を書く事が大事です。今は墓を止める、墓仕舞いがなされています。少子化で墓を誰もみれないのです。墓を仕舞うことは失礼なことではありません。生きているものの目安でしかありません。
法要のキャラクターは時代に応じて沢山です。仏教で釈迦は偶像崇拝は駄目だとしました。しかし今は釈迦の教えを無視しています。それはカルトです。仏教では無いのです。誰かの作り話に乗っているのです。
死後50日で地獄か、生まれ変わりか?そこに裁判官が現れると言います。そこで十王の審判を受ける。これまでは長い物に巻かれろの体の霊能者しかいなかったのです。
これからは私はこのことを世間に言って行きます。そしてこの偽りを解消していきます。過去生でこれを伝えている有名な坊主だったことがあります。その因縁解消が今世で必要です。それは実は、全部が自分の過去生に棘の様に刺さる事で、分からずに坊主として嘘を教えていたのです。