「夏泊半島・椿神社 平内町東田沢横峰
椿山と椿神社
夏泊崎の南側の後背地は海岸段丘になっていて、小高い草地の丘がある。この丘陵地は家畜の放牧地として利用されてきたが、いまは一部がゴルフ場などに利用されている。この一帯は古くから椿山と呼ばれ、江戸時代からツバキの名所として全国的に知られていた。いまは22ヘクタールあまりの丘陵地に約7000本のヤブツバキが自生する。ここはツバキの自生地の北限として国の天然記念物「ツバキ自生北限地帯」になっている(指定日:1922年(大正11年)10月12日)。
江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した菅江真澄(1754年 - 1859年)は、『津河呂の奥(津軽の奥)』の中で当地を「ここらの椿咲きたるは巨勢の春野のたま椿も之をこそよばねと」と評した。また、松浦武四郎(1818年 - 1888年)は『東奥航海日誌』のなかで、「一山椿木斗にして中に松二三株立てり」と記している。
椿神社に伝わる棟札によれば、神社は元禄11年(1698年)に「椿宮女人神」として建立されたのが濫觴である。菅江真澄『津河呂の奥(津軽の奥)』の伝えるところによると、平安時代末期の文治年間(1185年 - 1189年)、現地の女性が近畿地方からやってきた男性と結婚の約束をして送り出したが、約束した期日までに男が戻らなかったために、女性は椿山から海へ身を投げたのだという。まもなく帰ってきた男は、女がすでに亡き者となったのを知って嘆き、山の麓に祀った。このときに近畿から持ってきたツバキの実を植えたことから一帯にツバキが広まったとされており、本来は温暖な地に自生するツバキが本州北部の当地に生えているのはこのためだという。
椿神社はのちに村社となり、女性神ではなくサルタヒコ(旅行・恋愛の神)とシオツチノオジ(航海の神)を奉斎するようになった。寛政9年(1797年)の『津軽俗説選』では、椿神社がサルタヒコを祀るようになったのは、おなじく「ツバキ」を冠する伊勢国一宮の椿大神社(三重県鈴鹿市)の主神がサルタヒコであったことからの伝播だろうという推論が紹介されている。
椿神社付近の海岸では人工的な砂浜の養浜が行われており、5月から初夏にかけてツバキが赤い花を咲かせる椿山とその山麓の椿神社は、景勝地として日本の渚百選(1996年)にも選ばれており、夏泊半島の代表的な観光地の一つとなっている」
椿山沿いに浅瀬が広がっている椿山海岸は、「日本の渚百選」に認定されている美しい海岸です。夏にはキャンプや海水浴で賑わっている場所のようです。参道を進み神社を参拝しました。
特にこれと言った特徴が無いのですが。東が陸奥湾で神社の北が椿山で、その椿山を拝する感じです。北限のヤブツバキが自生する山は赤い花に埋もれた時は見事な事でしょう。
その椿山にある椿神社の祭神は、猿田彦である。猿田彦を祀ったのは1573~1592年、或いは1594年に田沢村(平内町田沢)の横峰嘉兵衛の女房に神が乗り移り、託宣によって当地の守護神として椿崎大明神を祀ったのが創祀で、始めは鳥居だけであったが、1698年にお上の仰せによって社殿を造立し、『津軽俗説選』を書いた弘前の人・工藤白竜は、1789~1800年に伊勢国河曲(かわわ)郡の椿社(今の鈴鹿市椿一宮の都波岐神社)から勧請したと記している。
だが何故、猿田彦なのか。江戸後期の旅行家菅江真澄が伝えた椿山伝説によると、ここは都からの船が寄港する所とあるから、航海の神として祀られたのかも知れない。椿一宮の猿田彦は、神功皇后の新羅遠征に従軍して軍功を挙げ祀られたというから、海士達の神である。
また、ここから夏泊半島を西に進み、油目崎を過ぎると小リアス式海岸が続き、稲生・浦田・茂浦では、かつて塩を焼いており、鎮守の塩釜神社では塩土老翁を祀っている。塩土老翁は、猿田彦と同神であり、猿田彦は製塩業者が信仰していたものかも知れない。
椿神社の猿田彦について見落とせないのは鉱山との関係である。田沢の椿山には椿山鉱山があり、銅・鉛・亜鉛が採鉱されていた。青森県は秋田県と並んで鉱山が多く、砂鉄生産量は東北地方の約60%を占めている。
津軽は縄文時代、三内丸山遺跡に見られるように先進地帯であったが、弥生・古墳時代以降は蝦夷の地として後進地帯と見做されるようになってしまった。しかし鉱物資源の開発は、意外に早かったのではあるまいか。それを開発したのは猿田彦を奉斎する技術者集団であり、それを証明しているのが田沢(平内町夏泊半島)の椿山にある椿神社である。」