そこには明らかに遺伝的な違い、身体、骨格的な違いはあり、さらに気候風土、環境がその獲得形質を変えて行き、性別、更に担う仕事の内容が違いの要因としてあります。ある意味での集団、そしてその中の個の特徴、癖ですね。
どうしたら身体の持つ能力、機能を病むことなく発揮して、今世で果たす目的、テーマを実現して行けるのか。身体、行、意識、その仕組み、法則性を知り、楽しく生きて行きたいと思う日々です。
そんな中、面白い本に遭遇しました。内田樹氏が書かれた「日本の身体」(新潮文庫)です。とても興味深く読みました。大分前に購入していて少しずつ読み進めましたが、沢山の発見、気づきがあるのです。読み返してみると又深い表現に響きます。
裏表紙には以下の様に記されてあります。
「能楽と合気道に深く親しむ思想家が日本独自の身体の動かし方(身体運用)の達人と真摯に語り合う~茶道家千宗家や漫画家井上雄彦、文楽人形遣い桐竹勘十郎や女流義太夫鶴澤寛也、元力士松田哲博、マタギ工藤光冶など、達人との対話から日本人に個有の身体技法とその合理的な理由が明らかに!著者の渾身の論考「日本の身体仮説」に加え、新たな気付きを記した文庫あとがきも収録」
日本のその道の達人12人に内田氏がインタビューした内容を纏めたものです。
「日本人には日本人個有の身体観があり、それに基づく個有の身体技法があるという仮説を検証する為に様々な分野の達人たちにお会いする事になった。」
そしてこの仮説は基礎つけられたと述べています。
個々の達人との内容は是非本を求めて読んで見て下さい。それらを踏まえて最後に、「少し長すぎるあとがき」で内田氏の身体観、哲学が語られていますが納得でした。その中から少し紹介します。
「身体運用は集団的な仕方で制度化されている。私たちは個人の自由意志によって身体を動かすことができない。(略)
しばらく前までは私たちの社会でも性別、年齢、社会的立場などによって「身体の使い方」には細かい取り決めがあったのである。同一社会内部でもそうなのであるから、時代が変わり、土地柄が変われば、身体の使い方は変わって当然である。身体の使い方どころか、身体の成り立ちや機能までも、その人がどのような集団に帰属しているかで、変わってくる。」
「痛みというのは現に損傷されている身体部位「そのもの」が痛むのではない。身体のある部位に異常を感知した脳は、当該箇所にしかるべき対処が早急に必要であるということを告げる「アラーム」を鳴動させる。それが「痛み」である。しかしこのアラームを私たちは自己都合で停止させることができる。
ライオンに追われて全力で逃れているという状況において、私たちは心臓や肺や脚部の筋肉に激しい痛みを感じる。それは「もう走るのを止めないと、身体に悪い」というアラームがけたたましく鳴動しているということである。けれども、そのシグナルに従って走行を停止すると、私たちはライオンに捕食されてしまう。ライオンに噛み砕かれている時の痛みはまだ実感としては存在しまい。けれども、私たちの脳内において想像的に先取りされている。その先取りされた幻想的な痛みのイメージが現実に感じられている身体的苦痛を圧倒する。解剖学的、生理学的に十分な根拠のある「ただちに走行を停止して、身体を休めなさい」という通告は無視され、「想像的に先取りされた痛み」が全身を領する。 今、ここで現実に感じている身体的苦痛よりも、想像的に先取りされた苦痛の方がよりリアルである場合、現時的な苦痛は後景に退き、その切実さを失う。
だからもし、「想像的に先取りされた痛み」として、「背教の罪として地獄の劫火にやかれる」想像的苦痛が切迫していた場合、その人の殉教者として火刑台にある時の炎の熱さは、信仰のない人が同じ状況で味わうのとはずいぶん違っているはずなのである。
人間の身体が経験する生理的現実でさえ、その人が何を信じているか、どのような哲学・宗教的文脈のうちに置かれているかによって変動する。身体というのはこう言って良ければ、すみずみまで「意味」によって編まれているのである。」