「対立」の究極のかたちは何でしょう。私は核戦略における「相互破壊確証」がそうではないかと思います。(略)
つまり対立的であることの極限のかたちは「見分けがたく相似することによって身動きならなくなる」ことなのです。
これは「対立」という語の因習的な理解とは違います。私たちは対立ということを「相違点が増えること」だとふつうは考えています。でも、違うのです。対立が激化すのは「相似点が多すぎる」からなのです。だから、ある程度以上対立的になると、相互に似すぎて身動きならなくなる。自分がこう出ると、相手がどう対応するかが予測可能になるからです。」
「対立は過度の相似をもたらし、心身の硬直をもたらします。これはいずれも生物に生きる力を弱めます。心身の不自由が生きる力を減殺することは誰でもわかりますが、過度の相似が有害であることはふだんあまり意識されることがありません。でも、考えればすぐにわかります。「自分にそっくりの存在」が他にいるということは自分の存在価値をその分だけ逓減させるからです。(略)
自分と同じ様に考え、同じ様にふるまい、同じ様なことを話す人間の数が多ければ多いほど、私たちの唯一無二性が損なわれる。それはそのまま私の存在価値を損なうことに通じます。私の「替え」が他にいるわけですから。」
「対立は必ず相似の過剰をもたらします。そしてそれは、二人がまったく見分けがたく似たときに対立は破局的なものになる。それは「同じのが二人いるのなら、一人いなくなっても誰も困らない」という自明の真理が両者に同時に開示されるからです。(略)
それが対立が極限に達したときの両者の心に同時に去来する恐るべき明察です。対立は身体に悪いというのは、そういう意味です。
対立的に心身を用いてはならない。私は師症からそう繰り返し教わりました。心身は同化的に使わなければならない。さて、「同化的」とはどういうことなのでしょう。
理屈から言えば、それは対立する二人が見分けがたく相似してくるのと逆のプロセスをたどるはずです。でも「同化的な心身の使い方」がどういうものであるか、それを言葉にすることは私の今の術技の段階ではまだできません。ただ、「対立が相似と硬直」をもたらすならば、「同化は差異化と自由」をもたらすはずだということだけはわかります。
どれほど相手に近づこうとしても、どれほど相手に似せようとしても、どれほど両者の一致点を求めても、それでもまだ絶望的な懸隔が二人の間にあって、完全な理解も共感も成立しない。たぶん、それが同化的な心身の用い方が私たちのうちにもたらす実感なのだろうと思います。
そのような孤絶感を持つことに何の積極的意味があるのと戸惑う方もいるかも知れません。でも、この「おのれの唯一無二性の実感」はさきほどの「匿名の発信者」が自分に呪いをかけていたこととは逆に機能します。それは「私がいなくなれば、この世界には、私のように考え、私のように感じ、私のように語り、私のように行動する人間はひとりもいなくなる」という自覚をもたらすからです。そこから導かれる実践的結論はただひとつです。「だから、私は生きねばならない」
生き延びられる限り、生き延びよ。それが同化的に心身を用いようとする者に到来する抗しがたいメッセージではないのか。私はそんなふうに考えています。」
そして最後に以下の様に述べています。
「ただひとつだけ本書の内容と繋がるアイディアを申し上げれば、本書で私がお会いした全ての「達人」たちは、それぞれがある時点で「生きよ」という明確なメッセージを受けとった方たちだということです。それが誰から、どこから到来したメッセージなのか、それはお一人ずつ違っていると思います。でも、この方たちが卓越した「プロフェッショナル」の境位に達し得たのは、そのメッセージをまっすぐ受け止めて、「余人を以っては果たし得ない責務」をわが身に感じたからだと思います。」