「歩き方というのは、「人は地面とどのような関係を取り結ぶのか」という課題に対する1つの解である。そして、それには多分「正解」がない。
私たちは四足歩行の「はいはい」から直立歩行に移行する過程で、傍らにいる大人の歩き方を模倣する。そして、周囲の成人たちの歩き方を「標準的なもの」として身に刷り込んでゆく。周囲の「大人」がどんな歩き方をしていても、子供はそれを真似る。インドで発見された「狼少年」たちについての事例報告は(どこまで信憑性があるものか、定かでないが)どれも彼らが発見時には四足歩行をしていたと伝えている。子供は本能的に直立歩行に行こうするわけでない。周囲の人々の歩き方を模倣するのである。」
「人間が大地から誕生した時」とは、人間が類人猿たちから分岐して人間に成った時、と理解してよいと思う。類人猿たちは本能に従って歩いた。それは四足歩行の時の身体の使い方を残しているということである。類人猿たちは自然で合理的な歩き方をした。解剖学的組成がそのように歩くことを要求する通りの無駄のない歩き方をした。けれども、人間はそれを拒否して、「うまく歩けないもの」であることを選んだ。解剖学的組成が要求する「自然で、合理的な歩き方」を捨てて、不自然に「脚をもつれさせながら歩く」ことを選んだ。運動の不自由さを代償にしても、身体運用の自由を手に入れたのである。
オイディプス神話は「人間とは何か?」という問いに神話的な仕方で回答している。一言で言うならば、「人間の本質は合理的な生き方よりも、自由な生き方を選ぶ点に存する。単一の正しい生き方よりも、正解のない多様な生き方を選ぶ点に存する。」ということである。
変な歩き方をするもの、それが人間だ。神話はそう語って、人間の身体運用の自由と多様性を祝福したのである。
私自身は武道と能楽という日本人に個有の「変な歩き方」を日々稽古している。これらはさしあたり私たち日本人以外のどのような社会集団も採用しなかった得意な身体運用法である。
私たちの先祖は長い時間をかけてこのような特異な身体運用を作り上げてきた。」
「その第一の理由は日本列島の自然環境である。」
「列島住民の身体運用上の「傾向」はこの地祇のいます大地との慎み深い交流によって決定的な仕方で規定されたものであるまいか。一歩一歩進みながら、そのつど大地との親しみを味わい、恵み深い自然への感謝をつげ、ときおりその祝福を促すような歩き方を、豊穣で手触りの柔らかい自然環境のうちに生ける集団が選考することに不思議はない。」
この後この自然への捉え方、価値感の変化を指摘して以下の様なことが記されています。
「現代日本人は、政治家も学者もメディアも、日本に誇るべきどのような自然資源もないとことさら言い立て、それゆえ、自由貿易とシステム効率化が喫緊であることを訴えている。彼らは日本がかつて世界史的に見ても例外的な仕方で自然を守った実績については一言も触れない。この「言い落とし」にこそ私は興味をひかれる。
日本には豊かな自然資源が「まだ」残されている。けれども、そのようなものは「存在しない」という話しになっている。日本の政官財の指導者たちは「日本の自然の豊かさ」についてほとんどまったく言及しない。まれに懐古的に「うさぎ老いしかの山」的な言葉を感傷的に口にする人もいるか、それは「もうそのようなものは決定的に存在しなくなった」ことをダブルチェックするために語られるのであって、この詠嘆が失われた山河をこれからも回復しようという提案に結びつくことはない。
もう自然は破壊し尽くされている。そういう印象を私たちは抱いている。というより、抱かされている。「帰りなんいざ。田園まさに蕪(あ)れんとす」という感懐を持ちたくても、日本人にはもう「帰るべき田園」など、どこにもない。私たちはそう繰り返し告げられている。だから、都市にとどまるしかないのだ、と。都市で賃労働に身を粉にし、値札のついた商品を市場で買う以外に日本人には生きる選択肢はないのだ、と。日本には何もない。エネルギーもない、自然資源もない、食糧もない、働く人間さえたりない。だから、すべては「金で買う」しかない。あらゆる手立てを尽くして「金を稼ぐ」しか日本が生き延びる方法がないのだ。私たちは朝から晩までそう言われ続けている。新聞にもそう書いてあり、テレビに出てくる評論家たちも口を揃えてそう言う。「金を稼ぐ」ためには、国土がどれほど汚染されても、森林や水源がどれほど枯渇しても、豊かな耕地が無主の荒野に戻っても、伝統的な文化が消失しても、さらには日本語が「土語」のレベルに貶められても、経済の自然過程がそれを要求している以上、受け入れるしかないのだ、と。
私は個人的にはこれを「日本のシンガポール化」と呼んでいる。」