現在のスポーツとして行なわれる武芸はもうそのような「自然力の良導体となる整えられた身体」の錬精ということを優先的な目的としては掲げていない。ウエイトトレーニングで筋肉を局所的に強化したり、サブリメントを服用したりというのは「身体という自然」を人知によって馴致させ、強化させようとするヨーロッパ的な身体観から出てきた発想であって、日本の伝統的な「身体を整える修業」の発想とはずいぶん異質なものである。」
そして最後にまとめとして次の様に記しています。
「「大地の霊」との交感。もし「日本の身体」を一言に要約するならば、私はこの言葉を選びたいと思う。と」
その後、2年を経過して文庫版を出されたのですが、改めて文庫版のためのあとがきを記しています。2年間の思索の変遷を読み取れます。
「身体運用は決定的に文化的なものであり、すみずみまで意味に満たされているというのが私の身体論の基本テーゼです。
具体的な話をします。道場で稽古をしていると「身体が硬い人は精神も硬い」ということがよくわかります。その逆(「身体が柔らかい人は精神も柔らかい」)は必ずしも真ではありませんが、身体的なこわばりと精神的なこわばりは高い相関を示します。それが際立つのは(まことにお気の毒なことですが)中高年男性たちです。とりわけ、社会的地位の高い方たちです。
彼らに共通するのは「視覚優位」と「手優位」です。「目で見えるものにしか関心を示さない」、「何でも手で操作しようとする」とも言い換えられます。これは「トップダウン」の指揮系統になじんだ人間に際立つ身体的傾向であると申し上げて宜しいでしょう。
「ほう・れん・そう」とうるさく部下に命じるようなタイプにとくに際立つ特徴なのかもしれません。組織内で起きているすべての出来事を可視化することを要求する。自分の手が届く範囲ですべての問題を処理しようとする。そういう気持ちもわからないでもありません。でも残念ながら、それではほんとうにリスキーな事態には対応出来ません。危険は必ずしも「目に見えるかたち」をするわけではありませんし、「手の届く範囲」にのみ出来するわけでもありません。ほとんどの場合、そうではありません。ですから、武道的な身体運用では、危機に対処するためには使える身体資源のすべてを動員することが求められます。
五感のうちとりわけ重要なのは「皮膚感覚」です。「ぞっとする」とか「肌に粟を生じる」とか「ざわざわする」といった慣用語の存在が示す通り、危険の接近にもっとも鋭く反応するのは皮膚です。危険の切迫を感知して、安全な動線を探ってそれを回避するくらいのことは単細胞生物でもやっています。ゾウリムシにできることが人間にできないはずがない。
でも皮膚感覚を鋭敏にして危機の切迫を予知し、危険を回避できる動線を直感する能力の開発に「視覚」と「手」にこだわる方々は意欲的ではありません。」
「トップダウンが身になじんだ人は現場に権限委譲することを嫌う傾向があります。(略)
現場でどんどん自由裁量してよいということを道場では教えています。そのためには彼ら、彼女らに深く内面化している組織文化をいったん解除しなければなりません。あなたがたの社会観そのものを解除しないと、なかなか合気道うまくならにですよと教えなければならない。でもさいわいなことにその逆も成り立ちます。つまり、術技が上達すると社会観もそれにつれて変わってゆく。(略)
それまで摂取されなかった微細なシグナルが感知できるようになる。緊急事態の対応は現場に任せてしまった方が上意下達より効率的であることが経験的にわかってくる。学術的な意味で「心身相関」を論じる場合には、真理が身体に症状化するケースがほとんどで、身体操作を変えると当人の世界観が変わるというようなケースはあまり語られません。」