2018年3月2日金曜日

1231「毘沙門・妙見4」2018,3,2

「毘沙門天街道 
 なぜ毘沙門天だけが独自に祀られるのか

 時は下って鎌倉時代以降、次第に、他の神とは別に、北方の守護神である多聞天(毘沙門天)が独尊で祀られるようになります。
 多聞天は四天王のリーダーであり、最強の守護神であるという信仰が高まっていくのです。しかし、上記のとおり、そもそも多聞天は「説法の場を整える」役割であり、財宝富貴を司る神のはずでした。どう考えても刀剣や鉾をもっている持国天や増長天より戦闘力が低いようにみえます。
 それもそもはず、毘沙門天は元々はインドの鬼の一族たるヤクシャ(夜叉)の王様でインドのクベーラという財宝の神様であり、弟のラーヴァナに棍棒で殴られて昏倒するような弱い神様だったのです。しかし、中国では常に侵略は北の方角からなされるものでした。
 それにともない、中国に渡ると北方の守護神としての役割が非常に高まっていったのです。
 同様に平安時代の日本においても、征服すべきは蝦夷が住まう東北の土地でした。
 平安京の北方鎮護として鞍馬寺が建立されましたし、坂上田村麻呂が、戦勝を祈って建立した奥州平泉の達谷の窟毘沙門堂には、鞍馬寺の毘沙門天から分霊してもらった108体もの毘沙門天が祀られています。
 坂上田村麻呂自身が毘沙門天の化身と言われるようになり、東北には、成島毘沙門堂、立花毘沙門堂、藤里毘沙門堂と多くの毘沙門堂が建立されます。さらに時が下って、鎌倉時代になると、信貴山の毘沙門堂に祈って生まれたとされる、楠木正成が大活躍をし、さらには戦国時代最強の呼び声が高い上杉謙信が毘沙門天を厚く信仰し歴史に名を残しました。
 このような歴史的経緯にともない、毘沙門天が最強の軍神としてその地位を高めていったものと推察されます。その甲斐あってか(?)、七福神の一人にも参加できることになりました。」

 妙見、毘沙門とも時の為政者、武士の拠所であり、支配の為に各地に祭られ、信仰されていったように思います。妙見は不動の北極星を崇め、北斗七星と相まって北の守護、お家の安泰に星辰信仰が用いられ、陸奥は京都から北東の方向で鬼門でもあり、蝦夷を調伏し、北を守るために毘沙門天は更に大きな威力を期待され、宮城県、岩手県、青森県などに祀られたのでしょう。
 今回は妙見、毘沙門と繋がりがありそうな箇所、星辰信仰、地元の土着神に所縁の各所を巡り計画になりました。
「北の海は多くを沈めて参られた。
 皆々それぞれある中で、妙見、毘沙門、離れておるが、その地に故ある事ごとなり。
 しっかり結びて、鎮めて参れば、ひとつとなりゆくなり。」
 果たして初期の目的、それらを「結び、纏めてひとつと成り行く」ことが達っせられるのかです。

 最初の目的地は仙台市宮城野区岩切にある青麻神社です。主祭神:天之御中主神、天照大御神、月読神、常陸坊海存翁です。主三神は星(北極星)、太陽、月の三光神です。
 由緒は以下の様にあります。
「元禄11年(西暦1698年)、山火事により古記録等を焼失せるにより不詳なれども、社伝によれば、第55代文徳天皇の御世の仁寿2年(西暦852年)、現社家の遠祖穂積保昌が山城国(現京都府)よりこの地に来たり、里人に麻の栽培を教え、且、一族の尊崇せる日月星の三光神即ち天照大御神、天之御中主神、月読神の三神を清水湧く山峡の岩窟中に奉祀せしが本社の創始と伝える。
 社名・地名も麻の栽培より起り、神紋も又麻の葉を用いる。仙台藩封内風土記(西暦1772年成立)にも、「岩切邑 本邑山中青麻と号する地あり 往古この地麻を植う 故に以て地名と為す 岩窟あり高さ一丈余・・・」と記している。天和2年(西暦1682年)源義経家臣なりし常陸坊海尊(清悦仙人とも称する)下野国(栃木県)出流山大日窟よりこの地に至り霊験を顕し給いしにより併祀する。古来より中風病退除(常陸坊海尊の霊験による)・海上安全(穂積一族が水運に携わっていたことに因む)等の特殊信仰があり、「三度詣でれば生涯中風の難よりのがれる」と伝えられ、各地青麻神社の総本社である。
 古くは、青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などとも称し、中世から近世の古図や文献にも記載が見える。」


 青麻神社の裏手の崖のいつもの場所であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。 「う~ う~ う~
 巡り行くはこの地の1150年前、起こり来たる多くを鎮めんとしたる者、
 力を見せて皆々従え、支配する力の為に使われたり。
 このこと宇宙とひとつの皆を外れ行く大きな過ちなり。
 巡りて正して、ひとつへと成されませ。」8時40分

 1150年前に起こり来たる多くを鎮めんとしたる者が成した事は、宇宙とひとつの皆を外れ行く大きな過ちなり、とあります。1150年前とは868年、貞観10年です。当時何があったのか貞観時代を調べると
「859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。
・貞観6年(864年)、富士山が噴火する。いわゆる貞観大噴火。
・貞観8年(866年)閏3月10日、応天門の変が起こる。内裏朝堂院の正門応天門が炎上し、これを巧みに利用して伴氏・嵯峨源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に、人臣として最初の摂政に任命された。
・貞観10年(868年)7月8日、播磨国地震が発生する。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく「頽倒」したという。前年から引き続き、毎月のように地震があったと見受けられる。
・貞観11年(869年)、格12巻が完成する。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生する。貞観の入寇が起こる。
・貞観13年(871年)、式20巻が完成する。これにより貞観格式が完成した。鳥海山が噴火する。
・貞観16年(874年)、開聞岳が噴火する。

 何とも天変地異、地震と噴火の連続の時代です。当然、津波もあったのでしょう。その時代に、清和天皇、陽成天皇、藤原良房の名がありますが、アテルイが坂上田村麻呂と陸奥で戦い降伏した803年、田村麻呂が亡くなった810年から半世紀過ぎ、蝦夷の地の支配を完全なものにした時です。
「鎮めんとしたる者、その時に成されたことが、大きな過ちだ」と。それを「しっかり結びて、鎮めて参れば、ひとつとなりゆくなり。」という事の様です。