「多聞山は、日本三景松島が眼下に広がり、東松島市の大高森や松島町の富山・扇谷と並んで、松島四大観のひとつに数えられる景勝地です。
馬放島や地蔵島、松島湾内の島々が広がるその雄大な眺めはまさに「美観」という言葉にふさわしいものです。松島四大観の美観を楽しむには、まず、多聞山展望広場公園に車を停めます。そして、案内板及び指導標に従い毘沙門堂まで足を運びます。その毘沙門堂の裏側に広がる景色こそ松島四大観の「美観」と呼ばれる眺めです。思う存分味わってください。(表参道の階段を上がる方法もあります)毘沙門堂は、多聞山の地に質素な佇まいを見せています。本尊は毘沙門天像(多聞天像)で、33年に一度開帳されます」
「続きて参る是よりの、この国の事ごと、皆々正して元へと変える。
知りて始めて、皆々が新たへの道生み出だす。
歩みて下され、元への道を。」9時55分
次は塩釜市の志波彦神社です。奥州一の宮の塩釜神社の中に祀られています。以下の様に記されています。
「志波彦神社は志波彦大神をお祀りしております。あまり馴染みのない御神名ですが、『延喜式』の神名帳に記載されている2861社の中でもわずか225社しかない「名神大社」と言う格別の崇敬を朝廷より受けていた神社です。
元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座しておりましたが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月24日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上されました。
大正11年当時の宮司山下三次が政府に造営の陳情をしましたが、翌年の関東大震災発生にて効を奏せず、次代古川左京宮司が時の政府に強く訴えかけてようやく昭和9年に着手、明治・大正・昭和の神社建築の粋を集め昭和13年に完成したのが現社殿です。造営前の社殿地には2階建て社務所が建っておりましたが現在の場所に降ろし、その場所に志波彦神社を建立しております。
鹽竈神社とは趣を別にし、本殿・拝殿ともに朱黒漆塗りの極彩色社殿となっております。又全額国費を以て造られた最後の神社とも言われております。
御祭神の謎
記紀を始め各書にも神話伝承の見えない志波彦大神とは如何なる神様なのでしょうか。 そのヒントが御神名であり志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、仙台市内に志波町、栗原市志波姫に志波姫神社(式内社)、岩手県紫波郡に志波城跡、志和稲荷神社・志和古稲荷神社とシワの名を持つ所が点在します。
これは大和朝廷の統治範囲が北進するにつれ、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神或いは志波姫神と呼んだものと考えられますが詳らかにはなっておりません。但し農耕守護・殖産・国土開発の神としての信仰が伝わっており、農耕を生業としていた人々の守護神だったのでしょう。
志波彦神社が鹽竈神社境内に遷された理由には、鹿島・香取両神宮の御祭神(鹽竈神社左右宮御祭神)の東北地方平定に協力された御神縁に拠るものと言われております。」
この中で興味深いのは、志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉で、シワの地(朝廷勢力圏の端)が遷っていったと思われ、この地方で信仰されていた国津神(土着神)を志波彦神或いは志波姫神と呼んだものと考えられる。とのことです。
塩釜神社は沢山の参拝者で駐車場が満杯で第3駐車場にようやく止めることが出来ました。建国記念日でその行事がある様です。
志波彦神社を参拝し、旧社地と思える、塩釜湾を眺望出来る小高い丘であわ歌を響かせました。そこには明治天皇が参拝した記念碑があります。境内は沢山の参拝者ですがここだけは別世界です。
そこでのお言葉です。
「続きて申すは、是よりの事。
動きて揺らぎて全てを暴きて、益々進み行くは、皆々新たへの道。
この今を元へと帰す道。皆々様方の多くのその身の捉われ外す道成り。
この旅の巡りにて、さあさあ外して参られませ。」10時56分
あわ歌を響かせ駐車場に向かう道は益々沢山の車で大渋滞です。私たちは丁度良い時に訪れる事が出来ました。お導き、ありがたきことです。