「遠流志別石神社は宮城県登米市石越町北郷字中澤に鎮座している神社で、縁起を彫り込んだ石碑によると
「遠流志別石神社は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座した延喜式内社栗原七座の1つと言われ古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されて来た神社である。古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し伊勢の御姨倭姫命が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上 に載き赴くべし」と授けた。やがて東国を平定するに及び、明玉は霊石と化したのでこれを祀った。この霊石が小石を産み50の数に別れた故にこの地を、「石子石の里」と名付け、後に石越となった。これが石神社の起こりとされ石越の由来となっている。
これとは別に、神社東方の丘から産出する礫岩が風雨に晒される事により小石塊を周囲に散らし、あたかも石が子を産んだ様相を呈するのを見て、自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるという説もある。
遠流志別=オルシベツとはアイヌ語で「大きな川の流れの側」を意味している。古代の石越丘陵の北面一帯は、大河の如く、中田方面に向けて蛇行していたものと思われ、その流れの側にある富崎周辺の地名になったと想定される。その根拠として続日本記7巻に、霊亀元年10月・陸奥蝦夷の邑良志別君・宇蘇弥奈(遠見邑=富崎に住む住民の長で爵位第三等)が、香河村(岩手県胆沢町)に移り住むことを願い出て許されたという記載がある。宇蘇弥奈が 移住した後も遠流志別石神社として信仰されてきたものであろう。
文治年中社殿荒廃し伝承の文書も失いただ石神明神と称して来たが安永年中仙台藩儒者田辺希元の調査に依り遠流志別石神社と判明した。天明六年中澤の住人小野寺新右衛門社殿を再興し寛政七年社地を献納文化元年拝殿を造営した。天保十一年正一位に明治六年郷社に列せられたが昭和二十一年社格は廃止され今日に至っているここに改めて縁起のあらましを記して後の世に伝えんとするものである。」とあります。
石碑から社殿は江戸時代に造営された古建築だったと見られます。拝殿は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、桁行3間、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社流造、銅板葺き。本殿背後にある石積が御神体である明玉と思われるのですが?
祭神:倭建命。」
立派な参道を進みます。陽が傾きエネルギーが潰えていく感じです。最後の輝きを発しています。
空には伊豆沼に変えるま雁、白鳥が列をなして飛んでいきます。拝殿の後ろにある御神体の石は石板で囲われています。その石を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
空には伊豆沼に変えるま雁、白鳥が列をなして飛んでいきます。拝殿の後ろにある御神体の石は石板で囲われています。その石を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「いざ いざ いざや 帰りなん。
そんたるろえろ いむさんた ひあるらろんろへ
悠々、皆々集え。
ひとつと成りて、新たを作りませ。」16時52分
お陰様で巡りを全てを終えることが出来ました。今回は両日とも7箇所、合計14箇所を訪れましたが、全ての所であわ歌を皆さんで響かせることが出来ました。最近は、場所に寄っては歌うことなく、歌っても「あいうえお」だけ、又は中山さんだけが歌われることなど色々でしたが、今回は全ての場所で皆さんで響かせる事が出来ました。
いろいろな御配剤、お助けを頂きありがたく帰路に着きました。仙台駅に19時前に到着して皆さんで最後の会食をいつもの中華屋さんで円卓を囲んで行いました。
最後に中山さんからお話がありました。
「今回は両日とも7箇所で全員であわ歌を歌いましたが、皆さん全員の結集した力が必要でした。それと同時に、各自、お一人お一人が皆、高まることも必要です。今回のお言葉はその場所のことと言うよりは、言葉を繋いで全体を通して読むことで、これから必要なことが分かると思います。その場所が関係ないと言うことではなく、その地を巡ることによって明らかになったことです。これからも宜しくお願いします。」
次回の陸奥・毘沙門・妙見の巡りは第2回4月7,8日、第3回6月2,3日です。果たして如何成りますでしょうか。楽しみな事です。