以下が神社の紹介です。
「平安時代初期の延暦21年(802年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、奥州一の宮塩釜神社左宮(鹿島神)を勧請して創建した。
御祭神は武甕槌神。千波大膳川瀬清久に奉斎を命じたとも伝わる。当時は四日市場南元宿小松塚の地にあり、小松神社とも称えられた。
南北朝時代、貞和4年(1348年)、大崎地方の領主となった斯波家兼が、郡中に5人の祀官を置いた。そのうちの一人が、当社27代千波大膳久基だった。その際は、毎年9月9日に湯立ての儀があり、翌10日に宮城郡松ヶ浜に神輿を下し、海水に禋潔し、還って流鏑馬の式があり、盛大に祭礼を行うのを例としたという。戦国時代になり、天正5年(1577年)、大崎義隆、黒川左頭月舟斎晴氏が鳥居を奉納するなど、大崎地方を治めた代々の領主から厚い崇敬を受けた。しかし、大崎義隆が小田原参陣せず、豊臣秀吉により、領地を没収されると、後任の領主木村吉清は圧政を布き、神事も怠った。そのため、当社も一時荒廃、38代近江種清は御神体を奉じて小野田本郷滝庭奥に非難した。
やがて伊達氏の所領になり、種清はその子である山伏の成就坊永善とともに帰社、永善は珍宝山神宮寺と称した。江戸時代前期の寛永元年(1624年)、先代藩主伊達政宗は社殿修理費を寄進している。寛永15年(1638年)には2代藩主伊達忠宗が社参し、九曜紋付き御手炉・黄金・良材を献じて社殿造営の資とさせ、伊達家九曜紋の使用を許したという。
5月10日が春季例大祭、10月10日が秋季大祭。当社は鹽竈神社を勧請したが、当社境内には、鹿島神宮と同じように要石があることで知られている。
加美郡色麻町の伊達神社、下新田の宇伎須神社とともに、色麻古社三社の一社。鳴瀬川を挟んで三社が三角形を描いて鎮座しているのは、東国三社を模したものだという。
また、境内には「おものめ様」が祀られている。美しい姫と、大蛇が化けた美男子の恋愛譚で、ガマが大蛇の正体を暴き、悲恋となるというストーリー。『古事記』に描かれた三輪山の説話と類似したもので、現在では、恋愛が成就しなかった姫を手厚く祀ることで、縁結びの神としての信仰を集めている。」
「要石」
要石に鹿島の大神が降臨して守護っているから日本の国土はぐらぐらしないと云う意味です。要石は鹿島神社以外の神社には祀られていません。
俗に要石を拝むと云う事は家庭的にも社会的にも精神的には、どんな地震が起きるともびくともしない不動の精神を養うと云う信仰の精神は、すなわち人間の 「へそ」であり其の「へそ」が要石とも云えます。
現在鹿島神社境内に祀られている要石は昭和四十八年故事来歴により奉納された「約十トン」の要石で往古の要石と共に祀られています。 鹿島神社の境内にある要石は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)の象徴として国家の鎮護の石剣として祀られている事は有名です。
この要石は国を鎮める意想で日本国をとりまく「リュウ」を鎮める石剣とされています。
「リュウ」龍は古代では海水を意味し、日本をとりまく「リュウ」が転化してナマズ(鯰)になりました。 地震は地下にもぐった鯰の寝がえりだとされてこの要石は地震ナマズを永遠におさえていると云う 信仰をうんだのです。(日本民族学全集より)
加美町鎮守鹿島神社社殿の西御山下の老杉の根元に要石というのがあります。
安永書上の風土記にも高さ一尺二寸余、廻り四尺八寸余(住古より要石と申伝候事)とあり、頭の方一尺余り出ているが地下の大鯰の背中に達していると云われて来たもの、これは常陸の鹿島神宮の要石に模したものと伝えられます(風土記参照)
常陸(茨城県)鹿島神宮の要石の伝説によれば昔その地方にしばしば地震があり、それは地下に大鯰がいてあばれるからだと云うので、鹿島の神々達が相談の上大きな石の棒(石剣)で鯰の頭を釘刺してしとめました。それが即ち要石で地震の際にはこの要石は殊の外大いに揺れるが どうしても抜くことが出来ないと云われて来ました。我が地方においても大地震はくるけれども鹿島神社には要石が祀られているから昔から大きな災害がないと語り伝えられています。 」
寒風に中、その要石に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「飛び立ちて参り来たりたるこの身にありて、
是より41日、響きを発し行く。
ほのかなる音、その身を打ち行くなり。
写して超え行く。」14時42分
次は今日最後の目的地、大崎市岩出山池月にある荒雄川神社です。今日の宿泊先の鳴子温泉に向かう国道の途中にあります。神社の紹介です。
「主祭神:須佐雄尊と瀬織津姫尊を主祭神として祀る。 宮城県神社庁によれば大物忌神が主祭神とあるが、由緒書や宮司に伺った話では里宮では祀られていないという。
その他に、境内社として山神社(祭神:木花咲姫)と天神社(祭神:菅原道真)、水分社(祭神:水分神)などが鎮座している。
由緒書によると、養老4年(720年)に創建されたという。玉造郡に鎮座する式内社三座のうちの一つである。鳴子温泉郷の鬼首温泉に鎮座する荒雄川神社と対になっており、岩出山池月の荒雄川神社は「里宮(里の宮)」、鬼首温泉の荒雄川神社は「嶽宮(奥の宮)」と呼ばれており、奉斎する宮司社家もそれぞれ別である。
主祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊である。由緒によると、穢れを清める祓戸大神の一柱である瀬織津姫尊は、当社では川の上流を司る水神として祀られたものであり、神社庁の由来にある「大物忌神」の名も、荒雄川の清浄な水の流れを司る神である瀬織津姫への畏敬の念と、水を穢すことへの禁忌の念から名付けられたのではないかという。
里宮の鎮座する地は古来からの聖地であり、境内には縄文時代の祭祀遺跡とされる「荒雄川神社遺跡」があり、神社周辺でも縄文土器や石器などが発掘されている。荒雄川神社が創建された後も神宮寺が併設されるなど、地域の信仰の中心地であった。
前九年の役が起こると、陸奥守鎮守府将軍である源頼義は、安倍一族征討祈願のために大谷孝任を派遣して黄金10枚と黄金造の太刀一振りを奉納している。後三年の役の戦中である応徳三年(1086年)には、源義家も戦勝祈願をしたと伝わる。
嘉応二年(1170年)に藤原秀衡が鎮守府将軍に任命されると、荒雄川神社は「奥州一の宮」と定められた。室町時代になり、奥州探題大崎氏が大崎五郡(志田郡・玉造郡・栗原郡・加美郡・遠田郡)を領有すると「大崎郡一の宮」として篤く崇敬され、社領三十貫文の寄進をうけた。江戸時代には郡内総鎮守へ指定、岩出山伊達家の氏神となった。
寛保3年(1743年)、幕命により、江合川(荒雄川)流域の三十六所明神を合祀したため、荒雄川神社は別名「三十六所明神」「三十六社様」とも称される。明治5年に郷社へ指定。」
境内は積雪があり寒々として風も冷たいです。遺跡を囲んであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「許され来たりた。
是までの多くは是より全てを流し行き、新たへ向かう。
生み出すは皆々様の思いなれば、今お持ちの全てを消し行き、
その身の真を出だされませ。」15時38分
宿は鳴子温泉の豪華ホテルです。16時過ぎに到着し先ずは温泉で疲れを癒しました。今日参加であわ歌拝受希望の方々が受け、その後は豪華な夕食を美味しく頂きました。