2019年2月3日日曜日

1569「傑僧5」2019,2,3

「西有穆山が最も言いたかったこと」
 明治23年、西有穆山は信徒や雲水たちのために「安心訣」というものを著した。信仰に迷う者のために、と奥書にある。「安心」とは、教えを聞いたり、修行を積むことで、心の動く事の無くなった境地のこと。「訣」とは、一番大事なところを一言で言いきった秘伝という意味である。

 第一条
 お釈迦様の功徳が行き渡っているこの世(娑婆)に生まれ、生まれ出る事の難しい人間の身を受け、しかも遭遇することも難しい仏法に出逢えたことは、本当に幸福なことである。
 だから、人間に生まれたあなた自身がこの人生を安らかで有意義な方向に進んで行こうとするのでなければ、いったいどこに向かって生きて行こうとするのだろう。少しも心安らかな境涯を得る事無しに人生を終えるのであれば、鳥やけだものと何ら変わる事は無い。
 安らかで心の豊かな人生を得る事は容易いことだ。それは、あなたの身心に存在する色々な欲、すなわち煩悩を捨て去ることである。
 煩悩を捨て去ることは少しも難しくない。それは、お釈迦様の教えにある三宝、すなわち仏(仏陀)、法(仏陀の教え)、僧(僧団)に対して深く信仰の心で接する(帰依する)という事だ。
 邪な心を翻して三宝の信仰に戻る(翻邪帰正の三帰)とも言う。(以下略)

第十条
 ほとんどの人は気付いていないだろうが、恐るべきものがある、本当に恐るべきものだ。恐るべきものは「因果」というものだ。因果には道理があり、それは少しも誤魔化すことのできないもの、また心の中で少しばかりと思っても欺くことができないものである。
 因果に目を背けて、周囲の人々や社会を欺き誤魔化す生活を送るならば、とうてい心安らかな生涯を送ることはできないだろう。人生の終わりに際して、すんなりと死を迎えることは難しくなってくる。
 もし誤って世間を欺き誤魔化す生活を送って来たならば、それらの行いを懺悔するべきだ。自分でしでかした間違った行いを隠したり、行いに上塗りをして言い訳したりしてはならない。
 人間が生まれ、そして死ぬことはその人の思い通りにはいかない。人生は長いようでもあっと言う間に生死のことは進んでしまう。時は人を待たない。
 自分よりも大きな、大きな仏の功徳の下で、生活を慎み、言動を慎み、飲食も慎みをもって生きていくことだ。仏教徒が心安らかに暮らすためには、煩悩を捨て去り、三宝に帰依することが大切である。
 一つの仏様の名号を唱えなければ心安らかになれないという人は、専ら西方の極楽世界の阿弥陀如来の念仏を唱えて、極楽浄土に往生することを願う事も、また妨げられるものではない。
 自力往生を願う人は、己の心を静かに平らかにして摂め、そのような自分と向き合い高める(止観理入)ことを主として、阿弥陀仏にすがる浄土門を従とする。
 一方、念仏を唱えて他力往生を願う人は、自力の坐禅をしてみるのも良いだろう。両方の考え方をもって仏道に参じてみることも、古の人の例もあり、これまた妨げるものではない。
 自力も他力も、これみなお釈迦様のお説きになったものだから、自分の宗旨は良くて他の宗旨は良くないとかの言い争いをして、お互い誹謗することはしないように。(略)
 ただ一心に南無帰依仏を唱えれば、十方の諸仏自らが哀れみを垂れて救ってくださり、必ずや悪い世界に堕ちる事なく、人生の終わりには安らかな成仏へと導いてくれる因縁が作られるのである。

 穆山が「雪が融けると同時に大悟した」、と言われる。そのことに穆山師は以下の様に話しています。
「振り返ってみると何でもないこと」
 自分がある時結制に行った際、山家の宿に着くと、男衆が洗足のお湯を持って来てくれた。そこにひょっこりと足を入れると馬鹿に熱い。おお熱っ、と言うとその男が側の雪の塊を取って湯の中に投げ込んでくれた。するとシュッと音がして溶けてしまった。
 その時、はてここじゃわいと思うて、大いに得るところがあったような気がしたが、さて後で振り返ってみると何でもない。こんな事は悟ろう、悟ろうと思うてる時には間々ある事だ。それも一時の入れどころには相違ないが、真実に悟ったというのではもちろんない。
 その証拠には、その天狗悟りが拳骨になって、どこへ行っても人に突っ掛かりたくなる。それでは病の上に病を重ねるようなものである。