この遺跡は縄文を代表する北東北の貴重なものでユネスコの世界遺産登録を目指して活動してきている遺跡群の1つです。先月末に以下の決定がなされています。
「本日(令和元年12月20日)、2021年の世界遺産登録をめざし、ユネスコへ「北海道・北東北の縄文遺跡群」の推薦書を提出することについて閣議了解がなされ、縄文遺跡群のユネスコ推薦が正式に決定しました。“世界をめざすJOMON“の大きな一歩です!!」
簡単に縄文の世界を紹介します。
・縄文文化とは
氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代は終わりを告げ、約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。この時代の文化を縄文文化と呼びます。
急速に温暖化が進み、ドングリ類やクリ・クルミが実る豊かな落葉広葉樹の森が広がり、海面の上昇や降雨によって運ばれた土砂の堆積によって、魚介類が豊富に生育できる地形や環境が形成されました。
縄文時代の開始とともに、新たに土器が出現しました。縄文人は、土をこねて思いどおりに形を作り、火熱による化学変化を起こすことで、より強度な容器を手に入れました。それにより、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となりました。「煮る」ことにより、堅いものが柔らかくなり、植物のアク抜きもでき、より多くの自然の恵みを利用できるようになりました。土器の出現は、縄文人の食生活に大きな安定をもたらしたと考えられます。
また、遠くから安全に獲物をしとめることができる弓矢が使われ、魚介を獲るための釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。さらに、イヌが飼われ、植物の栽培も行われるようになりました。縄文時代は、食料を主に狩猟・採集・漁労によって得ていました。
移動生活から定住生活へと大きく変化し、生活の拠点であるムラが出現しました。ムラの中には住居や墓が作られ、やがて地域を代表するような拠点的なムラも現れました。そこには太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設、大規模な記念物である環状列石(ストーン・サークル)も登場しました。
縄文人の平均身長は、男性約157センチメートル、女性は男性より約10センチメートル程小柄で、筋肉質の体をしていたようです。顔は彫りが深く、二重瞼で唇が厚いなどの特徴があったと考えられています。また、縄文人には虫歯が見られることから、デンプン質の食料を大量に取り始めたことが考えられています。鞭虫の寄生虫卵も大量に出土しており、どうも腹痛に悩まされていたようです。足首の関節が変形している場合があり、しゃがむ、蹲踞の姿勢が多かったことが推測されています
縄文時代の始まりを示す最古の土器が青森県から出土していることなどから、現在では東アジアの極東地域で土器が最も早く発生したものと考えられています。
長江下流域では、日本の縄文時代早期にあたる約8,000年前には稲作が始まり、少し遅れて中国東北部でもアワやキビなどの雑穀栽培が始まりました。
ちょうど三内丸山遺跡が栄えた縄文時代中期の頃、世界では、黄河流域には黄河(中国)文明、インダス川流域にはインダス文明、ナイル川にはエジプト文明、ティグリス・ユーフラテス川流域にはメソポタミア文明が生まれ、華開いていました。
縄文時代は、日本列島で本格的な稲作が始まる約2,300年前の弥生時代の開始まで、約一万年間続きました。縄文文化は、非常に長い期間続きましたが、それは停滞でも未発達でもなく、優れた技術や豊かな精神世界を持ち、成熟した社会であったと考えられます。狩猟採集文化が極限まで発達したものと言えるでしょう。
また、縄文人は、現代人の直接の祖先と考えられますから、縄文文化の延長上に現代の生活が成り立っていると言っても過言ではありません。
・縄文遺跡群について
北海道・北東北の縄文遺跡群は、津軽海峡を挟んだ日本列島の北海道・北東北に位置し、縄文時代の各時期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)における、人々の生活跡の実態を示す遺跡(集落跡、貝塚、低湿地遺跡)や、祭祀や精神的活動の実態を示す記念物(環状列石、周堤墓)で構成された17遺跡からなる考古学的遺跡群です。
縄文時代を彷彿とさせる植生や地形など、豊かな自然環境が保全されている遺跡が数多くあり、また、周囲のガイダンス施設や資料館では、発掘調査の状況や、縄文人の傑作とも言える土器や土偶などの遺物が数多く展示されています。
詳しくは以下のサイトをご覧ください。https://jomon-japan.jp/