12月7日から8日で今年最後の木内鶴彦さんとのツアーを開催しました。今回は福島県南の中通り地区の巨石等を巡りました。2019年は福島県の中通りを3回に分けて巡る最後です。今回も巡りは14名で宿泊のみの参加者1名の総勢15名でした。その様子を紹介します。
仙台駅西口に集合して7時に出発しました。今回も福島から参加のOさんを8時20分位に二本松駅でピックアップしました。駅には二本松少年隊の銅像が設置されています。
既に木内ツアーも回を重ね打ち解けた仲間の巡りで和気藹々、楽しそうに記念撮影しています。会津藩の白虎隊ほど有名ではありませんが、戊辰戦争でこの二本松藩では悲惨な少年隊の物語があります。以下紹介します。
「落城に一瞬の華を添えた少年隊
ちょうちん祭りと菊人形展で知られる二本松市。当地は江戸初期から明治維新まで、丹羽氏二本松藩10万700石の城下町だった。別名を霞ヶ城あるいは白旗城と呼ばれた二本松城跡は、中世と近世の城郭跡が同じ所に並存する梯郭式平山城として国の史跡になっている。
維新期に朝廷側から発せられた会津追討令を受けて、藩内では尊王か佐幕かの藩論混乱は当然あったものの、もはや具体的行動を自ら起こす余力は財政的にもなかった。結局、佐幕派の奥州越列藩同盟に義理立てをして旧式武器を携えて白河口へ出陣し敗北した。
その兵力撤収がうまく進まぬ内に、二本松城の防備が手薄なのを官軍側に察知され城下を急襲された。藩では兵力不足を補うべく急きょ13~17歳の少年や老人の志願を受け入れて城の防衛を試みたが、わずか数時間の戦闘で落城したという。
広い馬蹄形城郭の防御は兵力不足状態では、かえって手薄になり脆かったのだろう。藩は就寝中の藩主夫妻を急ぎ起こして他国に脱出させたが、その翌日には早くも落城している。大壇口を守っていた少年隊は鉄炮で善戦したが壊滅した。近くの丹羽家菩提寺の大隣寺には16人の隊士が二本松少年隊の墓として葬られている。
藩主夫妻は脱出後約一カ月の逃避行の後、投降して二本松に戻され隠居謹慎した。家督は養子に譲り、石高を半減されて決着した。しかし城も城下も焼け落ち、多数の藩士を失い、どうしようもない惨状のまま廃藩置県や廃城令を迎えた。」
「戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算すると言う入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)という独自の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。
八番組組頭・丹羽右近率いる大壇口守備隊の大砲方銃士隊として編成されていた木村銃太郎指揮下の25名が特に有名である。木村は、藩の西洋流(高島流)砲術師範であり、隊士は彼の父・木村寛治の開いた木村道場の塾生であった。26日朝ないし27日朝に編成を命じられ、27日夜に編成を完了した。大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷し新政府側の野戦病院として使用されていた称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。
戊辰戦没者五十回忌では、少年のみで構成されていた木村隊の21名に別隊からの編入者4名を加えた25名を指すものとしていた。ただし、藩内各地に出陣した他の隊でも主に鼓手として少年兵が所属しており、1926年(昭和元年)に刊行された「二本松藩史」以降は彼らも包括して二本松少年隊と定義することとなった。現在では、1981年(昭和56年)までに明らかとなった高根三右衛門隊3名、丹羽右近隊2名、大谷与兵衛2名、大谷志摩隊2名、大谷鳴海隊2名、日野大内蔵隊2名、樽井弥五左衛門隊4名、朝河八太夫隊1名、その他所属部隊不明の22名を加えた合計62名を定義している。なお、当初木村隊のそれは幼年隊と呼称されていたようである。
二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所がある。また二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っている」
なんとも今思うと無益な戦いとしか思えない悲惨な結末です。藩の主体性のないままに時代に飲み込まれ翻弄され、幼年の貴重な命が失われたのです。二度と繰り返さない叡智が必要です。