・大宝律令の以前・以後
時間軸で見たときに気になるのは、やはり副川神社が建立されたとされる701年~704年の前後のことです。この時期の歴史的出来事といえば、先ほども紹介した「大宝律令」の制定及び施行です。
「大宝律令」は朝廷の中央集権体制を固めるために定められたもので、当時朝廷の支配が及んでいた全地域に一律に施行されました。このタイミングで副川神社ができたことは、偶然とは考えにくいでしょう。そこには、政治的な意図が見え隠れします。
(おそらく)神道以前から独自の山岳信仰の対象となっていた副川岳(神宮寺岳)に朝廷が神社を配置することで、その土地古来の信仰を神道にすり替える意図があったのではないかと言われています。
大宝律令と時期を同じくして神社が建てられたということは、この時期、まだ秋田は朝廷の影響の少ないところにあったはずです。(なお、県内の式内社のうち、最も早く建立されたのは塩湯彦神社で、672年建立とされています)もちろん地理的に遠いことにも由来するでしょうが、それよりも注目すべきは「蝦夷」の存在です。
「蝦夷」が討伐されたのは、坂乃上田村麻呂の時代でした。
坂乃上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷を討伐したのが800年ごろです。つまり、「大宝律令」が施行された時期には、まだ蝦夷は東北で勢力を保っていたことになります。
副川神社と時を同じくして秋田県内に建立された式内社は、いずれも県南部に位置します。
したがって、このあたりが朝廷の(蝦夷に対する)前線付近だったと推測できるのではないでしょうか。
横手盆地が稲作地として非常に優れていたことにも注目すべきでしょう。秋田県を含む北東北は全国的にも稲作の普及が遅れた地域ではありますが、その後横手盆地は安定的に米がとれた、と聞きます。
いまだ謎多き遺跡・払田柵も横手盆地の真ん中に位置しており、秋田の式内3社もこの横手盆地を囲むように位置しています。このあたり、神宮寺のルーツを探る上で大きなターニングポイントになるのではないかと思います。
・今、そこに町があるということ
こう考えると、今この時代に町が存在するということは、何らかの歴史的背景なしに語れないように感じられます。東北は「陸奥」と呼ばれていました。朝廷を中心としたとき、東北は日本の端っこにあったのです。それは今でもあまり変わりません。赤坂憲雄氏は、東北は食料庫 となることを半ば強制されたと綴っています。
日本史の教科書を読めば分かるとおり、東北は多くを語られることはありません。しかしながら、大和政権の歴史以前を想像するとき、縄文時代からの豊かな暮らしの名残が感じられると言われています。
僕は、自分にはどうすることもできない”縁”によって、神宮寺の地に生まれ育ちました。
受け継がれたこの”縁”を受け入れて、きちんと自分の代のものにしたい。探究の面白さ以上に、大いなる流れの導きの下、ルーツを巡る旅はこれからも続いていくことでしょう。」