これは「二本松藩第7代藩主丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、藩士の戒めとして旧二本松城の入り口にあたる場所(現福島県二本松市郭内3丁目)に設置した石碑。一夜のうちに自然石(花崗岩)の露出面に刻まれたという。1935年(昭和10年)12月24日、国の史跡に指定された。」とあります。
「二の丸から山頂に至る斜面には大規模な庭園が造られていた。そこには傘状の赤松や多くの古木及び桜・藤・ツツジなどの花木が植えられ、安達太良山から二合田用水によって導水された水を利用する滝や池が配されている。そこには江戸時代からの茶室・洗心亭もあり、今では周囲一帯が霞ヶ城公園として整備されている。なお二合田用水は城内と城下の水不足を解消するため、約370年前に造られた。
二本松城は室町時代に奥州探題だった畠山氏がここに城を築いたことが始まりとされる。その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏などの所領を経て、江戸時代(寛永20年[1643])に10万石で入部した丹羽氏により石垣や城下町を整備し、現在残る二本松城を築き上げた。
丹羽氏は織田信長の重臣・丹羽長秀を中興の祖とする外様大名である。長秀は豊臣時代には123万石を領したが、長秀没後は紆余曲折を繰り返し一時は領地を没収された。長秀の孫に当たる光重が二本松入部した時にようやく10万石余までに回復し、その後225年間は転封もなく幕末維新期を迎えている。
しかしその内実は、入部後比較的早い時期から財政難の連続だった。それは長秀時代に蓄えた財宝の消耗を狙う徳川幕府の政策によって次々と課せられた賦役と、ひんぱんに発生する凶作や火災などによる巨額な出費に起因する。殊に江戸中期以降、当藩財政は破たん状態に追い込まれ、藩内の人心はすさみ、藩としても崩壊寸前の様相を呈したという。
再三実施された財政再建や改革の努力も、産業振興策が不十分だったのと保守反対派の抵抗によって殆ど成果が出なかった。
二の丸入り口の巨石に彫られた国の史跡「旧二本松藩戒石銘碑」は、倫理的に崩れ行く士風をなんとか立て直そうとした試みの証拠といえよう。」
城をぐるりと回り二の口の石碑に到着しました。巨石が鎮西しています。案内を読み、石碑を見ますが字が薄くて読めません。内容は以下の様です。
「幕末の戊辰戦争では旧幕府側(奥羽越列藩同盟)につき新政府軍による攻撃を受け、二本松城は落城した。江戸時代の建物はほぼ無くなったが、近年整備が続き箕輪門(櫓門)および天守台石垣が復元された。
巨石の中央をよーく見ると、漢詩が掘り込んであるのが分かる。寛永己巳之年(つちのとみのとし、寛永二年)に彫られたようだ。
「爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺
寛延己巳之年春三月」
ざっと読むと、
「俸禄は民の膏脂。民を虐げるのは易しいが天を欺くのは難しい。
日々頂いている給料は元は領民が苦労して得た利益を元にしている。
民を騙せても天はお見通し。気を引き締めて公務に取り組め。」
と言うことだろう。不正公務員や号泣議員は100万回読むべし。」
木内さんは初めて戊辰戦争での二本松の有り様を知ったようです。令和の時代は同様な大転換期に思えます。古の先人の功徳を思い、単なる美談として感情的に受け止めるに留まらず、今己が為すべきことを行う。その覚悟が必要なようです。木内さんは半ばボーっとしていますがその様な処し方が良いのかもしれません。