2020年2月6日木曜日

1939「南福島巨石巡り10」2020.2.6


2、「烏石山」三つ石
次に、マウンドの様なこんもりした山、これが今回の主眼なのであるが山の名は「烏石山」という。山と言う程のものではない。

  

 マウンドの右端にあり突き出た様な石で烏が口を開けた様に見える所から「烏石」と付けられたという。それにしても三つの右端の烏石がこの山の名前とは面白い。特長を捉えたからなのだろう!真ん中の石は庚申岩、左端はその形が楕円であり中央部が割れている所から「大満好石」転じて「女石」更に転じて現在は「弁天岩」という。


 頂点に弁才天の石塔が立てられており最終的にその名の原としていた訳である。ここの石斜面に「奉庚申供養磨崖仏」があり、上部に日体、月体、下部に三猿と講中拾 人の文字が線彫りされていたというが現在は判読できない。この地区には確認されているだけで、石塔37基、石像7基、磨崖5基が確認されているという。
 この烏石山の三つの石の形状について、鈴木光さんが語るには「90年間全く変わらず、親にも聞いた事があるがこれまた昔から変わっていない、」という事であった。その様な百年や二百年の年月の単位ではないのではないか。古代から変わらずあったかもしれない。
 右端の烏石は真ん中の庚申岩から割れたに違いないが、意図的に割って3つにしたのかもしれない。
 このマウンド=烏石山が道路を隔てた山と続きであったのかという事が疑問であったが、昔からこのままで、山とは続きではなかったという事であった。ただ、間に道路があるという事はかつては続きであって、踏み固められくぼみ、道路として整備補修されてその面影を無くして続きでないように出来上がったのかもしれない。仮に続きであったとしても、大体、山と言っても転がり落ちるほど勾配の急な、しかも高い山ではないのだ。とすれば山から転がってきた訳でもない。
 ましてや仮に転がり落ちて来てもこの様に三つ並んで(・・後で割れたか割ったかであれば2つが・・)納まるなんて事はありえない話である。…であるならば、ここの三つ石はここに初めからあったか持ち込まれたか!という事になる。
 ましてや周囲の地に、既述の「立石&烏帽子石&第3の石」の三つ石の他は、こうした巨石が存在してないのである。
 とすれば立石と烏帽子石と同様運ばれて配置されたとしか考えようがないではないか!。
しかしまた、この巨石を運ぶ事等、先ず常識では考えられない事である。この巨大な石の上に立って見られるがいい、現実的に全く不可能と思えるからである。でもこのマウンドに立った三つ石の全体像を眺めて頂きたい。不思議な感覚に陥る事である。
 この巨大な石を運んで配置した訳でもないとしたら、何故、これほど人為的な臭いがするのであろうか。こういったものについては、どう見ても明快な答えが出ない。勿論文献などに書いてある筈もない。初めから人為的な移動などありえない事として頭から否定されてしまう。当然の事である。
 しかし、何度も言うようで恐縮であるが、考えられるのは只一つ、「現代の能力では不可能だが人間が運んだとしか考えられない」と思われる事なのである。こういった事は、例えが大袈裟で適切ではないかも知れないが、オーパーツの類で、現代の力をもってしても移動不可能と思えるパールペックの超巨大石「南方の石」と同様ではないだろうか。不思議は世界中に存在するのである。
  


 後ろの山と言っても転がり落ちるほどの高さは全くないのだ。何処から見てもマウンドにそっと置かれたように見えるではないか!
 誰が何の為に、どうやって!の答えが出ない。古代人の英知によるものか!等と言うと与太話として笑われる!だが、私はオリオン星の信仰から来たに相違無いと思うのだ。


 その為に700m離れた岩角山麓に転がっていた石を運んだのだ!(これは想像の域を出ず強引過ぎるか?)こうしたものは、現代感覚しか持ち合わせていない我々の常識的な考えからは及ぶものではないのではないか!
 唯一考えられる事は、マウンド上の三つ石も初めは一体になっている巨岩だったが、元々出っ張った形をしていた上の石が長年の風雨で削られて二つの石となって姿を表し、そして又一つが二つに裂け(裂けたか裂いたか、これは確実だと思われる。)、そしてこの三つ石だけが徐々に現在の形になっていった。初め一体であった周囲の巨岩も全体として削られ二つの石を押し上げる格好でいつの間にか草木の土で覆い隠されてしまった、と。 自然は時として我々の計り知れない魔法を見せてくれるので、ないとはいえないが余りにも出来すぎで信ずる訳にはいかない。