2020年2月14日金曜日

1947「南福島巨石巡り18」2020.2.14

 次の目的地は須賀川市の鉾衝(ほこつき)神社です。福島県中央部を南西に下ります。ここは祭祀遺跡がみられる所で、以下の様に紹介されています。

「鉾衝神社        須賀川市桙衝字亀居山97
 当社の所在する亀居山(=「神居山」)には古墳時代後期の祭祀遺跡が存在する。
東峰東側の中腹に桙衝神社が東面して鎭座し、その背後の山頂の突端部に俗称要石と呼ばれてゐる巨岩(磐座)がある。背後の丘の祭祀遺跡「磐座」?

 鉾衝神社は亀居山をご神体山とした神社で、約2000年前に日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折に柊の八尋の矛を突き立て武甕槌命(タケミカヅチノミコト)を祀ったことに始まる伝承があります。 ご祭神はタケミカヅチとヤマトタケルの二柱。神名帳考証では穗己都久命(ほこつくのみこと)というワダツミの孫で安曇族の祖にあたる方が祭神となってます。
 本殿背後の山頂突端部分に要石と呼ばれる磐座がありまして、そこから古墳時代後期の祭祀遺物が出ているそうですが、ここが本当に素敵な磐座で 神社の詳しいご由緒は大火で焼失してしまったようですが、弘仁12年には弘法大師がやってきて亀居山上の厳石に「不動」の梵字が浮かび上がったことから、霊地とし、麓に長光寺(現:長楽寺)を建立したなんていう伝説もあるという歴史ありげな神社です。江戸期には鹿島神社と呼ばれていたようで、山門には鹿島神社の表札が。
 そうそう長光寺の弘法大師ですが、長光寺から丑寅の方角に夜な夜な光る塚があるから、怪しいと思って掘り起こしてみたら神鉾が現出したので秘蔵しちゃって、祭神のご霊代として崇めたそうですよ。
 しかも清和天皇の御代には蝦夷討伐で蝦夷人を殺し過ぎたことの、怨霊の崇りを恐れ、色々な所で祈祷したらしいのですがね、この長光寺でも衆を集め読経して、経典や法具などを埋めたそうです。
 ご神体山の亀居山ですが亀居=カムイを連想してしまいます。実際、上の磐座はとてもまろやかで女性的な瑞々しいエネルギーをしているのですが(個人的な感想ですよ)下の神社はかなり男性的で武張ったかんじ。まあ、御祭神があのお二人だしね。そしてお寺に至ってはなんかいやに開けてて変な感じなんですよね~。なので、下から上がってくると「あ、ここ踏み入って大丈夫なところだろうか?」と心配になるのですが、上まで登り切っちゃうとなんか妙に軽くなる。麓・中腹・山頂でまったく違ったエネルギーです。
古墳時代、もしくは縄文の頃からの聖地を神社(タケミカヅチ&タケル様)と寺で二重封印しているような気もします。時代や理由はそれぞれだろうし、このおかげで上が守られてる部分もあるだろうし、良い悪いとは一概に言えないですけど。
 ところで私の中でタケルさまは東征したヒーロー(関東・東北側から見たら悪人なのか)ではなく、なんかどっか物悲しいイメージもあるのよね。実は「タケル」は中央の人間ではなく、もともと東側のもののふたちの総称で、後から中央の歴史の都合のいいように作り変えられた説もあります。そう仮定したとして、きっとタケルズ達の中には、阿弖流為のように最後まで徹底抗戦の人もいただろうけど、中央に屈して仕方なく同族と戦うことになった人もいたのかもと妄想してみました。でも中央の蝦夷・東国・辺境経営の歴史と切っても切り離せないのがタケルさまかな。
 東北のタケル様関連の場所を巡っていると蝦夷の抑え…もともと蝦夷やそれらの人と融合していた人々の聖地であった場所に、中央からの圧力があったように感じます。
 もしタケルさまがどちらかというとこっちサイドの人なら、三輪山の祭祀を大田田根子に任せたように、抑えとしての神もしくは巫女は同族でなければならなかったのかもしれない、なんて妄想してしまいました。」

 長々とした引用ですが、「本殿背後の山頂突端部分に要石と呼ばれる磐座」が目的地です。長い参道を登り進み、立派な社殿を左手に曲がり山道を進みます。結構、杉枝等で道は荒れています。山頂のイワクラから見下ろすと山裾に巨石が拡がっています。木内さんも興味深げに探索していました。
 これは縄文の頃からの祭祀場の様です。やがて大和王権の支配が及んで神社が聖地に祀られて封印されたのでしょう。