「鹿島神社 白河市鹿島8
福島県白河市にある。白河駅の南東2Kmほどの鹿島に鎮座。阿武隈川と東北本線に挟まれた場所。鳥居から、木々の参道が続き、石橋の先に神門がある。参道の両脇の道の横には、淡島神社と金比羅神社。神門をくぐると広い境内。正面に社殿がある。境内右手には、「仙道 三十三観音 第二十七番札所」という石碑があり、観音堂らしき建物や、石仏があった。当社の神宮寺だろうか。
社殿の右手には、境内社・松尾神社。左手には樹齢1000年以上の御神木や月讀尊の石碑と小祠が二つ。
社伝によると、宝亀年間(770年代)光仁天皇の御代の創祀。弘仁二年(811)正月九日、坂上田村麻呂東北遠征の折に、常陸国鹿島大明神を勧請し、白河郷総鎮守とした神社。
御神体は、小田切・瀬上の二剣で、「韴霊神剣」というらしい。
式内・白河神社の論社の一つ。とすると、鹿嶋が勧請された後、延喜の頃(十世紀)まで、白河神社と称していたことになるが、いつ、現在の社名に改称したのだろうか。
当社は、「日本三鹿嶋のひとつ」らしい。一つは、茨城の鹿島神宮だろうが、もう一つはどこの鹿嶋神社だろうか。 神紋は三つ巴。
当社の提灯祭は、日本三大提灯祭の一つらしい。残りの2つは、新潟・弥彦神社の燈籠祭と愛知・一色諏訪神社の提灯祭。」
「宝亀年間(七七〇~七八〇年)光仁天皇の御代この地に祭られ、弘仁二年(八一一年)坂上田村麻呂が東夷征伐の際、改めて常陸国鹿島大名神を勧請した神社で、白河地方の総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として、戦勝を祈願したと言われています。延喜式神名帳(成立九二七年)にのこる式内社でもあります。その後も歴代城主の尊崇あつく、城主自ら奉幣、参籠し、祭田や社殿の寄進もありました。文明十三年(一四 八一年)時の城主小峯政朝が神社において一万句奉納の連歌会をおこないました。著名の連歌師宗祇が西国からはるばるこの地にやって来たのも、この会に出るためでした。このことは、当時の白河地方の文化が相当高い水準だったことを示しています。文化三年(一七八三年)松平大和守により『鹿嶋大神宮』の額が、また大正十四年(一九二五年)海軍元帥東郷平八郎により『鹿島宮』の額が奉納されています。この両額は今も神社の正面に掲げられています。寛政七年(一七九六年)には松平定信公より『楯無しのよろい』(市文化財)も奉納されています。明治四十三年(一九一〇年)不幸にして火災にあい、 建造物、備品のほとんどを焼失しましたが、大正元年(一九一二年)再建され、現在に至っています。また、古来より歌枕にある転寝の森(うたたねのもり)は、当神社の飛地境内で、東へ三百メートル程のところにあります。」神社の由書より
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立派な社殿の神社の参拝もそこそこに、社殿左手裏にある磐座に向かいます。神社の脇にはご神木の樹齢1000年の杉の大木があります。その奥の神社の裏手の森は神体山(しんたいさん)で「甕(みか)の森」と言われています。
石垣に階段が設けられていて階段を上り山裾の道を進んでいくと「猿田彦大神と月読尊の岩座」があります。縄文時代から信仰されている大きな岩で、この磐座では古代から祭祀が行われた場だとされています。
沈みかけた夕陽が木々の間を抜けて差し込んできます。巨石が光を受けて金色に輝いています。巨石の下の狭い道を上りますが行き止まりで引き返し、光と戯れました。きっとこのご神体山のすそ野からこの巨岩を拝し祭祀を行ったのではないでしょうか。