「日枝神社・巨石・巨石手水鉢・岩洞窟 郡山市西田町三町目字山王169
115号線日和田から小和滝橋を渡り右折し、磐越自動車道郡山東に行く途中の左脇小道に入った所に日枝神社がある。入り口には船石を思わせる大きな手水鉢がある。
手前の階段を登ると拝殿前にこの巨石があり、神殿を覗き込むような形をしている。
坂上田村麻呂が東征の際、京都の若狭太郎なる武士が守護神「日吉大権現」を背負い従軍し東奥を平定し、田村麻呂は帰朝したが若狭は土着して、この山王山に神霊地を選び建立し守護神を安置し、岩神社山王大権現と崇め祀官となり時代を経て日枝神社となった…とある。
本殿は岩の洞窟の奥に鎮座している。若狭はこの神殿前の巨石と岩洞窟から神社名を「岩神社…」と名付けたに違いない。」
上の説明はあっさりした内容ですが、この神社の特徴は社前に鎮座する人面岩の存在です。以下のサイトではより掘り下げて検証しています。
「郡山市の日吉神社・不思議な人面岩の謎と坂上田村麻呂」
日枝神社はそもそも日吉神社の名で祀られていてその縁起は坂上田村麻呂により若狭太郎が命を受けてこの社を祀りました。その経緯を知る事が出来ます。以下簡単に抜粋して紹介します。
「古来より日吉といえば猿、日吉神社の神猿さんは魔除けの象徴です。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです。
神社の前にそそり立つ人面岩の顔のような岩の正体は猿だと言います。由緒書きには「藤原氏若狭太郎という武士が守護神の日吉大権現を背負って従軍し、東奥を悉く平定しました」とありますから、かなり強い意思と強い信仰心を持って戦ったことになります。
さらに京都の大極殿跡から比叡山頂四明岳を結ぶ線を地図上に引いその線をどこまでも延長するとなんと、ほぼこの延長線上に、福島県郡山市の日吉神社が位置しているのです。
これが意図的なものなら、平安京という都の鬼門を守るのが比叡山(日吉大社や延暦寺)
平安京を含む当時の日本を蝦夷という鬼門から守るのが郡山の日吉神社という明確な国家的意思があったのではないでしょうか。
一方、このころの出来事を年表にするとこうなります。
789年 紀古佐美の率いる朝廷軍が阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗
794年 平安京遷都
797年 坂上田村麻呂が桓武天皇により征夷大将軍に任じられる
801年 遠征に出て蝦夷軍に勝利
さらに郡山市日枝神社の伝承では、若狭太郎が「山王山に神霊地を撰しまして守護神を安置し、岩神社山王大権現と崇め祠官となりました。」とされるのが800年。
この時代の情勢を考慮すると、激闘の末蝦夷軍に勝利し、やっと広げた領土の守り神として、平安京と同じ日吉大社の神を鬼門封じの社として設置するというのは、十分ありうる話だと思います。
しかし、本家の日吉大社の神様は、「金大巌」に降臨しました。分霊にも、それ相応の神聖な岩が必要です。そんな時、若狭太郎が見つけたのが、大きな岩盤を背に、人か猿のようにも見える磐座があるこの地だったのでしょう。
坂上田村麻呂にとって「大山咋神」とは、自分を誕生させてくれた神であり、平安京の鬼門を守る神でもあります。自分が苦労の末に平定した東北地方に、領土の守り神として「大山咋神」の分霊を招くというのは、坂上田村麻呂自身が考えた可能性すらあります。
私には「若狭太郎よ、あとは頼んだぞ」と、忠実な部下に東北の安寧を守る神を託し、自らは都に帰る田村麻呂の姿が見えるような気がします。」
鬼門封じの驚きの意図を持って祀られた神社です。暢気に巨石珍しさで私達は参拝しました。鳥居を過ぎて直ぐに巨大な船岩の手水鉢があります。参道の階段を上ると社殿があります。
左手に巨大な人面岩、猿岩が鎮座しています。果たして自然な物なのか、切り出したものなのか、不思議な存在です。境内を散策し参道を下り宿に向かいました。