2020年2月22日土曜日

1955「南福島巨石巡り26」2020.2.22

 破石を後にして白河市に向かいました。目指すは「感忠銘・白川城跡」です。以下の様に紹介されています。

「感忠銘・白川城跡           白河市藤沢
感忠銘碑は、白川城の東部搦目(からめ)山にある高さ7.6m・幅2.7mの日本有数の磨崖碑です。
 文化4年(1807年・江戸時代)、搦目の庄屋内山官左衛門重濃が、南朝時代の名将結城宗広・親光親子の忠烈を後世に伝えようと考えました。そこで、岩壁に白河藩の儒学者広瀬典の撰文「賀孝啓一千里啓」を記し、題字として、白河藩主松平定信より与えられた「感忠銘」の三文字を刻みました。残念ながら風化が進んでおり崩落の危険があるため、現在は立ち入り禁止です。遠目からは「感忠銘」の三文字だけ読み取ることができ、全文は白河市歴史民族資料館に拓本で収められています。」


 白河市にはこの白川城跡と白河城跡の2つの城跡があります。
白川城跡
「文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている。
 祐広の嫡子の宗広は、後醍醐天皇の命により新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、建武の中興(1334)を実現させた。その後、南北朝時代には義良親王(のりながしんのう)・(後村上天皇)を奉じて、北畠顕家と共に、北朝方の足利尊氏と戦った奥州南朝派の中心人物である。
 白川城の存在した時期については、明らかではないが、南北朝時代の文書にその名が見られることや、「山城」という城の形態から、築城年代は南北朝時代と考えられる。また、永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定される。」

 国道脇に駐車場があり柵の向こうの崖、そこに感忠銘碑があります。その文字は肉眼では確認できません。


案内には以下の様に記されています。

「白川城は別名搦目城(からめじょう)ともいう。
 白河市街の東方、阿武隈川の南に連なる丘陵にあり、中央から北にかけて遺構群がある。山頂の平坦部には空濠と土塁があって、御本城山(館山)といわれ、ここが白川城の中枢部にあたる。それより北に半島状に伸びた二つの出丸があり、その下の谷を下門入という。これが搦手で、搦目城の名の起源といわれている。御本城の東には谷を隔てて鐘撞堂山、その東には美濃輪という谷がある。感忠銘碑のある絶壁の南には馬乗場、さらに南にひとつの壇跡があり、今は稲荷神社を祀っている。御本城山の北西方の字藤沢山には、延文五年(一三六〇)銘の供養塔が出土した平坦地があり、その他約二〇ヘクタールにわたり遺構が現存している。
 源頼朝の奥州合戦ののち、白河庄の地頭職となった結城氏は、宗広の代になって威を張り、子親光と共に南党(吉野方)の柱石として本城により勇戦し、元弘三年(一三三三)には太守義良親王と陸奥国司北畠顕家を白川の地に迎え、建武二年(一三三五)の西上、延元元年(一三三六)の下国、さらに延元二年再び西上と、本城は南党の重要な拠点となった遺跡である。
 感忠銘は城跡の一部である北東の搦目山二番地の断崖に、宗広・親光父子の忠烈を後世に伝えるため、内山重濃が文化四年(一八〇七)に白河城主松平定信の感忠銘の三文字を得て、広瀬典の撰文、千里啓が書いた磨崖碑である。  福島県教育委員会」

 強風が吹き寒さが震えながら暫し往時を偲びましたが、その親子の忠烈を「感忠銘」としてこの巨岩に刻んだ思いは数百年の風雪の時を経て知る由もありません。参考までにその全文を紹介します。
「感 忠 銘
蔚然深秀、在我白河東者、結城氏墟也。我望之而有所感焉。元亨建武間、士氣衰苶、天下擾々視利避就。獨宗廣・親光、忠烈凛々、憤發唱義、欲率天下而與之。不幸弗克、以殞身。然猶東州士民、知戴南朝之天者、實亦其力也。一時忠烈、楠公之外無能耦焉。而今吾民鮮知其爲州人。奚以興千餘風。内山重濃家於墟下。損財爲予勒銘、表而出之。公嘉斬擧、題賜三大字。以刻上方。嗚呼二子之忠魂、數世後得此偉標焉。其必含笑於地下。吾輩亦與有榮也。銘曰 峭乎此山。維石巉々。渓風肅然。劍佩夜還。踪蹟不刊。輝映千年。民莫自棄、國能生賢。 文化四年秋九月 廣瀬典謹識  賀孝啓謹書
(読ミ下シ文)
蔚然(ウツゼン)タル深秀(シンシウ)、我ガ白河ノ東ニ在ルモノハ、結城氏ノ墟(キヨ)ナリ。我之ヲ望ミテ感ズル所有リ。元亨・建武ノ間、士氣衰苶(スイデツ)、天下擾々(ゼウゼウ)トシテ、利ヲ視テ避就セリ。獨リ宗廣・親光、忠烈凛々、憤發シテ義ヲ唱ヘ、天下ヲ率ヰテ之ニ與セント欲ス。不幸ニシテ克(カ)タズ、以テ身ヲ殞(オト)セリ。然レドモ猶東州ノ士民、南朝ノ天ヲ戴クコトヲ知レルハ、實ニ亦其ノ力(チカラ)ナリ。一時ノ忠烈、楠公ノ外ニ能ク耦(ナラ)ブモノ無カリキ。而ルニ今吾ガ民其ノ州人タルヲ知ルモノ鮮(スクナ)シ。奚(ナン)ゾ以テ餘風(ヨフウ)ヲ興サンヤ。内山重濃墟下(キヨカ)ニ家ス。財ヲ損(ス)テ予ヲシテ銘ヲ勒(ロク)セシメ表(アラワ)シテ之ヲ出ス。公斯ノ擧ヲ嘉シ、題スルニ三大字ヲ賜フ。以テ上方ニ刻ス。嗚呼二子ノ忠魂數世ノ後此ノ偉標ヲ得タリ。其必ズヤ笑ヲ地下ニ含マン。吾ガ輩モ亦與ツテ榮有ルナリ。銘ニ曰ク、峭乎(セウコ)タル此ノ山。維石巉々(コレイシザンザン)。渓風肅然(ケイフウシュクゼン)。劍佩(ケンバイ)夜還ル。踪蹟(ソウセキ)刊セズ。千年ニ輝映ス。民自ラ棄ツルコト莫(ナ)クンバ、國能ク賢ヲ生ゼント。」