2020年2月1日土曜日

1934「南福島巨石巡り5」2020.2.1

 次は同じ二本松市安達ケ原にある観世寺 鬼の岩屋 ドルメンです。七尋山の巨石を出る時にトイレ休憩の要望があり予定変更して先に安達ケ原の道の駅で暫し休憩です。ついでに夜の二次会用の日本酒などを仕込みました。道の駅から観世字は道路を隔てて直ぐです。
 先の台風19号の被害があったようで、道路には被災した家財がうず高く積み上げられています。お寺も水害があったようで、何時もの拝観料は無しで無料で開放していました。
 以下の様に紹介されています。

「観世寺 鬼の岩屋 ドルメン       二本松市安達ケ原4丁目126
 

 今もなお、謡曲や浄瑠璃、歌舞伎などで語りつがれる「安達ヶ原・黒塚」の鬼婆伝説。その舞台となったのが、阿武隈川のほとりにある天台宗・真弓山(まゆみさん)観世寺(かんぜじ)である。
 神亀3年(726、奈良時代)、鬼婆を退治した那智東光坊の僧、祐慶阿闍梨(ゆうけいあじゃり)の開基と伝えられ、境内には鬼婆が棲んでいたという笠石や夜泣き石、安堵石などの巨岩が散乱し、血なまぐさい鬼女伝説の面影がしのばれる。
 本尊は阿弥陀如来。観音堂には僧・行基作と伝えられる秘仏・白真弓如意輪観音像が祀られており、60年ごとに開帳される。
 100mほど離れた川の畔には、鬼婆を埋めたという円形の塚「黒塚」があり、傍らに
みちのくの 安達ヶ原の黒塚に鬼こもれりと 聞くはまことか
 と刻まれた平安時代中期の歌人・平兼盛(生年未詳~990)の歌碑がある。
 『石の宗教』の著者・五来重の『鬼むかし』(角川選書)の中に「安達ヶ原の鬼婆」伝説に関する気になる記述がある。「安達ヶ原」の地名は、京都の鳥辺野(とりべの)と並ぶ風葬の地「あだし野」(化野)と同じ語源であり、「安達ヶ原は陸奥ならずともどこにでもある、死者を棄てた葬所の「あだし野」であった。」というもの。
 よって「安達ヶ原に鬼女が居るという昔話の根源は、「あだし原」に死霊が彷徨していて、そこを通る者に取り憑いて害するという恐怖観念にほかならない。この霊魂観念と恐怖観念が「鬼一口」という昔話のモチーフを生んだのである。」と解説している。
 「鬼一口(おにひとくち)」とは、鬼が人を一口で喰らうことをいう。戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で、人が命を落とし行方知れずが頻出することから生まれた異界伝説のあらわれと解釈される。
 安達ヶ原の巨石群は、古代の巨石信仰の場から、平安期に入り葬送の地のメルクマールへと変遷したのものではないだろうか。そう思うと積み重なる巨石群が、鬼のつくった積石墓のようにも見えてくる。
以下に「安達ヶ原の鬼婆」伝説のあらましを紹介する。「鬼一口」をモチーフに、後半部には「見るなの座敷」の形態が加わる。
【安達ヶ原の"鬼婆" 伝説】
 鬼婆の名は「岩手」と言った。岩手は京都の公卿屋敷に奉公する乳母であり、彼女の可愛がる姫が不治の病に侵される。占い師は「妊婦の生き肝を食わせたら治る」という。岩手はこの言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。しかし、妊婦の生き肝がたやすく手にはいるはずもない。遠くみちのくまで旅し、いつしか辿り着いた場所がここ安達ヶ原の「岩屋」であった。
 岩手はこの岩屋を宿とし、生贄となる妊婦を待った。ある日、生駒之助、恋衣(こいぎぬ)と名のる若夫婦が宿を求めてきた。男は幼い頃に生き別れた妻の母を探して旅をしているという。女は身籠り、産気づいている。男は産婆を探しに外に走った。
 生肝を取るのはこの時とばかり、岩手は出刃包丁で女の腹を裂き、胎児から姫のための肝を抜き取った。
 息絶えた女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚愕する。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。自ら殺めた女は、他ならぬ我が娘だったのである。あまりの出来事に、岩手は打ちのめされ発狂する。以来、旅人を襲っては生血を吸い、人肉を喰らう鬼婆と成り果てる。」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/fu_kanzeji/kanzeji.htm

 境内には鬼婆が住んだ岩屋と言われる巨大な笠岩が際立っています。元気な面々が岩の上に登りはしゃいでいます。回遊出来て、巨石公園の様で楽しく過ごしました。











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