2017年8月9日水曜日

1026「繋がり自立9」2017,8,9

 2日目はテンメイ大和農場の大和亭で「縄文クリエイトワークショップ」です。
 朝から良い天気に恵まれました。9時過ぎに天命舎前に集合して車に分乗して大和農場へ向かいます。前々日に農場の草刈を終日しましたので綺麗になっています。10時に到着して大和亭でワークの始まりです。その様子をお伝えします。


「縄文のイメージは皆さんどんなでしょうか。今、教科書から縄文が消えて行っているようで、弥生に直ぐ行く感じです。
 縄文の頃は自然回帰で、自然が貴く、敬い、生きた世界です。彼らの生活は定住していて、狩猟し、作物を栽培していました。主に粟、稗、蕎麦、小豆などです。集落は村です。そこは生まれてくる場で沢山ありました。
 縄文時代はどれ位続いたのかですが、約1万年以上です。しかし歴史には2000年しか残っていないのですが、もっと長い期間だした。
 この大和の地から出た土器の欠片や石斧があります。この大和の地も縄文の頃に栄えていたところです。我々に記憶は無いのですが、古いDNAにいた先祖です。彼らの特徴は人を殺す武器はないのです。武器は獣を殺めるものしか出ていないのです。
 縄文から弥生に移りました。違う集落との関わりがおきました。
 私は「わ」と言い、相手は「な」と言いました。「わ」と「な」は調和の意味です。男女間ともそうです。住み分けしましたが殺める必要が無かったのです。
 縄文晩期では、中国では争いが起き、国を追われて多くの人々が日本へ流れてきました。その為、昔は仲良く住み分けしていたが、そういう訳にも行かなくなってきました。それは約600年で起きた変化でした。そこでは沢山の血を見ました。縄文の民には武器が無く、戦えなかったのです。彼らを受け入れて、やがて縄文は終焉し、弥生になって行ったのです。
 縄文では、精巧な装飾的な土器が出来ていました。それだけ手間を掛けて作れる暇があったのです。しかし弥生の土器はシンプルです。暇が無かったのです。大変な時代で、襲われるのでさっさとするしかなかったのです。精巧な土器は平和で暇で無いと出来ないものなのです。
 今、忘れていた縄文の血が蘇って来ています。その神様を、瀬織津姫と言ったのです。その本拠地が東北です。そして同時に、大調和の血も目覚める時です。

 今日は縄文人になってワークをします。私達の血の奥にある祖先のもの、その見えない血の奥にある大調和の思い、祈りの思いです。子孫の私達はこれからどうなるのかを心配する事無く、その思いを蘇らせるワークをします。

 先ず次の質問に答えてください。私はAかBか。
1、 A,血液型O型    B,それ以外
2、 A、顔が四角い    B,丸型、楕円
3、 A,顔の掘りが深い  B,のっぺり
4、 A、えらが張っている B、張っていない
5、 A,目が大きく丸い  B,細く一重まぶた
6、 A,眉毛が太く直線  B,薄い
7、 A,毛が濃くて多い  B,薄い
8、 A,唇が厚い     B,薄い
9、 A,耳垢べとべと   B,乾いている
10、A、耳たぶ大きい   B,小さい
11、A、指紋波状     B、渦巻き、くるくる
この答えでAは縄文系、Bは弥生系です。果たしてどちらが多くありましたでしょうか。Aが沢山の方は縄文系が濃い方です。

日本は人種の坩堝で様々なものが混じっています。日本の縄文時代は1万年続いた文明ですがが、歴史上そう出来ないのです。そうなると日本は凄い所になるので困ってしまうのです。しかし、その事実を知ればびっくりするものです。世界で一番進んでいたのでした。