2019年5月31日金曜日

1686「日本再生4」2019.5.31

 天皇は沖縄によく行くが沖縄にはものすごい秘密がある。それは潮満と潮干の珠で、龍が口の中に入れて持っている最高の武器です。その珠は悪魔を一瞬で亡ぼす潮満と潮干の珠です。潮満の珠は潮かさが増し、潮干の珠は減るものです。
 これは神功皇后に関係あります。応神天皇が神功皇后の息子です。太平記に朝鮮出兵の事が書いてあります。神功皇后が船団を引き連れて朝鮮に向かい、その時、国の真ん中まで海水が押し寄せ、襲い進んだとあります。最後の神が使う武器は津波なのです。
 「あとべのいそら」と言う神様で海底に住んでいる神様です。龍宮城は沖縄にあると言われ、そこから潮満、潮干の珠を借りて神功皇后が持って行ったというのです。
 津波が来たら大変だ。あまり変なことしているとそれで決着つくことになります。
「令和」の最初の2年でどうなるか分かります。大正から昭和に変わった時は3か月後に金融大恐慌が起き、それから2年で満州事変が起きています。
 2020年になると分かります。森ラクビー協会名誉会長が辞めました。未だにワールドカップの準備が出来ていないのです。もう既に「令和」の時代が始まっています。

 現実の話。米英日独仏加オーストラリアでは経済は不景気です。長期金利が下がっています。上がると経済良いのですが、唯一イタリアだけ上がっていますが、それはイタリアは左翼政権で中央銀行を国有化しようとして投資家が逃げているので金利が上がっているのです。
 米国の短期金利は1か月満期高止まりです。未だ金融引き締めが続いています。トランプは金利下げよと言っているのです。中国も駄目です。アメリカはドル安にして輸出を増やすことを狙っている。米国ファーストだ。
 FRBも簡単に利下げしたくない。リーマンショック並みの事が来るのを待っている。クラッシュ待ちで、金融高止まりで、やがて弱って来るのでもうすぐ来ます。

 増税を延期し金利を下げる事になるのは、時間の問題です。次のクラッシュから何かが始まります。
 外交交渉は結果が出る為にするもので、問題解決の為のものです。
 過疎化、高齢化対策でお金を出しますが、それが自分の利益に成るのでやるのです。政治家等は自分の金儲けでそういう政策をしています。それを作文が上手い人がやります。屁理屈でお金を出させるのです。ですから日銀、財務省の金庫は人脈と屁理屈でお金が出るのです。最終的に誰に出すか、それは人脈です。
 外交も同じです。軍備、貿易、温暖化も同じで、出す方も、貰う方も両方で金儲けをしているのです。その結果、今本当の交渉が分からなくなっています。

 米国は赤字を減らしゼロにしたい。他国とトントンにしたいというのがトランプの考えです。ですから日米間では米国が日本車の輸入を辞めるか、農産物を日本が輸入するかです。日本はトヨタ利権を守る為にやっているのですが米国はそれを許さないのです。ですから大制裁が来ます。トヨタが米国に工場を作ることにしましたが、それにトランプは、「おめでとうと」コメントしました。普通は、「ありがとう」というところです。

 後は為替で調整することになります。米中では中国への赤字は減り、トランプ効果がありました。良い悪いは別に、輸入を止める為に関税を掛けるのです。しかしゼロに成らないので最終的に為替条鋼を提案することになります。
 米国の戦争屋が日本についているのでトランプに強気ですが、しかしぶっ飛ばされてしまいます。物品協定だけでなく為替、サービスも入ることになります。参議院選挙前に交渉が始まりました。来週、財務大臣が出ますが、米国のライトハイザーは80年のプラザ合意をした人です。日本の後ろの戦争屋をトランプが叩き出したら、日本には何もない。何も出来ないです。満州の終わりの時と同じで時間の問題で何も出来ない。

2019年5月30日木曜日

1685「日本再生3」2019.5.30

 一元論と二元論があります。自分が正しく、成功しよう、良い悪いの二元論は物事を進める運動をする原理になるのですが、宇宙は元はひとつです。これから経営、政治は一元論が分からないと出来ないです。二元論は動かす為の方便でしかなく、全部はひとつ、右も左も老若も皆同じです。同じ船の上に乗っているので、そのことが分からないとリーダーが出来ないのです。
 二元論ゲームで行けるのは時代の大枠が決まっている時だけです。それをしていると、中で喧嘩をしているうちに全部なくなり、イギリスの様になり、国が無くなってしまいます。
 皆で未来へ行く道を作るのがリーダーです。一元論は天に通じる道が分からないと駄目です。天とイメージが通じていないと駄目なのです。ゲームに勝ち、良い事をし、学問が正しい、しかしそれでは成功しないのです。

 神はあるのか?と言っているがそれは間違いです。成功も失敗も1つでしかなく、所詮この世での神劇で、勝ち組、負け組のどちらもやる事なのです。自分の損得でするから駄目です。世の中の道、崩壊した大化けの日本を建て直すことです。その道にしないと太平和楽、持続可能にならないのです。
 その道を進むためには、この事が分かるリーダーでないと務まらないです。平成は二元論の分かるリーダーでゲームが上手く行った人を選んだのです。しかしその時代は衰退するしかありません。それでは天に向かって突き抜けないのです。次はそういうリーダーは一切いらないのです。
 トランプや、松井は人が選んだリーダーではなく、何処からか出て来た人達です。秀吉は乞食だった。北条も良く分からない出自だった。一元論の凄い時に、神仏がその人の後ろに見えるかどうかだ。だから学歴ではない。何が後ろに付いているかです。
 これから全世界が「令和」になります。

 ノートルダム寺院が火災に成りました。旧約聖書、新約聖書、イスラム経典は共通経典で、その中味はおどろおどろしい世界です。
 ノアの預言は神と契約をした事です。経済の事を書いていますが、7年で借金はチャラにしろとあります。50年に1度、お土産を付けて天に土地を返せと。貧しい人をほっておくと安住出来ないとも書いています。しかしモーゼの預言に反した事をしていたのです。
 気が付いたらずれている。神との契約を土台にやって来たのに嘘をやっているのです。もう有り得ない事をしていて、これでは終わりです。寺院の十字架が残ったので、最後は神が助けてくれるだろうが原点に戻る必要があると実感します。彼らは肚が座っていないので恐れがあるのです。

 ノストラダムスの大予言にノートルダム寺院の火災が書いてありました。今回その星の位置がぴったりです。これから第2幕のスタートだ。
 ノストラダムスは1555年に正夢を見た事を書いています。正しいか分からないが、どう西洋世界が終わるかが書いてあるのです。第1幕は911で終わり、次に出ているのは恐怖の大魔王で、テロが出て来た。そして第2幕がおそらくこれだ。あっという間に、あれよあれよでないのかと思う。
 ヨーロッパにとんでもない大津波が来る。米軍が中東で戦争して負ける。そして最後のハルマゲドンで負ける。米国の東海岸とヨーロッパが水没して無くなる。モーゼの預言に反して無くなったソドムとゴモラの時と同じだ。最終は隕石が焼け落ちた。


2019年5月29日水曜日

1684「日本再生2」2019.5.29

 今日は平成最後の勉強会です。平成の30年間で印象的な事は、自民党と東大が地に落ちた事です。天地が引っ繰り返って、ゆっくり落ちて来ました。世界的なエリート層が暴落してきました。米国もIBリーグの大学の不正入試で揉めています。英国もそうです。その中でトランプも大阪維新の会の松井もこれまでと違うタイプの人が今、世界を動かしています。
 このことは天地が引っ繰り返ったことで、これから面白い展開になります。常識に捕らわれず、学問が通じない時代です。戦国大名もそうだったのですが、彼らは仏僧を避けたから良かった。仏教などの既得権益を避けたのです。
 竹中平蔵はどっちに転んでも自分にお金が入れば良いというレベルだ。魑魅魍魎だ。日本は歴史が古いのでそんなことでたまげない。だから面白い。

 「令和」の年号は凄い。平成と違う時代です。「令」は初めて年号に使われました。この文字は、膝まづいて神の声を聴くという表意文字です。ここでいきなり神が出て来るのです。ですから物凄いものになるのです。
 パリのノートルダム寺院が焼け、皆が祈っていますが、それは将に「令和」の姿で良い事です。元号の出典は万葉集ですが漢字で書いてあります。そこには中国の影響があります。
 万葉集の巻きの1の1は雄略天皇から始まります。万葉集は既得権益でない人達が読んだ歌です。雄略天皇は既得権益者を粛清し、民を思う気持ちがあった方です。呉服を持って誘致した天皇です。これから全部大掃除です。民の事を思いイノベーションをする。そして悪は追放するのです。
 百人一首は天智天皇だ。元号が始まったのは大化で645年です。大化とは「おおばけ」です。中国の制度を入れたので化け物になったのです。今でも化け物で、その中に立派な人が出て建て直ししようとしたが駄目だった。争いばかりで明治以降は特にひどい。太平和楽にならない。縄文時代は戦争がなかった。

 梅の花が出て来ました。桜は春で、梅は政治の革新の事を言います。天皇が何をしたいかが分かります。大宰府と梅は菅原道真です。菅官坊長官はひどい。甘利や、外務大臣も神奈川だが皆ひどい。転じて梅です。大宰府の延寿王院に石碑があります。
 900年経って最後に明治維新が始まり、ここ延寿王院から大室虎次郎も京都へ向かったのです。これは南朝革命で元に戻したのです。しかし西郷が居る内だけでした。やがて道真の想いが実現する。世を覚醒させます。
 孝明天皇は岩倉と伊藤に殺されました。孝明天皇が令の字を使いたいと言っていたのです。その提案は高辻家で道真の直系だったのです。
 これで全部揃った。全部ひっくり返そうという事です。明治は全部嘘ばっかりで、大正は大きく正す意味だが短く終わり小さく正す位だった。

 もう一つは大本の出口なおのお筆先に梅があります。明治25年正月にある、「三千世界一度に開く梅の花」です。なお、王仁三郎は予言を書いています。こうして作り直すと。丑寅金神が、東北に埋められている鬼が出てきて立て替え建て直しをすると。立て替えは神の仕事で、建て直しは人の仕事です。
 準備をしておかないと間に合わない。神と学の力比べで神には叶わない。これから物理学が変わる。凄い事になります。

 米国の軍隊が撤退し、金融が終わり、建て直しが必要です。これからいろいろ出て来ます。「令和」はびっくりが多いが、良く見ると不思議な事ではない。視点が狭いと怖い。


2019年5月28日火曜日

1683「日本再生1」2019.5.28

 藤原直哉さんは稀有な能力をお持ちの新時代のリーダーです。私も2002年からワールドレポートを定期購読し、藤原学校に通って学ばせて頂きました。仙台にも講演に何度もお越し頂き、天命塾で濃厚なスペシャルなお話をご縁の皆様にいて頂いていました。
 藤原さんの活動は多岐にわたりますがNPO法人日本再生プログラム推進フォーラム(NSP)を組織され理事長として活躍されています。NSPは以下の様な内容で活動していますが、設立時に私も入会させて頂いています。

設立趣意
私たちは、日本の経済を真に活性化させるために、内需中心に十分に雇用があり、地方の繁栄、高齢化への対処、国際競争力の向上、温暖化問題への対処が同時に達成できるまったく新しい経済の枠組みを創造し、提言することを通じて、日本全体のあらゆる活力を高めるための活動を実践しています。私たちは、日本の経済が真に活性化するためには、新しい思想と技術のもとに日本の都市計画を抜本的に作り直し、まったく新しい日本の都市と田舎を作り直すことが必要だと考えています。そしてその地域固有の産業とライフスタイルを大いに振興させて、あらゆる地域の活力がみなぎらなければならないと考えています。

活動内容
私たちは目的を達成するために、次の種類の特定非営利活動を行います。
1、社会教育の推進を図る活動
2、まちづくりの推進を図る活動
3、学術、文化、芸術又はスポ−ツの振興を図る活動
4、環境の保全を図る活動
5、災害救助活動
6、地域安全活動
7、国際協力の活動
8、情報化社会の発展を図る活動
9、科学技術の振興を図る活動
10、経済活動の活性化を図る活動
前各号に掲げる活動を行う団体の運営又は活動に関する連絡、助言または援助の活動
https://nipponsaisei.jp/

 平成の最後2019年4月20日 第41回NSP時局ならびに日本再生戦略講演会に参加してきました。午前の藤原直哉さんの時事解説・時局分析だけの参加でしたがその様子を紹介します。
 演題と配布されたレジメは以下です。
人間性尊重による偉大なる共生社会の実現ー原点回帰の日本再生/ 藤原直哉
(1)令和の日本 
・すごい元号
・令和の日本と世界に予感されること
・ノートルダム寺院の大火災
・潮満、潮干の珠

(2)始まった日米通商協議 
・利権分配のための協議ではなく結果を出すための協議
・米中協議では米国の対中輸入が著しく減少
・農産物、クルマ、為替
・第二次プラザ合意は不可避

(3)バブル崩壊と金融財政 
・バブルが崩壊して世界中で投資資金枯渇
・日銀の緩和に出口なし。実質破綻待ち
・政治は右から左へ大きくシフト
・弱者救済のための巨額財政出動へ

(4)政治の新しい潮流 
・地域ファースト、世代ファーストの潮流
・平成で天から地に堕ちた自民党と東大卒業生
・荒削りの戦国大名型リーダーが台頭中
・日本と世界の歴史の継承

2019年5月27日月曜日

1682「南三陸22」2019.5.27

 涌谷町の箟峯寺から仙台駅に向かいますが、最後のミーテイングを涌谷町の天平の湯の休憩所で行いました。ソフトクリームを食べながら皆さんの旅の感想を述べて頂きました。その内容を紹介します。

・S、Hさん:「予想以上に楽しかったです。6月の次回ツアーは既に申し込みしていますので宜しくお願いします。」

・F,Mさん:「昨日は海、今日は山。雪景色も見れて最高に楽しかったです。ありがとうございました。」

・I,Fさん:「皆さんがエネルギーが高くて、お陰様でリラックス出来た旅でした。ありがとうございました。」

・O、Mさん:「今回のツアーには木内さんが居て良かったです。以前参加した時は木内さんのいないツアーだったのです。色んな方と出逢い、話せて良かったです。多くの事が必然と感じました。又参加したいと思います。」

・G、Mさん:「木内さんは嵐を呼ぶ男です。一番印象に残ったのは震災復興した佐藤造船所さんを見学出来た事です。田束山の雪景色良かったです。」

・O、Hさん:「今回は体調が良くて、皆さんと巡れるのは楽しかったです。今回の海は私の地元で色々説明が出来て良かったです。」

・K、Hさん:「桜満開の所から参加してこちらはとても寒かったです。雪景色も良く、旅を満喫出来ました。」

・S、Uさん:「大久保先生の旅の企画と木内さんとのマッチングが良かったです。佐藤造船所さんが印象に残りました。佐藤さんの自然への想い、愛を感じました。これから生態系が回復していく事を願っています。それと田束山の雪景色がとても良かったです。すべてがありがたい旅で、お陰様で自己を見つめる貴重な旅になりました。」

・S、Aさん:「春なのに冬を味わい、海、山と満喫できました。大久保さんの話しを聞きたかったのですがあまり話せなく残念でした。でも平成最後の良い旅でした。」

・O、Yさん:「佐藤造船所の復活みれて良かったです。天候も変化あり、景色、食べ物も良く、皆さんの話しを聞けて良かったです。」

・T、Oさん:「ありがとうございました。運転手をして2日間、皆さんと話が出来て良かったです。その人しか持っていない内容を教えて頂けました。木内さんとも話せて、村での疑問も聞けて良かったです。これから実践して行こうと思います。」

・T、Sさん:「木内さんが俺も64歳だと言いますが何歳の時に出会ったのか。ずいぶん時間が経ち皆が年を取りましたが、今回は終わりの始まりで、平成と共に終える旅でした。 
 自然、宇宙、地球で起こる事々は相似形で、何かが現れる時は木内さんと一緒で、歪みあり混乱があります。前回は福島の昭和村でしたが木内さんの見た未来と現実との間をもっと真剣に考えないと駄目だと思います。しっかり自覚して、ただ楽しいだけのツアーで無く、もっと本気になる必要があるのではないか。これから皆で何をするかだと思います。今回はとても面白い集いだったし、意味のある事だったと思います。」

・木内鶴彦:「今年は変化の年です。平成の終わりで、これから不安もあるかもしれないが国民で頑張って行くことが大事です。どのようにして食べて行くのか、食の事も考え、産業構造もこれから大きく変わる。そうすると老後も自力で仲間内でやって行く事も必要な時代が来る。なんたってこの星は宇宙船地球号だし、ここの環境を良くしていく事が大事だ。 
 その為のモデル事業をして行きたい。そこでは今まで無い事、常識に無い事を楽しくやって行く。そして自然の中で学び応用力の効く学び屋にして行く。皆で学ぶ努力を自分でし、新しい村づくりをして行く。それは未来に見て来たからでなく、皆と意見を交わしてながらやっていく。
 それがいよいよ今年から始まる。それは間違いないのではないかと思う。これからも一緒にやっていきましょう。」



 仙台駅には20時頃に到着して解散です。実り多い旅を無事に終える事が出来ました。皆さまありがとうございました。次回は2019年6月7日木内講演会「待った無し!始めよう循環型社会作りをno2」、8~9日は「木内さんと巡る南東北巨石の旅1」です。ご縁の方の参加をよろしくお願いいたします。
6月7日木内講演会 http://genkiup.net/seminar/seminar333.pdf
6月8~9日は木内さんと巡る旅 http://genkiup.net/seminar/seminar334.pdf

2019年5月26日日曜日

1681「南三陸21」2019.5.26

 南三陸の巡りも最後の目的地になりました。遠田郡涌谷町にある箟岳(ののだけ)観音 箟峯寺(こんぽうじ)です。先の大嶽山興福寺で示した、遠流志別石神社、大嶽山と直線上に結ぶ箟岳山(ののだけ)にある観音堂です。ここは以下の様に紹介されています。

・箟岳観音 箟峯寺 遠田郡涌谷町箟岳字神楽岡1
「奥州三十三霊場第九番札所として有名な箟峯寺の所在地は、古来殺生禁断、女人禁制の聖地で、大門から一歩ふみこめば、罪人も捕らえられなかったと言われ、ただ一つの村外地でした。
 箟岳観音は奥州三観音の一つで、大同2年(807年)坂上田村麻呂建立と伝えられ、本尊は十一面観音像(秘仏)で、三十三年に一度ご開帳されます。前回は平成20年(2008年)にご開帳されたので、次回は平成53年(2041年)です。
また、1月には県重要無形文化財・白山祭が行われ、その行事の一つ御弓神事(おゆみしんじ)は稚児が矢を射てその年の天候を占います。
4月上旬から中旬にかけては『かたくり』の花が境内において見頃を迎えます。7月は石仏広場において炎の祭典・採燈大護摩供が執り行われ、箟峯寺一山総出仕のもとに「除災・招福・諸願成就」を祈願します。11月から12月にかけて山全体の紅葉が始まり、紅葉の名所としても有名です。観音堂手前の仁王門に安置されている仁王像は、その表情から別名「微笑み仁王」とも言われ広く愛さています。」


更にここはこの巡りの1日目に紹介した松島町の富山、石巻市の牧山と共に奥州三観音の一つで、この3点を結ぶと正三角形を形成しています。以下の「縄文時代早期の海岸線」の図にこの3観音を配置するとそれぞれ岬の先に位置しています。1200年前に坂上田村麻呂により建立された奥州七観音の内の三観音を決める地形的見立てが出来ていた事は驚くべき知識があったと推測できます。多くは蝦夷たちの聖地であり、そこを死守する為にそこで亡ぼされたのではないか。そしてそこを封印し鎮魂の為に観音堂を祀ったのでしょう。

 以下が奥州三観音、奥州七観音です。
 坂上田村麻呂ゆかりの観音像をもつとされる。以下が、「奥州三観音」だ。
・大仰寺(だいぎょうじ):富春山大仰寺、臨済宗 松島町、奥州三十三観音第7番
富山観音と呼ばれる。松島四大観の一つ(麗観)本尊は千手観世音菩薩、坂上田村麻呂開基、延暦年間の建立
・梅渓寺(ばいけいじ):両峰山梅渓寺、曹洞宗石巻市牧山の中腹、奥州三十三観音第8番
本尊は聖観世音菩薩(牧山観音)、無尽天全和尚開山、貞治2年(1363)創建
大嶽丸の妾魔鬼を征誅し供養したとある。牧山は魔鬼に通ずる
・箟峯寺(こんぽうじ):無夷山箟峯寺、天台宗 涌谷町箟岳山頂、奥州三十三観音第9番
本尊は十一面観世音菩薩(箟岳観音)、坂上田村麻呂開基、大同2年(807)建立
古来、殺生禁断、女人禁制。大門より一歩入れば仙台藩で科人を捕らえられなかった
 
奥州七観音と呼ばれるものがある。やはり坂上田村麻呂祈願のものと伝えられるようだ。
 大嶽観音(登米市南方町、興福寺、奥州三十三観音第10番)
 箟岳観音(上記)
 長谷観音(登米市中田町浅水、長谷寺、奥州三十三観音第24番)
 富山観音(上記)
 牧山観音(上記)
 小迫観音(栗原市金成小迫、勝大寺、奥州三十三観音第22番)
 鱒渕観音(登米市東和町米川、華足寺、奥州三十三観音第15番、馬頭観

 箟峯寺に着いた時が丁度17時でした。観音堂を参拝し奥の見晴らし台に向かいました。三郎杉、四郎杉、夫婦杉と巨大な杉が鎮座しています。「おくのほそ道展望台」からの眺望は格別で実り豊かな田畑が見渡せます。










 盛沢山な南三陸の巡りの旅を無事に全て終える事が出来ました。お陰様です。

2019年5月25日土曜日

1680南三陸202019.5.25


 次の目的地は登米市南方町の大嶽山(おおだけさん)興福寺(こうふくじ)です。以下の様に紹介されています。

「奥州三十三観音大嶽山興福寺 南方町の大嶽山には「大嶽の観音さん」と呼ばれ親しまれている 度重なる焼失で古い記録もなく由緒は不明ですが、一説では平安時代に一帯を支配していた豪族・大武丸(おおだけまる)を807年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が討伐。その亡きがらを葬った塚の上に観音堂を建てたのが始まりと伝えられています。
 観音堂の内陣には、伊達家の紋章である「竹に雀」が施され、奥には33年に一度だけ開帳される「本尊・秘仏十一面観音菩薩」がまつられています。また、観音堂外側の板壁には、中国の「二十四孝物語」の彫り物が色鮮やかに刻まれ、休日には多くの観光客が訪れます。
 そのほか、観音堂の周囲には、薬師堂、白山堂、鐘楼、六角堂などがあり、それぞれ歴史を感じさせています。毎年4月には大嶽山春まつりが開催され、「稚児(ちご)行列」などが行われます。」

「奥州三十三観音 第10番札所 天台宗大嶽山興福寺は大嶽山観音堂が本堂です。
 寺伝によると観音堂は大同2年(807)坂上田村麻呂の創建です。坂上田村麻呂が奥州平定の戦いでの戦死者の遺骸を7か所に分散埋葬し、その場所に観音堂を建立したと伝えられている。その一つが大嶽観音堂であり、箟岳観音、長谷観音、富山観音、牧山観音、小迫観音、鱒渕観音と合わせて、奥州七観音と呼ばれています。
 開山以来、修験の道場として栄えてきたが、戦国時代兵火により焼かれ、一時中絶しましたが、元和2年(1616)現在の亘理郡山元町坂本より来山した修験僧永盈(えいよう)和尚が別当となって荒廃した寺塔の復興にあたり中興の祖となりました。
 当地方が伊達政宗の所領になってからは佐沼は要害の地として、家老津田豊前景康の領地となりました。津田氏は大嶽観音の名跡を重んじ、深く尊崇に勤めました。四代晴康の時、伊達綱宗の祈祷所になった。
 宝永5年(1709)落雷により再び焼失したが、伊達綱村により再建された。
 もとは羽黒山に属したが、明治維新となって神仏分離令により興福寺と観音堂は一時分離されたが、昭和15年観音堂は再び興福寺に帰属し、以降は興福寺の本堂となりました。
御本尊十一面観世音菩薩は五尺四寸五分(167cm)台座と後光合わせて十尺(300cm)の木造です。宝永7年(1710)仙台北山覚範寺門前の仏師次郎左右衛門の作です。
脇侍には不動明王と毘沙門天が祀られています。
 秘仏で、次の御開帳は平成29年(2017)7月15日~17日です。
 観音堂外側の板面には、中国から伝わった古今の二十四孝物語が六枚、彫り込まれ、その欄干には、十二支が彫られて、堂の方位が示されている。 中国の二十四孝物語は江戸時代寺子屋で日常生活のしつけの教科書として使われておりました。 建築年代は宝永年間と推定される。
 六角堂は明治21年観音堂再建に先だって明治17年に建設されました。 屋根が六角形であることから六角堂と呼ばれています。 寺院には珍しい洋式建築様式を取り入れた二階建土蔵造り。 興福寺には観音堂、六角堂のほか薬師堂、白山堂、鏡楼、庫裏、があります。
このお堂の外壁にも絵が描かれています。興福寺には正門、赤門、黒門の三つの門があるようです。」

 田んぼの中に小高い山があります。それが大嶽山でここに興福寺があります。広大な敷地です。寺門を入ると直ぐ左手に六角堂が目に入ります。洋風な造りで二階の欄干の青色が目を惹きます。
 坂上田村麻呂に討たれた豪族・大武丸の亡骸が埋葬された地の上に観音堂が建立されていると言います。観音堂の壁画は見事です。一周してその絵の物語を回覧して学べます。
観音堂にもしっかりした階段の参道と山門があります。








 何ゆえに大和王権が俄かに奥州に触手を伸ばし支配しようとしたのかは多分に「金」に関係がありそうです。以下面白い記述がありますので紹介します。

「そういえば、一関でも大武丸の話がありました。それで、やっぱりこれは「金」もからんでいそうな話で。金くさい…わけです。
 そして、直線上に結ぶと、箟岳山(ののだけ)、大嶽山、遠流志別石神社(おるしわけいしじんじゃ)があった。遠流志別?これまたアイヌ語のような名前。ハイシワケと似ている。
遠流志別石神社境内に、黄金山神社も祀られているのです。やっぱり金なんですね。
 この先を北上すると一関、平泉です。
 大嶽山へ行く途中の道は、のの岳、黄金山神社を通ります。そうすると、大嶽山の森の感じや雰囲気が、のの岳に良く似ていると思いました。大嶽山という山名からして何かありそうです。しかも、この寺社のそばに「石神社」というのもあります。」

https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/e0ca1f8372a1ff7ed11b74cc4fec0824

2019年5月24日金曜日

1679「南三陸19」2019.5.24

 次の目的地は登米市石越町にある遠流志別石(おるしわけいし)神社です。以下の様に紹介されています。
 
・遠流志別石神社(おるしわけいし)      登米市石越町北郷中沢81
「宮城県登米市にある。石越駅の西3Kmほどの北郷字中沢に鎮座。4号線から北へ入った場所。小学校の西。緩やかに下る道路の脇に参道入口がある。
 参道を歩くと、鳥居があり、鳥居の右手に、「金華山 黄金山神社」と扁額に書かれたもう一つの鳥居が建っている。奥には、黄金山神社と刻まれた石碑。
 参道をさらに進むと境内。境内の奥に社殿があり、拝殿の後方に、流造の本殿。本殿の後方に、三個の岩が転がっており、注連縄が掛けられていた。当社は、通称「石神様」と呼ばれており、この岩が御神体なのだそうだ。
 和銅二年(709)、巨瀬麻呂蝦夷征伐のおり、従者であった近江国栗田郡の建部氏が本社を再興し、代々奉仕してきたが文治五年(1189)藤原泰衡滅亡に伴い社殿退廃。
 安永年間(18世紀後半)田辺希元の調査により式内社・遠流志別石神社であることが明らかとなり天明六年(1786)、小野寺新右衛門によって再興された。
 祭神は、倭健命(日本武尊)。異説として、邑良志別君の祖神を祀るという説もある。」 

「遠流志別石神社縁起
 遠流志別石神社は登米郡石越町北郷字中澤に鎮座し、縁起式内社栗原七座の一つと言われ、古くから石神様と呼ばれ広範囲に亘って篤く崇拝されて来た神社である
 古書によると景行天皇の皇子日本武尊東征に際し、伊勢の御姨倭姫命が天照皇大神より伝わる明玉を尊に「之を頭上に戴き赴くべし」と授けた。やがて東国を平定するに及び明玉は霊石と化したのでこれを祀った。この霊石が子石を産み五十の数に別れた故にこの地を石子石の里と名付け、後に石越となったこれが石神社の起りとされ石越の名の由来となっている。
 これとは別に神社東方の丘から産出する礫石が風雨に晒される事により、小石塊を周囲に散らしあたかも石が子を産んだ様相を呈するのを見て自然崇拝であった当時の住民はこれを神として祀ったものと推察されるという説もある。

 遠流志別=オルシベツ=とはアイヌ語で「大きな川の流れの側」を意味している。
 古代石越丘陵の北面一帯は大河の如く中田方面に向けて蛇行していたものと思われ、その流れの側にある富崎周辺の地名になったと想定される。
 その根拠として続日本紀巻七に霊亀元年十月陸奥蝦夷のオルシベツの君宇蘇弥奈(遠見
邑=富崎=に住む住民の長で爵位第三等)が香河村(岩手県胆沢町か)に移り住むことを
願い出て許された。という記載がある宇蘇弥奈が移住した後も遠流志別石神社として信仰されて来たものであろう。
 文治年中社殿荒廃し伝承の文書も失い、ただ石神明神と称して来たが、安永年中仙台藩儒者田辺希元の調査に依り遠流志別石神社と判明した。天明六年中澤の住人小野寺新右衛門社殿を再興し、寛政七年社地を献納文化元年拝殿を造営した。天保十一年正一位に明治六年郷社に列せられたが昭和二十一年社格は廃止され今日に至っている。
 ここに改めて縁起のあらましを記して後の世に伝えんとするものである。」

 この神社の社殿の奥に不思議な石が祀られています。三方を石の塀の様に囲い、中には左程の大きさで無い、1m弱程の長さの石が鎮座しています。果たしてこれが上記にある御神体の石神様かも知れません。
 かつては蝦夷の地で大和王権に支配されてこの様な形で神社として祀られてきているものです。石神様が神籬として如何様に働かれているのが、取次の霊能者がおられるのか・・。









2019年5月23日木曜日

1678「南三陸18」2019.5.23

 午後の最初の目的地は登米市東和町米川にある竹峯山華足寺です。以下の様に紹介されています。

竹峯山大悲院 華足寺          登米市東和町米川字小山下2
「竹峯山大悲院 華足寺は真言宗智山派智積院の末寺であり、本尊は馬頭観世音菩薩である。坂上田村麻呂祈願の奥州七観音のひとつと伝えられる。
 華足寺の山門は、寛政11年(1799)伊達家9代周宗公の祈願により建てられ、210年以上の歳月が立っている。平成4年10月、県有形文化財に指定された。
 屋根は前に数回修理され、更に昭和51年に全部ふき替えした。その他は全部元のままの姿で、棟の魔除けの龍は対になっている。今日の日本では出来ないといわれる逸品である。

 寺伝によると807年(大同2年)、坂上田村麻呂が蝦夷征討で当地を訪れた際、戦没者の霊と戦死した愛馬を慰める為に馬頭観音(馬頭明王)を勧請し、愛馬を埋めた塚の上に堂を造営したのが始まりとされる。以来、牛馬の守護神としてそれらに従事する者や関係者から信仰の対象となり奥州七観音の1つにも数えられた。
 平安時代には奥州藤原氏の庇護を受けたが、1570年(元亀元年)に焼失した。江戸時代には仙台藩主・伊達氏によって再興され、1661年(寛文元年)に4代・綱村から寺領を、1787年(天明6年)に8代・斉村から馬頭観音堂を、1799年(寛政11年)に9代・周宗から山門をそれぞれ寄進されている

・山門
 山門(楼門)の屋根は正面3間・側面4間、重層、入母屋造本瓦葺。過去数回修理され更に1976年(昭和51年)に吹き替えられたがその他は創建時(1799年)のままの姿であり、棟の魔除けの龍は対になっている。又、右には増長天、左には多聞天の四天王2神を配し、二階には十二支の守り本尊八神像を安置している。1992年(平成4年)に宮城県から有形文化財に指定された。

・客殿
 木造平屋建桁行8間、梁行5間、屋根は入母屋造、色瓦葺(もと茅葺)、石場建、玄関の間口は2間、奥行は5尺ほどある。建築年代は不明。特徴は玄関の位置が正面ではなく端に設けてあること、床面の向きが通常のものとは逆向きとなっていること、天井が竿天井であること、近隣では見られない欄間の造りとなっていることなどがあげられる。山門と同日に宮城県から有形文化財に指定された。

・馬頭観音堂
 馬頭観音は動物燐憫の守護仏であり、馬の霊場としては日本最古と伝えられる。古には三十数ヶ寺の末寺を有した名刹であったが戦国時代の戦禍により焼失した。現在の本堂は伊達斉村に再建された。1989年(平成元年)に東和町(当時)から文化財に指定された。」

 華足寺は坂上田村麻呂所縁の奥州七観音の一つで、奥州三十三観音の15番札所です。七つの観音堂の棟上げに坂上田村麻呂が立ち会ったと言い、この馬頭観音堂での棟上げの後に愛馬「郷黒」がここで亡くなったとあります。
 馬頭観音堂を建立された華足寺は24ヘクタールの広大な敷地を有するお寺です。境内には池があり弁財天が祀られてあります。何といっても山門は見事です。





 巨大な牛の鋳物があり、牛馬の守護としての馬頭観音の御利益を願っているのでしょう。
 馬頭観音堂には古い絵馬が張り付けられてあります。






2019年5月22日水曜日

1677「南三陸17」2019.5.22

 昼食会場は南三陸町入谷字桜沢にある「ひころの里」です。以下の様に紹介されています。

「伊達藩養蚕発祥の地・入谷にあるスポット。江戸時代に建てられた代表的な住宅「松笠屋敷」や養蚕の歴史を紹介する「シルク館」があり、民話の紹介や各種体験などが行われています。
 南三陸町の入谷地区は、仙台藩養蚕発祥の地として絹の生産で栄え、その繁栄をしのぶことができるのが、旧入谷村の村長も務めた須藤家の邸宅「ひころの里」です。「ひころ」とは「ひかり」の意味。座敷からは遠く保呂羽山を借景に、四季折々の美しい眺めを楽しむことができます。
 地元の素材にこだわった料理を提供しています。山里の幸を盛り込み、里の温もりたっぷりの「ひころ膳」はお勧めです。地産地消の美味しい料理です、一度ご賞味下さい。」


「松笠屋敷」
 中世にこの地方を治めた、葛西家旧臣の末裔と伝えられる須藤家の邸宅と土蔵を、修復保全して公開している。江戸後期に建設された在郷の藩士住宅としては非常に貴重で、建築文化史上の価値も高いとされている。中には農具や掛け軸などが展示されています。
「シルク館」
 養蚕に関わる歴史や器具などの各種資料が展示されているほか、大小10台のはた織り機がある体験学習室もあります。インストラクターの指導を受けながら、はた織りでコースターを作ったり繭でコサージュを作る体験プログラムが評判を呼んでいます。
「ばっかり茶屋」
 リアス地形の南三陸町は、海の近くにありながら実り豊かな里山の町でもある。入谷地区は昔から養蚕で栄え、江戸時代に建造された旧入谷村村長の須藤家の屋敷は、松笠屋敷とも呼ばれ、町の歴史遺産ひころの里として公開されている。
 この奥座敷では、毎日お膳に載ったランチがいただける。地元の食材ばっかりを使っているので「ばっかり茶屋」と名付けられた農家レストランである。切り盛りするのは入谷地区の農家の女性たち、ひころレディースだ。7人のメンバーが自分で育てた様々な食材を持ち寄り、集まった食材によってメニューが決められる。
 それぞれの得意料理が、漆塗りのお椀に盛られて美しいお膳に並ぶ。揚げたての天ぷらにお団子までついて、なんと600円。手作りの野菜を持ち寄るからこの価格で提供できる。
 冬は春菊、つぼみ菜、そしてハウス栽培のふきのとうなどが旬になる。青々とした竹林や山里の風情を味わいながら、地産地消のものをいただく豊かな時間は、ゆったりと流れていく。地域の人たちのために「お茶のみばっかり、おしゃべりばっかり」の場を作ろうと始まった「ばっかり茶屋」は今では南三陸町の顔として多くのビジターをもてなしている。
https://hikoronosato.jimdo.com/
 私達はまっすぐ昼食会場の「ばっかり茶屋」に向かったのですが、特別に松笠屋敷の座敷に案内されました。部屋に入ると左手の続き間には7段のお雛様が3台並んで迎えてくれました。お膳が並んでいます。今日は「おらほの御膳」を頂きましたが地元の食材で調理して頂いた逸品の豪華な昼食です。皆さん顔が喜びでいっぱいです。












 食後は庭を散策しシルク館の見学です。梅の花が咲き、見事な紅梅が見れました。この地の養蚕は伊達藩の肝いりで盛んになりましたがその兼任者は山内甚之丞です。昇仙の杜・弥生公園にある記念碑に以下の様に記されています。

「山内甚之丞と養蚕の興隆: “山内甚之丞は戦国武将の血を引く俊才であった。古来入谷千軒とはやされた産金(砂金とり)が底を尽いた享保の頃、若くして福島(伊達郡川俣)に赴き養蚕・製糸の業を修得、仙台藩全域に伝授し「養蚕の始祖」と仰がれた。大肝入として地域の殖産興業や救荒済民を行い、道路を造り寺社を改築し、地域住民から厚く敬われ神様として奉られた。
 その功績により藩の大番士に取り立てられ、以来甚兵衛をはじめ子孫は代々藩士として生糸吟味役に任ぜられ、遂に銘柄「金華山」を生産、京都西陣はおろか幕末には米国にまで輸出し外貨を獲得した。
 維新後は旭製糸株式会社に受継がれパリ万国博にはグランプリを獲得し、志津川町の名声を高くした。かくして山内家が数世紀に亘り地域住民の生業を確立した功績は大きく永遠に伝えられるだろう。 平成3年3月     志津川町長 阿部公三”」

 シルク館では貴重な資料を学ぶことが出来ました。カラフルなシルクの製品が展示販売されていました。梅の花の小袋を梅子さんが購入されましたが、令和の新元号が梅に所縁のある歌でしたので後日、その機縁を喜んでおられました。
 優雅なゆったり楽しめた昼食で、光溢れる「ひころの里」でした。