2016年7月8日金曜日

628「岩手巨石巡り2」2016,7,8

 出羽神社は奥州市水沢区にあり、東北新幹線水沢江刺駅の直ぐ近くです。神社の奥、山頂付近からは水沢市街、新幹線駅などを一望できます。そしてそこにはアテルイ顕彰碑があります。この地に付いては以下の記載があります。 
「出羽神社の創建は延暦年中(797頃)坂上田村麻呂が東夷東征の際、羽黒山大権現に戦勝祈願をした所、俘囚の長であるアテルイを討つ事が出来た事より、大権現を勧請した事が始まりとされます。アテルイは宝亀7年(776)、延暦13年(789)、延暦20年(801)と朝廷軍と戦い最終的に坂上田村麻呂に捕らえられ平安京で斬首されます。出羽神社は「安永風土記御用書出」に羽黒権現と名前が出てきており、古くから信仰があった事が窺え、慈覚大師が弥陀、薬師、観音像を奉納したとも伝えられています。康平3年(1060)源義家が再興し江刺郡の総鎮守となりました。現在の出羽神社の本殿は文化2年(1806)に建てられた一間社流造の古建築で、その背後の斜面には空掘りなどの遺構がある事からアテルイなどの俘囚の拠点があったと推測されています。」
http://plaza.rakuten.co.jp/tabioshu/diary/201309130001/






 原休館跡は江刺から種山高原物見山に向かう国道397号の途中にあります。伊手小学校の裏側の地神坊稲荷神社が目的地です。林の中に神社はあり、狐石と呼ばれる巨石と巨石の間に屋根を掛けて神社が祀られています。
 この源休館跡は、義経北行伝説の1つストーリーでその内容は以下の通りです。
「鎌倉時代の文治5年(1189年)、平泉の高館において源 頼朝の圧迫に負けた奥州藤原氏の4代目藤原 泰衡の軍勢に攻められた源 義経は、密かに高館から抜け出し、蝦夷地(北海道)を目指したが、その際に、この地で休息を取った、と言う事です。
 この伝説は、室町時代の「義経不死伝説」から始まり、江戸時代の「御曹子島渡」と結びついて生まれた話とされています。
 そして、江戸時代の安永2年(1773年)に、相原 友直が書いた平泉雑記と言う書物の中に、次の一説があったことから、この地が「源 義経が休息を取った場所」と言うことで、「源休館」とされた様です。」




 次の目的地、種山高原、物見山は素敵なところです。宮沢賢治がこよなく愛し、彼の作品にも登場するところです。駐車場から20分ほどの軽登山で登れます。天気が良く360度の眺望が最高です。山頂の少し手前にある巨石、モナドノックス(残丘)は銀河鉄道の出発台のようです。山頂にも巨石が何個もあり人工的に並べたように配置されています。岩の上に仰向けに寝て、天を覗くと自然との一体感で癒されます。とてもエネルギーが高いところです。暫し皆さんで童心に返って岩手の自然の素晴らしさを楽しみました。
 宮沢賢治の種山との繋がりは以下が参考になります。
「現実と幻想の境としてのフィールド
 賢治は日本においては珍しくフィールドを持った作家であり、詩人である。ひたすら自我を語り自然から無常を学ぶ作家は多い。賢治は自然に大きな関心を抱いており、童話や詩の多くには種山ヶ原のような「野原」が表れる。特にも童話において、ある境界への入口には草や木が表れ、予感の風が吹いて波立つ。
 この野原や高原や山は、賢治にとって境界領域であった。そこは人間界と異界、現実と非現実の境としてのフィールドであった。彼はこの境の領域に足を踏み入れ、そこを足場にして二つの世界を行き来し、人間の在り方を考え、実践する。幻想の世界に立った時、現実がどうあればよいか、どう生きたらよいかがよく見えていたのだ。
 賢治の好きだった鹿踊りも剣舞も境に行われる芸能であり、時間的、空間的意味から考えても境界領域において行われることに生きた意義があるのである。正月や盆の行事もまた同じ意義を持っている。こうして行事が芸能と結びつくのは自然なのである。
 境界領域に行くことを好んだ賢治は、そこで内なる存在である風の又三郎に会い、ジョバンニに出会って彼等を育てていくのである。」