2016年7月10日日曜日

630「岩手巨石巡り4」2016,7,10

 羽黒岩は遠野市綾織町にあり道の駅の近くです。道路には巨大な石作りの下駄が立っていますが弁慶のものでしょうか。案内板には以下のように記載されています。
「この上に高さ約9メートルの巨石があります。矢立松と、おがり(丈)くらべをしたところ、石の分際で樹木と争うなどけしからんと天狗に下駄でけられ、上の部分が欠けた岩の話は『遠野物語拾遺』第10話にのっています。
矢立松は、坂上田村麻呂がエゾの宮武を射った矢の鏃がくいこんでいるといわれた松です。羽黒権現を祀っていたこのあたりは、羽黒山伏の先達たちが矢立の行事をおこなっていた祭場だろうと推測されます。」





 そこから小道を20分ほどの山登りです。途中に熊の糞が何箇所か見られました。最後はきつい急斜面でしたが無事に出羽神社たどり着けました。出羽神社の御神体は後ろにある巨石の羽黒岩です。10m近くもある2つの巨石は1つの石が割れたかのように並んで起立しています。その間は人が1人通れるほどのものでかなりエネルギーが放射されていて特別な空間場になっています。
http://www.uchinome.jp/oasis/kyoseki/kyoseki05.html

 山崎金精様は遠野市土淵町栃内のあります。金精様とは豊饒と子孫繁栄のシンボルとして男性の性器をかたどった石や木を祀る民俗神です。コンセイサマの神徳には、3種類あり、子宝の神、婦女子の病気平癒、馬の息災を願うもののようです。



境内案内看板には
『遠野には多くの素朴なコンセイサマが子授けや豊作の願い神としてまつられていますが、昭和47年に発見されたこのコンセイサマは高さが1.5mもあって最大です。背後の山頂の賽の河原と一対にして、中世の人々は"死と再生の地上まんだら"をここにつくっていました。』
 社の中に巨大な金精さまが鎮座しています。周囲にも陰陽石が各所に祭られてその素朴な信仰心の原点を見る感じです。
 遠野物語にも以下のように記されています。
「土淵村から小国へ越える立丸峠の頂上にも、昔は石神があったという。今は陽物の形を大木に彫刻してある。この峠については金精神の由来を説く昔話があるが、それとよく似た言い伝えをもつ石神は、まだ他にも何か所かあるようである。
 土淵村字栃内の和野という処の石神は、一本の石棒で畠の中に立ち、女の腰の痛みを治すといっていた。畠の持主がこれを邪魔にして、その石棒を抜いて他へ棄てようと思って下の土を掘って見たら、おびただしい人骨が出た。それで崇りを畏れて今でもそのままにしてある。故伊能先生の話に、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。
-『遠野物語拾遺 第十六話』より-
 これへのコメントがありました。
「興味深いのは、『遠野物語拾遺』の記述。コンセイサマには男根形の他に、石棒のものがあり、荒川の金勢社も石棒だそうだ。 畑の中の石棒の下には多くの人骨が埋まっており、石棒(石神)の持つ、「生と死」の側面を象徴しているようだ。
 遠野に多く祀られる石神信仰は、変化の無いものの象徴である石と生産を意味する男根の融合により、死後の再生や不死への憧れを示しているのだろうか。いろいろと複雑な要素があり、興味深い。」
http://blogs.yahoo.co.jp/sadisticyuki10/13683401.html

 デンデラ野は土淵町山口にあり、かつて姥捨ての風習があった土地です。案内板には以下の様に記されています。
「六十歳になった老人を捨てた野で、老人たちは日中は里に下りて農作業を手伝い、わずかな食料を得て野の小屋に帰り、寄り添うように暮らしながら生命の果てるのを静かに待ったと伝えられています。かっての山村の悲しい習いをうかがわせます。」
 原っぱの中にあがりの家という藁葺きの小屋があるだけです。皆さんはわらび採りに夢中です。




 更にデンデラ野について詳しい考察がありましたので紹介します。
「デンデラ野は、漢字で蓮台野とも表記するが、蓮台野は「れんだいの」と読む。これを遠野では「デンデラノ」と転訛したのだと伝えられているが、蓮台野とは墓地であり、地名にもなり、特に京都市北区船岡山の西麓にあった火葬場が有名だ。
 元々蓮台野とは、野辺送りの地だった。野辺送りとは葬列をなして、埋葬地まで死者を送る習俗の事。昔は、故人と親しい人達が棺をかつぎ悲しみの行列をつくって火葬場や埋葬地まで送ったものだが、それが野辺のような場所であったところから野辺送りといわれたようである。野辺送りは、遺体と同時に霊魂も送る儀式なので、魂が家に戻ってくるのを防ぐ為に、さまざまな送り方をしたようである。
 昔は60歳を超えた老人は、すべてこの地へ追い遣るのが習わしだった。老人達は、ここで自給自足の共同生活を送り、自然な死を待ったという。やがて死が訪れると、遺体もこの地に埋葬した。村を去った老人達が、静かに最期の時を待ったというデンデラ野。目の前が真っ暗になるような話だが、同時に遠野に生きる厳しさも物語っている。ここはまさに、この世とあの世の狭間の世界だったのだ。
 老人たちは、徒らに死んでしまう事もならぬ故に日中は里へ下り農作して口を糊したり。老人たちは、村の農作業が忙しい時には丘から下りてきて自分の家を手伝ったという。今でも土淵村の辺りでは、朝、野に出ることをハカダチと呼び、夕方、野から帰ることをハカアガリという。
 元々霊魂を葬る蓮台野=デンデラ野という意識は、生きながらにして”あの世”に住む人々の魂を置いた地のようであった。ハカアガリとハカダチという語には諸説あるようだが、やはり「墓(ハカ)」=「あの世」という意識が働いて付けられた呼び名だという。実際、山口のデンデラ野に立つと、デンデラ野と里の間に川が流れ”あの世”と”この世”を分け隔てる三途の川としての川が流れている。」
http://dostoev.exblog.jp/15056168
http://akkamui212.blog86.fc2.com/blog-entry-310.html