酒折宮は日本武尊(やまとたける)所縁の古社で八人山の南麓にあり、その由縁は以下のようです。
「酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が 「かかなべて夜には九夜日には十日を」
と片歌で答えたことが記載されています。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。
当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)*」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられています。
(* ここにいう「火打嚢」は、日本武尊が東夷征伐に向かわれる前に参った伊勢神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます。(古事記による) )
ご祭神である日本武尊が酒折宮に御鎮座したのは、今から1900年前のことです。塩海足尼が社殿を建て鎮祭した当初の酒折宮は、現社地の北側の、月見山の中腹にありました。月見山は三角錐のかたちをした「神奈備山(かんなびやま)」と言われる山で、当時は山そのものがご神体と見なされ、人々の信仰を集めていたとも考えられます。」
酒折宮に着く頃には天気予報通りに雪になってきました。拝殿左手の丘に上がり、大きな石が沢山ある辺りで集い、ここではあわ歌を歌うことなく、八人山の方に向かって中山さんが声を発しました。即、お言葉を頂きました。その時の問答の様なお伝えです。
うーおーー(拍手)
伝えは届きた。この地を守りて行くは、遥けきなるへ。(柏手)
うおーうーうー(足踏みしながら)お~
ゆるゆる参る。(柏手)
北よりの光を送り行く。(柏手)」14:00
ここでも北からの光りを送ることが示されています。
それは笛吹市春日居町鎮目にある山梨岡神社です。ここも立派な由緒ある神社で、その由来は以下のようです。
「発祥は御室山を神体とする古い信仰に遡ると考えられているが、「御室山」の山名は大和国の「御諸山(みもろやま)」(三輪山のこと)に同じく、「神霊の籠もる山」を意味するものと推測されている。なお、文化11年(1814年)の『甲斐国志』(以下『国志』と略記)に、かつて御室山は国に異変のある際に、その前兆として鳴動したという記載がある。
社伝によれば、崇神天皇の時代、疫病が蔓延したため勅命によって日光山高千穂の峰(当神社背後の御室山と見られている)に3柱の祭神を祀って近郷の鎮守とし、成務天皇の時代に郡境を定めるにあたり、山麓の現社地にあった梨の木数株を伐採して遷座、鎮座地を「甲斐嶺(かいがね)山梨岡」と名付けたという。現在も境内には郡境の標示石であったと伝える「郡石(こおりいし)」があるが、鎮目の地は令制下の甲斐国山梨郡山梨郷に比定されるので、この社伝に従えば、当時の郡名の、そして現在の県名の発祥の神社ということになる。」
境内を歩きながら私がこの地と違う山梨岡神社へ行くつもりだったと中山さんにお話し、場を離れた直後に、中山さんがあわ歌無しに突然語りだしました。
「さにあらず。さにあらず。
この地を興す大きなるは、これこの山の懐深く、眠りし大きなる身なり。
出でたる時には、この地は揺らぐぞ。(拍手)
解りたり。如何なることを成すが良いか。(拍手)
定めは深き地、鎮めて、共々これより5000万年の永きを過ごす。
無駄なる動き致さず、鎮まれ。(拍手)
うおーん」14:44