「今回、陸奥の栄華と闇に焦点を当てて巡る旅です。仙台市にある太白山は京都の鞍馬山と対で金星に繋がりがあるピラミッド形の山です。塩釜神社を始め多賀城跡、黄金山神社、奥州の栄華を誇った平泉、アテルイの里であり大和朝廷に支配された胆沢の資料館。陸奥の深奥を巡る盛り沢山な貴重な旅です。」
その模様を写真を中心に紹介します。
16日の講演会には沖縄の宮古島からTさんご夫妻が参加して下さいました。木内さんとは初対面で初めての講演会に遠路お越し下さいました。講演会後の懇親会にも参加くださり色々と興味深いお話が展開しました。
Tさんご夫妻は明後日の便で帰りますが、明日は1日フリーとのことです。急遽、木内さんとの陸奥の光と陰の旅に1日だけ参加することになりました。宴たけなわですが、23時を有に過ぎてシンデレラ間近に散会と成りました。
17日は仙台駅東口を7時にバスで出発です。早くに目覚めて外を見ると一面銀世界に様変わりしているではありませんか。木内さんと6時半に待ち合わせして駅に向かいます。Tさん達も7時に無事到着出来て出発です。
最初の目的地は太白山にある生出森八幡神社です。しかし神社は太白山登山道を登った途中にあります。その神社の前には巨石があります。この巨石を木内さんに見て頂き、太白山のエネルギーを感じて頂きたかったのですが、この雪ですから急遽、里宮へ参拝することに変更しました。又の機会です。車中から正面に雪景色の中にピラミッド形の太白山が見えます。
里宮にも雪が積もっています。参拝させて頂きました。
以下の様な表記があります。
「ところで太白山という山は朝鮮半島にもある。金星が地上に落ちて山になったとの伝説があり、日本の白山信仰のルーツとされる。この仙台の太白山もその信仰なのかと思ったが、生出森八幡神社の説明板にはそのようなことは書かれていなかった。
おそらく、もともとは生出森のイワクラ信仰があり、そこへ太白山信仰の行者が入って太白山と名付け、さらにのちに八幡信仰が入って八幡神社となったものだろう。日本の神社はそんなふうに、その時々の流行の神様にすげ替えられることが往々にしてある。」
「標高320m。生出森(おいでもり)、鳥兎ヶ森(おどがもり)といわれ遠くから見ると富士山に似ていることから名取富士とも称され、すり鉢山とも称されました。
鳥兎ヶ森と呼ばれたのは、アイヌ語の「オード」から名付けられ、オードは神の宿る山のことで、山そのものが神体として信仰の対象となりました。
太白山は、三滝安山岩とよばれる火山性の岩石からできている。溶岩が地表に出ることなく冷え固まったもので、まわりの浸食によって削られ、冷え固まった部分だけが残ったものという。
八幡神社は、源頼朝が藤原秀衡を攻略した時、先陣の功により河村秀清に鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の分霊を祀ったと伝えられる。社前には神馬の銅像がある。そこから先が貴船神社。鎖場のある急登。巨石も多く30分くらいで到着する。
貴船神社は京都の鞍馬にあり、祭神を龍神高?神といい、雨水を守護する神、雨乞いの神とされている。豊作を祈る農民の信仰により、太白山頂に勧請されたものであろう。
太白山は仙台湾を航行する船や漁人の目標となっていた。
また当山にかかる雲で天候を予知するなど、生活に深くかかわってきた山であった。
近世には藩主の鹿狩が山麓一帯でもしばしば行われている。太白山は特異の山容のためか、伝説も多く「奥羽観蹟聞老志」巻之五には、太白星(金星)が落ちて当山になったといい、山名はそれに由来すると記されている。「太白の散歩手帖より」」
次の目的地は柴田町にある折石(さくせき)神社です。以下の様な紹介があります。
「拆石神社は御由緒によると「往昔、宮下宅と呼ぶ地の後山に在り、拆石神社鎮守明神といった。平城帝の大同2年6月14日此神後山の社地を去り飛揚倏忽、其の有る所の巨石を裂きて、これを中分し石中にやどる。石形並立して屏風のようであった。かく石厳を折いて入り給ひしを以て郷人これより拆石明神といった。又、平城帝の御代、坂上田村麻呂将軍統制の折りこの神社を勧請し、武運長久を祈願したともいい、又、古老いわく、日本武尊東征の折、磐坂皇子を祀ったとも伝えている。村名元磐坂(後・破坂・葉坂)と称したのもこれによるという。・・・(後略)」とあります。
由緒の通り、中腹から岩が裂けているように巨石が積まれ、周囲は神聖な雰囲気が漂っています。古来から山岳信仰や巨石信仰など、このような場所は神聖視される事が多く、この場所も古くから信仰の対象になっていたのではないかと思います。」
神社の後ろにご神体の驚きの巨石があります。木内さんによるとこれは明らかに人工のもので方位を定め、暦を作り、儀式がなされていた様です。イワクラ文明はかつて存在していた大きな証になりそうです。