参拝で身体はすっかり冷え切ってしまいました。皆さんの休憩は村田町の道の駅です。トイレを済ませて農産物など買い物に余念がありません。
次の目的地は仙台市宮城野区岩切にある青麻神社です。ここには昨年の木内さんの居ない木内ツアーで皆さんをご案内していました。こちらにはほとんど雪は無く、日差しも温かく心地良い参拝になりました。年末の池の大掃除がされていました。
「青麻岩戸三光宮」の名前が示すように御祭神は天照大御神、月読神、天御中主神の日月星を祀る三光宮の総社のようです。そして社紋に描かれた麻の葉が6枚で六芒星を象っています。御神水は霊験多いようで沢山の方が水を汲みにきています。
本殿を参拝して裏山の岩を見て、神社の右手奥にある三光の瀧を案内しました。神社に付いて以下の紹介があります。
「高森城の背後の谷間に位置し清水湧く地として選ばれています。周囲は昭和42年に県民の森として指定され、県民の憩いの場ともなっています。 境内に湧き出る清水は手水として参拝時に使用される他、近隣の人々がご神水として汲みにきています。神社前を流れる青麻沢は砂押川の一方の源流で、きれいな流れでクロスラミナ(底が砂地で流水で形成される波型)があり、流れが夏でも途切れていないことをうかがわせます。
社伝によれば仁寿(にんじゅ)2年(852年)現社家の遠祖穂積保昌が山城国よりこの地に来て里人に苧(からむし=麻の一種)の栽培を教え、一族が尊崇する日月星の三光神(天照大神(あまてらすおおかみ)、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、月読神(つくよみのかみ)の三神)を、清水が湧く山峡の岩窟中に奉祀したのが創始と伝えられています。社名、地名も麻の栽培より起こり、神紋にも麻の葉を用いています。なお、源義経の家臣であった海尊が、天和2年(1682年)に仙人となって下野国よりこの地に来て百姓の眼病を治してあげたことによって祀られているそうです。中風病退除、海上安全、開運招福に効験があるとのことです。
効験として「中風退除」を掲げているのは「湧き出る清水」の効用ではないかと思われます。常陸坊海尊を祀った経緯等には眼病が治ったという言い伝えもあり、不動明王の祀られている水辺の水で目を洗えば眼病が治るという言い伝えにつながるものがあります。
苧(からむし)の繊維をとるためにはきれいな水が大量に必要なのだそうです。」
次の訪問地は多賀城跡です。心地良い光が燦燦と降り注いでいます。この地は古の大和朝廷の蝦夷支配の出先機関として栄華を誇った所です。以下の様に表記されています。
「奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった[2]。なお、多賀城が存在した頃は「平安海進」により、周囲は現在と大きく異なる地形をしていたため注意が必要。
平城時代の(狭義の)日本では、平城京を中心に、南に大宰府、北に鎮守府兼陸奥国府の多賀城を建てて一大拠点とした。
多賀城政庁に隣接し、陸奥国内100社を合祀する陸奥総社宮を奉ずる。陸奥国一宮鹽竈神社(塩竃神社)を精神的支柱として、松島湾・千賀ノ浦(塩竃湊)を国府津とする。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在する。政庁がある丘陵の麓には条坊制による都市(後に多賀国府(たがのこう)と呼ばれる)が築かれ、砂押川の河川交通と奥大道の陸上交通が交差する土地として長く繁栄した。」
多賀城跡地を見て、直ぐ近くにある陸奥総社宮を参拝しました。総社に付いては以下の様にありあます。
「古代、国司には各国内の神社を巡拝する任務があった。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。この制は平安時代に広まったものであるが、陸奥国の総社について当時の記録はない。」
御神木の老杉と白木蓮は見事です。各所で木内さんのお話が尽きません。