最初に訪れた時よりは遥かに手入れが成されていて、小奇麗に収まっていました。宮古島から来たTさんの奥様は何故か、6年ほど前の311東日本大震災後に仙台市の青葉神社の片倉宮司と沖縄でご縁を頂き、震災の鎮魂の為にこの仙台にお出でになっていました。青葉神社と多賀城跡で舞を奉納されて、この荒脛巾神社も訪れていました。その時は神社に近づくにつれて涙が出て、神社では号泣されたとのことです。その後、被災地を巡り青森まで北上したとか。今回も社前で涙して静かに神々と対面されていました。彼女は感受性豊かな、特別なお役目の方のようです。
アラハバキ神に付いては以下の様な記載があります。
「蝦夷(えみし)の神様としてのアラハバキ神
アラハバキ神は「まつろわぬ民」であった日本東部の民・蝦夷(えみし、えびす、えぞ)が大和朝廷により東北地方へと追いやられながらも守り続けた伝承だとする説があります。
この説はかつて「東北の真実の歴史」を記したとされる『東日流外三郡志』(つがるそとさんぐんし)に蝦夷(えみし)の神として記されていました。このように記紀以前の縄文の神として一躍脚光を浴びたアラハバキ神なのですが、その後、同書は真偽論争の果てに偽書とされ、同時にアラハバキも幻の神となってしまいました。
もうひとつこの説を裏付ける根拠として、アイヌ語とアラハバキとの関係を指摘する説もあります。東北にいた蝦夷がアイヌになったという説は歴史学者・喜田貞吉と言語学者・金田一京助らによって主張されたのですが、その後東北大学の高橋富雄によって、中世以降の〔えぞ〕としての蝦夷がアイヌであることを確認しつつ、上代の〔えみし〕としての蝦夷はアイヌと同一視できないとの見解を示しました。
しかし、『アイヌ語方言辞典』の編者・服部四郎によるとアイヌ語と日本語とが同系要素を含む蓋然性があると指摘しているのです。特に彼は信仰という状況では今の日本語とアイヌ語ではかなりの共通性が見られると指摘しているのです。そういった立場で「アラハバキ」という名前をアイヌ語で解読してみると、「arpa-pake」 と解すると、これは、行く(発つ・出発する)・首領(頭)、ほどの意味になるそうです。また「paki 」となるとこれは「エビ」の意味となるそうです。ここから弓を射ることのできるエビの人という意味で蝦夷という当て字がつかわれたという説もあります。またアラハバキをさしている客人神(まろうど)もmarapto を「お客」としています。しかし、かなりこの辺の話は確証に欠けるのであくまでも一仮説として考えてくださいね。
また、谷川健一氏は彼の著書『白鳥伝説』の中で、アラハバキを塞の神(サイノカミ)の性格に着目し、もともと蝦夷の神であったアラハバキ神を大和からみた支配地の塞の神として蝦夷をもって蝦夷を制したという考え方をしました。確かに宮城県多賀城にあるアラハバキ神社は多賀城からみて鬼門の方向にあります。兵士の履く脛巾から、アラハバキの名をつけて、蝦夷を撃退しようとしていたといわれています。」
アラハバキに付いて興味のある方は以下のサイトをご覧下さい。
「あらはばき」http://sanpomichi114.web.fc2.com/arahabaki.html
次の目的地も塩釜神社の摂社になる七ヶ浜町の鼻節神社です。林の中の参道を進むと程なくして太平洋が正面に見え、その左手に本殿があります。
こじんまりした社ですがその歴史は古く、以下の様な紹介があります。
「七ヶ浜町側の参道入り口には、赤い鳥居がある。社殿前に階段があり、降りていくと、そこにも鳥居。海からの参拝が本筋なのかもしれない。 社伝によると当社の祭神は、鹽竃神社と同じ神であるといい、鼻節の浜に上陸したという。別の説では、鹽竃神社祭神を案内した岐神。
孝安天皇の御代に、うが崎に鎮座。舒明天皇の御代(630)に、神事を行い、光仁天皇の御代(770)に、垂水山(誰道)に遷座したという。
また、『枕草子』にも「はなふちの社」と記されているそうで、都人にも知られていた大社であったという。
昔、嵐にあった船の水夫たちが、この神に祈ったところ、船は無事、浜に到着した。見ると、船底に無数のアワビが付着し、船体の破れを防いでいたという。
当社境内に、東西の二つの石祠である大根神社がある。大根神社の本社は、当社の沖の海中の岩礁にあるいい、境内の石祠は、その遥拝所。大根明神の神事では、アワビを神前に供えるらしい。あるいは、鼻節神社の原初は大根神社への信仰であったかもしれない。 湾の入り口に位置する神社は、各地にある。その場合、同じ湾の反対にも同様の神社が存在する場合がある。当社の鎮座する山は、垂水山と呼ばれるが、対岸の大高森に垂水鼻という岬がある。また、境内社に大根神社があるが、対岸の大高森の沖にも大根島が存在する。このように、松島湾をはさんで、当社のある七ヶ浜町と大高森は対の存在であるような気がするが、実際にはどうなんだろうか。海側から見ると、断崖の上に鎮座しているが、陸側からでは、深い森のなか。重層した信仰形態を想像させる。」
昼食時間まで少し時間があったので近くの縄文期の大木囲貝塚を散策しました。この七ヶ浜町には各所に縄文遺跡があり、海の近くで栄えていた地のようです。
昼食は日和さんの日和膳を頂きましたが美味しく皆さん喜んで頂けました。少しビールも入って優雅なランチタイムに成りました。