2017年3月31日金曜日

895「蝦夷14」2017,3,31 角塚古墳

 午後の最初の目的地は奥州市胆沢区南都田の角塚古墳です。この古墳は本州最北端の前方後円墳として、国指定史跡になっている古墳です。通称として「塚の山」「一本杉」と言われています。

 今から1,500年前につくられたもので、この地方の豪族の墓地と考えられています。前方後円墳は3世紀から6世紀前半にかけてヤマト王権の影響で各地の豪族が造成したもので、ヤマト王権とこの地の蝦夷の長は祭祀文化を共有する交流がこの地まで及んでいたことを意味します。アテルイの登場する遥か300年前です。
 この地の伝説があり、以下の様に記されています。

「角塚古墳に関しては、地元に伝説が残っている。これによると、当地には高山掃部(たかやまかもん)という長者がおり、その妻は強欲であったがために大蛇に変身した。大蛇は農民を苦しめ、里人は松浦の国から小夜姫(さよひめ)という娘を買って生け贄として差し出すことにした。大蛇が現れた時、小夜姫がお経を読み経文を投げつけると、大蛇は元の長者の妻に戻ったといい、大蛇の角を埋めたところがこの角塚古墳であるという。      
 以上の伝説により本古墳に手を付けると祟りがあると伝えられ、これが現在まで墳丘が維持されるに至った要因といわれる。」とあります。

 角塚古墳の詳細は以下です。
「北上川の中流域、北上盆地のやや南寄りで、西から合流する胆沢[いさわ]川が形成した扇状地に、角塚古墳が築かれている。この古墳は昭和10年代より地元の研究者が埴輪の出土に注目しており、昭和20年代に広く学会にも紹介され、日本最北端に位置する本格的な前方後円墳として注目されるに至ったものである。近年、この地域で圃場整備事業が計画されたため、胆沢町教育委員会が昭和49、50年の2年次にわたり調査を実施し、その輪郭を明らかにした。
 古墳は、前方部を南に向けた前方後円墳である。墳丘の全長約45メートル、後円部の径約30メートル、高さ約4.5メートルを測り、前方部は前端幅約20メートル、くびれ部幅約13メートル、高さ約1.5メートルと復原され、後円部は2段に築成されている。周濠は後円部周辺が幅約10メートル、前方部で約3メートルと狭くなり、全体が馬蹄形状を呈している。墳丘上には葺石、埴輪が認められ、前方部には各種の形象埴輪のあったことが知られている。形象埴輪の中には、動物、人物、家形埴輪等が含まれている。
 この古墳は、前方部が短く狭い特色ある形態をとっているが、周濠、埴輪等の状況からみて6世紀の前半に属するものと考えられている。造営についても企画性があり、本格的に築造された古墳である。岩手県内には、本例を除くと終末期の古墳しかなく、以南の地域でも南方約70キロの宮城県大崎平野まで前方後円墳等の存在が認められないだけに極めて注目される上、東方2キロに史跡胆沢城跡が営まれており、歴史的な彼我の関連も考えられる。いずれにせよ、角塚古墳はこの地域に形成された…」

「古墳の系譜や埴輪の系譜などから、宮城県の古墳造営集団によるものと考えられ、角塚古墳の被葬者は、宮城県の首長層を媒介として、全国的な政治秩序の一端に連なっていたものと考えられます。」
 





 角塚古墳の道路向かいに古墳公園がありそこに駐車して見学しました。公園には池があり、いろいろな埴輪等のモニュメントが設置されています。
角塚古墳は比較的こじんまりした古墳で、円墳の部分に1本杉の木が聳えていて目を引きます。古墳の上に上がることも出来て見晴らしも良いです。日当たりが良くお墓と言うよりは陽だまりの丘の感じです。




2017年3月30日木曜日

894「蝦夷13」2017,3,30 神明社、梅ふたつ

 羽黒山を下り、北上川を渡りって水沢市内に入りました。次の目的地は奥州市水沢区神明町にあるアテルイの里、アテルイの生誕の地と言われる神明社です。
 小さな集会場の脇は広場になっていて、そこに神明社があります。参道には沢山の石碑が並んでいて、奥に小さな社、神明社があります。何故、アマテラスが祭られているのか分かりませんが。




 ここの石碑には、アテルイ率いる蝦夷軍が五万を超える朝廷軍を撃破した「巣伏の戦い」から千二百年目となることを記念して、「古代東北の英雄 アテルイ王千二百年祭記念碑」と刻まれています。3年に一度開催される「アテルイ歴史の里まつり」は、この碑の前での神事から始まるようです。
 アテルイの地元ではアテルイは英雄です。市内の各所にアテルイの関係したモニュメント、案内板が設置されています。

 昼食は水沢市街地の老舗の割烹料理のお店、梅ふたつです。玄関にお花が活けられ風情がある、老舗です。座敷にはお雛様が飾られています。普通のひな壇とくくり雛のものです。丁度、3月3日のひな祭りの前後をとおして水沢市内では「くくり雛祭り」が開催されていて、このお店もその見学コースになっています。大広間は私達が貸しきりでしたが見学の方々が訪れます。



 くくり雛祭りはこの地方ならではのお祭りです。以下の様に紹介されています。

「くくり雛は「押し絵」の技法で作られた雛人形のことで、水沢地方独特の呼び名です。厚紙の部品の上に綿をのせ、布で包み組み合わせて押し絵に仕上げていきます。水沢地方では、綿を布で包むことを「くくる」と言うことから「くくり雛」と呼ばれています。
 くくり雛の起源は、江戸中期にさかのぼり、その後、水沢の画人、砂金 竹香(いさご ちっこう)が女性や子どもの教育のために広め、明治時代から大正時代に盛んに作られました。内裏雛や三人官女、五人囃子のほか、歌舞伎やおとぎ話などを題材にしています。す。」

 ミニ会席ですがとても豪華な内容で、皆さん大満足です。デザートも美味しく頂き、ゆっくりと歓談できました。






 床の間には掛け軸の書があります。その字を判読出来ずに仲居さんにお尋ねしたところ、その方も分からず、ご主人が来て説明してくださいました。


「半生功名一鶏肋  新平」
 郷土水沢の名士、満鉄総裁、内務大臣、東京市長、拓殖大学学長を歴任した後藤新平の書です。このお割烹は後藤新平も利用したようです。
 その書の意味はご主人の解説では「我が半生の功名は一羽の鶏の肋骨の如くだ」との事です。鶏肋に付いて調べると以下のようありました。

「ニワトリ(鶏)の肋(あばら)骨のこと。食べるほどの肉もないが、捨てるには惜しいという意で、たいして役だつものではないが、捨てるのは惜しまれることのたとえ。
 中国、三国時代の魏(ぎ)の丞相(じょうしょう)曹操(そうそう)の軍は漢中を平定し、さらに蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を討とうとしたが、進撃にも守備にも困難であったため、態度を決めかねていた。そのとき曹操はただ一言「鶏肋のみ」といい、部下たちはその真意を解しかねていたが、ひとり楊修(ようしゅう)だけがその意を悟り、「鶏肋は食えば得るところなく、捨てれば惜しむべきがごとし」といって引き揚げた、と伝える『後漢書(ごかんじょ)』「楊修伝」の故事による。」

 大いに心身満たされ、いよいよ巡りも残すところ少しになりクライマックスです。

2017年3月29日水曜日

893「蝦夷12」2017,3,29 奥州市出羽神社

 奥州市水沢区羽田町の出羽神社は東北新幹線水沢江刺駅の東正面の羽黒山の上にあります。細い参道の山道を登りきると神社に辿りつきます。
 




 この奥州市水沢地区はアテルイの本拠地です。この地での経緯に付いて以下の記載があります。

「7世紀、8世紀はヤマトとエミシの相克の時代で、724年に多賀城を、759年に雄勝城をヤマトが築いたが、780年には海道エミシの伊治公呰麻呂が雄勝城を奪い、多賀城を焼き滅ぼした。
 内陸の北上川流域では、族長アテルイのもとに大部族連合が結成され、およそ20年の間に、5万、10万、4万と3回にわたり送り込まれた政府側の大軍に、堂々と渡り合うエミシの軍隊が組織されていた(高橋富雄:辺境)と考えられる。
 水沢地区の戦争は789年で、ヤマトの紀古佐美が5万の軍勢を進めたが、水沢江刺駅東方の羽黒山に400人の兵をひそめていたアテルイは、紀古佐美軍の退路を断って攻撃した。ヤマト軍の戦死者は20数名だったが北上川におぼれる者が1000名を超えて大敗した。
 現在、羽黒山には出羽神社があり、すぐ横の小高い丘にはアテルイとモレを顕彰する碑が一般からの寄付金で建てられ、また、地元民の奉仕で発掘調査もおこなわれ、当時の遺品が見つかっている。
 その戦いの主戦場が「巣伏」で小さい記念公園がある。ここは「跡呂井地区」でアテルイにかかわる地名である。丘の上には「たんぼアート」見物用のやぐらが建てられている。
 その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には胆沢扇状地の北部に胆沢城を築いた。兵力だけでなく民力の消耗もあり、この年にアテルイとモレは講和に応じて平安京にのぼったが、危険人物として処刑された。
 この一連の経緯をヤマトによるだまし討ちとする説もある。二人の魂は成仏を拒み、怨霊となって悲痛な声を上げながら都の空を飛びまわったともいう。
 ゆかりの枚方市の片埜神社では毎年慰霊祭が行われ、また、田村麻呂の創建の清水寺にもアテルイとモレの顕彰碑がある。
 アテルイにちなむ地名の跡呂井が水沢にあり、モレ(モライ)には母体(モタイ)地区が前沢にあり、アテルイの甥、人首丸にはヒトカベ地区があり、いずれも奥州市内の地名なのでアテルイ一族は奥州市を中心に統治していたエミシの豪族であろう。」

 出羽神社を参拝して尾根に沿って西に向かうと眺望が開け、丸太で作った物見櫓が目に付きます。その手前にアテルイとモレの顕彰碑があります。アテルイとモレの顕彰碑活動は以下のサイトを参照下さい




 この山頂からは180度の見晴らしが効きます。有効な陣地としてアテルイの拠点であったことが伺いしれます。
 暫しアテルイとモレの活躍した時代に想いを馳せました。坂上と和議を結び、上洛したのに、坂上の助命嘆願も聞き入れられず惨殺され、同行の兵500名も毒殺されたのです。そのアテルイの墓が枚方市の牧野にあります。
 木内さんがおっしゃるには、「坂上田村麻呂はアテルイの能力を認め、蝦夷たちの自然と共存し豊かな生活、治世の素晴らしさを大和朝廷でも活かせるのでは、と想い和議を結んだ。しかし、時の朝廷、桓武天皇は蛮族で敵視し危険と思ったので惨殺したのでしょう。」

 坂上田村麻呂は同じ武将ゆえ、敵対したとはいえその器量をよく知り、彼の命を惜み、冥福を祈り京都の清水寺を建立します。
 しかしやがて坂上田村麻呂も嵯峨天皇の勅命により、京の都の「鬼門」となる東北の方角を守るように武具をつけたまま殺害されたと言います。そして、やがて坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と崇められるようになり、坂上田村麻呂が創建したとされる寺社が東北を中心に各地に建立されるのです。
 平安時代では蝦夷は蛮族でしかなく、日本人扱いをされていなかったのでしょうが、東北の人たちにとってはアテルイは郷土の英雄だったのです。

「北のまほろば・蝦夷の矜恃」も参考にしてみてください。

 帰り道はそこかしこに出ているふきのとうの採取に皆さん興じて沢山の収穫です。





2017年3月28日火曜日

892「蝦夷11」2017,3,28 黒石寺

 次の目的地の黒石寺は奥州市水沢区黒石町にあります。黒石寺はあわ歌の中山博さんとは何度も訪れているところで、有名な蘇民祭の中心となる天台宗の古刹です。年代的にはアテルイと坂上田村麻呂と戦い以前に開山されていますので、ある次期までは大和朝廷側と交流があり穏やかな関係の時期があったことが伺えます。
 黒石寺に付いては以下の表記があります。

「黒石寺は、天平元年(729)行基菩薩の開山で、東光山薬師寺と称したが、延暦年間の蝦夷征伐の戦火にあい寺は焼失した。大同2年(807)飛騨(今の岐阜県)の工匠が方七間の薬師堂を再建し、嘉祥2年(849)第3代天台座主慈覚大師円仁が復興し妙見山黒石寺と改名した、天台宗の古刹である。盛事には、伽藍48宇を数えたといわれる黒石寺も、弘長元年(1261)の野火、天正18年(1590)の兵火、そして天保11年(1840)の祭火、更には明治24年(1881)と火災にあい、伽藍の一切を焼失し、現在の本堂と庫裏は、明治17年(1884)に再建されたものである。
 本尊は、薬師如来坐像で、胎内に貞観四年(862)の造像銘があり、古代東北の仏教信仰を伝える貴重な作例である。また、「黒石寺蘇民祭」は、東北地方への蘇民信仰の伝播を伺わせる祭りで、古代の姿を今に伝える貴重な民族的遺産である。」

 その蘇民祭に付いて『備後風土記』の中に蘇民信仰の逸文が残されていますので紹介します。
「北海の武塔神(たけあきのかみ)が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。そこに蘇民将来と巨旦将来という兄弟が住んでいた。兄の蘇民(そみん)将来は大変貧しく、弟の巨旦(こたん)将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。武塔神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。兄は粟の飯でもてなした。
 後に武塔神は八人の王子と帰る途中、兄の蘇民将来の所に寄り「かっての報いをしよう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。 すると「茅の輪(ちのわ)」を腰に着けるよう命じた。その夜、神は蘇民と妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。
 そして「私は須佐之男命(すさのおのみこと)なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を逃れるであろう」と言った。
 武塔神・須佐之男命・牛頭天王・薬師如来は同一神仏であるという。」

 穏やかな日差しの中、参拝できました。蘇民祭の行なわれる本堂には立派な龍の彫り物がそこかしこにあります。日本の龍神様は3本指、朝鮮は4本指、中国は5本指だそうです。数が多いほど上位に位するとの事です。







 本堂には蘇民祭のポスターが張り出されています。勇壮な裸参りです。

 本堂の右側奥の階段を登ると北斗妙見信仰の妙見堂です。


ここで木内さんから2005年の熊野本宮大社での御神事、翌年の二見が浦での禊の神事の事などお聞きしました。それは木内さんが、スサノウの御魂が未来に現われて九鬼宮司の収めている「無食い祝詞」の言葉の文章を作り、封印を解除した、というお話です。詳しい事はお伝えできませんが、そこから10年間、天皇が禊に入られ、昨年の退位のお言葉に至ったことも関連がありそうだ、ということです。

 黒石寺妙見堂に祀られている妙見菩薩の解説は以下です。
「妙見尊星王や北辰菩薩ともいい北極星を神格化しその本地仏。童顔の武将仏で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物)に乗り、唐服を着、笏や剣を持つ。
 脇侍は北斗七星を示す北斗菩薩。道教・陰陽道の影響が強く、武運長久、国家安隠、五穀豊穣の尊神であるが、物事の真相を見極める霊力があるとされることから眼病平癒の霊力を持つといわれる。平氏、源氏の妙見信仰には篤いものがあった。」
「北辰と言えば北辰妙見で、天御中主尊に繋がり、北極星(北辰)を神格化したもので、仏教でいう北辰菩薩、妙見、天王とみなす信仰です。この「天王」が牛頭天王(=素戔嗚尊)とされるから、妙見社に素戔嗚尊が祀られることも多い。」

 違う切り口で参考になりますので、以下のものも紹介しておきます
「天智天皇や持統天皇が大和朝廷を確立しようとした頃、アラハバキ神や瀬織津姫などの縄文神を封殺しようとしたのと同時に、古来からの縄文人やスサノオ、ニギハヤヒ、出雲族を抹殺しようとし、また、いわゆるスキタイ(騎馬民族)系など源氏系統の人々を関東以北まで追い払っていきました。
 後に大和朝廷と闘うアテルイたち蝦夷(エミシ)や、源頼朝などの関東武士(武士のルーツはアテルイです)たちにも妙見信仰がありました。
 幕末の戊辰戦争で敗れた旧幕府軍である新撰組の土方歳三や榎本武揚たちも、開陽丸に北斗七星の旗を掲げていました。
 新撰組が甲斐甲府城に憧れたのも関係があります。
 空海、修験道、武士…これらに密接に関わる北辰妙見信仰とは、とてもとても簡潔に説明することは不可能どころか、未だ様々な方が研究されており、何冊も本が書けるテーマですが、そこはオイラ、妙見研究家ではありませんので、バサッと結論を言います。

北辰の辰=ヘビ=竜=艮の金神
北辰妙見菩薩=弁財天=瀬織津姫=アラハバキ
艮の金神=アラハバキ=宇賀神=宇宙根元神
実にシンプルじゃないですか!

 元々、北極星・北斗七星信仰とは、宇宙根元神信仰なのですから、渡来人政権である大和朝廷にまつろわない縄文の系譜や、その人々と調和していたユダヤ、スキタイ系統の人々は、名前は変われど同じ神を信仰していたことになるのですね。
 いや、神と言うと誤解が生じる可能性がありますので、真理・法則と言いかえることができます。
 それを縄文アミニズムとも言います。
 人は宇宙根元神の分御霊(わけみたま)でありますので、私=神。
 また、神は万物に偏在しますので、山にも草木にも、動物にも等しく神を見出すことが出来る訳ですね。
 つまり、私はあなたであり、あなたは私であり、私はウリ坊であり、ウリ坊はあなたでもあると。」(縄文アラハバキが世界を変える)

 黒石寺、妙見信仰について以前のブログで記載しています。長文ですが参考にして下さい。
「自分で自分を自分する」322「日高見5」2014,6,28 

2017年3月27日月曜日

891「蝦夷10」2017,3,27 髢石、磐神社

 次の目的地は奥州市衣川区石神99にある磐神社です。達谷窟毘沙門堂から平泉方面に進んで直ぐ道路脇左手に巨石が鎮座しています。髢石(かつらいし)です。車を止めて探索です。




 巨大なかつら石は、幅10m、横5m、高さ7m程です。なぜ髢石と呼ぶのかその謂れは以下です。
「毛越寺から達谷窟に向う道路沿いに悪路王(…ここに悪路王伝説がある)が手下と住んでいて、美しい娘がいるとさらって来た。娘の中には逃げ出した者もいたが、直ぐ捉えられ、見せしめとして首を切り落とされ、太田川に捨てられた。首は下流の大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたという。この岩に娘達の沢山の髪が“かつら”の様にまつわりつき、それでこの巨石を「かつら石」と呼ぶようになった。」との事です。

 ここでも悪路王のことが悪し様に語られていますが果たして如何なものなのでしょう。
 かつら石の裏手に回ると巨木の石を抱きかかえるように幹を這わせ、石の頂上部にすっくと立ち上がり、さも石から直立しているような様です。驚きの木の生命力です。
 かつら石の7~8m程の山側奥に、つる草で覆われた見事な、凡そ各5m幅で高さが6~7m程もある三角形のメンヒルが単独で立っています。

 磐神社は何度も訪れています。田んぼの中に参道があり木々に囲まれてぽつねんとあります。今回は車が何台か既に駐車されています。社務所で集会があるようです。







 掲示板に以下の記載があります。
「磐神社
 延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社 の一とされ、古代より崇敬された神で ある。この神社は男石大明神とも称し、 松山寺境内の女石神社と合せた陰陽の 二神で日本武尊、稲葉姫命をまつると され、二社に分れるが当社が本社とな っている。ご神体は東西一〇・二m、 南北八・八m、高さ四・二mの自然石 で古来社殿は設けないならわしであっ たが、明治三〇年頃、近郷の氏子の強い 要望による寄付金で拝殿が建築された。
 なお、当社のすぐ右前方には安倍館 があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威 を振う拠点をこの地に形成したと伝えられる。」

 神社を参拝して裏手にある荒覇吐神の巨石を拝観しました。この巨石は通称、おいしさまと言われ、古来、松山寺境内にある女石神社と一対として祀られていてこちらが男石です。

 この石の配置を見て木内さんは以下の様にお話になりました。
「この巨石は西向きのL型に積みあがれたように配置されていて祭壇として使われていた。ここで祭りごとをしていて、この石の下に石室がある。」
 蝦夷の聖地であったのでしょう。磐神社の直ぐ南の小高い山は安倍館跡です。以下の記載もありましたので紹介します。

「磐(いわ)神社は、安倍舘跡の北側、直線距離で約500mの水田に囲まれた杉林の中にある。平安前期から知られた神社で、延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社の筆頭社であり、『文徳実録』に、仁寿2年(852)8月7日条に「石神」が他の諸社とともに、従五位下を授けられたとの記載が残されている。
 祭神は日本武尊と稲葉姫命、伝承では伊邪那岐命。通称は「おいしさま」と呼ばれている。社殿の裏にある高さ4.2m、縦10.2m、横8.8mの自然石がご神体で、安倍氏はこの大石を荒覇吐(アラハバキ)神として尊崇していたという。
 アラハバキ神は、東北地方一帯に広く残る地主神で、蝦夷の神であったと見られるが、その実態については花巻市東和の「丹内山神社」でも記したように、よく分かっていない。
 安倍氏滅亡後、奥州の覇者となった藤原清衡は、中尊寺や金銀螺鈿をちりばめた金色堂を建立し、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。しかし、仏教に深く傾倒したと思われる一方で、アラハバキ神を祀る丹内山神社をことのほか大事にされ、毎年の例祭には清衡自ら奉弊して、祭りを司っていたという。
 このあたりに、中央政権にまつろわぬ「蝦夷の神」の根深さがみえる。」

 蝦夷、安倍氏、藤原氏などこの地はまつろわぬ民の地であり、その神として「蝦夷の神」「荒覇吐(アラハバキ)神」を祭り代々崇めていたのです。