巨大なかつら石は、幅10m、横5m、高さ7m程です。なぜ髢石と呼ぶのかその謂れは以下です。
「毛越寺から達谷窟に向う道路沿いに悪路王(…ここに悪路王伝説がある)が手下と住んでいて、美しい娘がいるとさらって来た。娘の中には逃げ出した者もいたが、直ぐ捉えられ、見せしめとして首を切り落とされ、太田川に捨てられた。首は下流の大きな岩に流れつき髪の毛を絡ませたという。この岩に娘達の沢山の髪が“かつら”の様にまつわりつき、それでこの巨石を「かつら石」と呼ぶようになった。」との事です。
ここでも悪路王のことが悪し様に語られていますが果たして如何なものなのでしょう。
かつら石の裏手に回ると巨木の石を抱きかかえるように幹を這わせ、石の頂上部にすっくと立ち上がり、さも石から直立しているような様です。驚きの木の生命力です。
かつら石の7~8m程の山側奥に、つる草で覆われた見事な、凡そ各5m幅で高さが6~7m程もある三角形のメンヒルが単独で立っています。
磐神社は何度も訪れています。田んぼの中に参道があり木々に囲まれてぽつねんとあります。今回は車が何台か既に駐車されています。社務所で集会があるようです。
「磐神社
延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社 の一とされ、古代より崇敬された神で ある。この神社は男石大明神とも称し、 松山寺境内の女石神社と合せた陰陽の 二神で日本武尊、稲葉姫命をまつると され、二社に分れるが当社が本社とな っている。ご神体は東西一〇・二m、 南北八・八m、高さ四・二mの自然石 で古来社殿は設けないならわしであっ たが、明治三〇年頃、近郷の氏子の強い 要望による寄付金で拝殿が建築された。
なお、当社のすぐ右前方には安倍館 があり、安倍氏は当社を守護神(荒覇吐神)として尊崇し、磐井以南に威 を振う拠点をこの地に形成したと伝えられる。」
神社を参拝して裏手にある荒覇吐神の巨石を拝観しました。この巨石は通称、おいしさまと言われ、古来、松山寺境内にある女石神社と一対として祀られていてこちらが男石です。
この石の配置を見て木内さんは以下の様にお話になりました。
「この巨石は西向きのL型に積みあがれたように配置されていて祭壇として使われていた。ここで祭りごとをしていて、この石の下に石室がある。」
蝦夷の聖地であったのでしょう。磐神社の直ぐ南の小高い山は安倍館跡です。以下の記載もありましたので紹介します。
「磐(いわ)神社は、安倍舘跡の北側、直線距離で約500mの水田に囲まれた杉林の中にある。平安前期から知られた神社で、延喜式内奥州一百社の内で胆沢七社の筆頭社であり、『文徳実録』に、仁寿2年(852)8月7日条に「石神」が他の諸社とともに、従五位下を授けられたとの記載が残されている。
祭神は日本武尊と稲葉姫命、伝承では伊邪那岐命。通称は「おいしさま」と呼ばれている。社殿の裏にある高さ4.2m、縦10.2m、横8.8mの自然石がご神体で、安倍氏はこの大石を荒覇吐(アラハバキ)神として尊崇していたという。
アラハバキ神は、東北地方一帯に広く残る地主神で、蝦夷の神であったと見られるが、その実態については花巻市東和の「丹内山神社」でも記したように、よく分かっていない。
安倍氏滅亡後、奥州の覇者となった藤原清衡は、中尊寺や金銀螺鈿をちりばめた金色堂を建立し、奥州藤原氏四代100年の栄華の基礎を築いた。しかし、仏教に深く傾倒したと思われる一方で、アラハバキ神を祀る丹内山神社をことのほか大事にされ、毎年の例祭には清衡自ら奉弊して、祭りを司っていたという。
このあたりに、中央政権にまつろわぬ「蝦夷の神」の根深さがみえる。」
蝦夷、安倍氏、藤原氏などこの地はまつろわぬ民の地であり、その神として「蝦夷の神」「荒覇吐(アラハバキ)神」を祭り代々崇めていたのです。