2017年3月30日木曜日

894「蝦夷13」2017,3,30 神明社、梅ふたつ

 羽黒山を下り、北上川を渡りって水沢市内に入りました。次の目的地は奥州市水沢区神明町にあるアテルイの里、アテルイの生誕の地と言われる神明社です。
 小さな集会場の脇は広場になっていて、そこに神明社があります。参道には沢山の石碑が並んでいて、奥に小さな社、神明社があります。何故、アマテラスが祭られているのか分かりませんが。




 ここの石碑には、アテルイ率いる蝦夷軍が五万を超える朝廷軍を撃破した「巣伏の戦い」から千二百年目となることを記念して、「古代東北の英雄 アテルイ王千二百年祭記念碑」と刻まれています。3年に一度開催される「アテルイ歴史の里まつり」は、この碑の前での神事から始まるようです。
 アテルイの地元ではアテルイは英雄です。市内の各所にアテルイの関係したモニュメント、案内板が設置されています。

 昼食は水沢市街地の老舗の割烹料理のお店、梅ふたつです。玄関にお花が活けられ風情がある、老舗です。座敷にはお雛様が飾られています。普通のひな壇とくくり雛のものです。丁度、3月3日のひな祭りの前後をとおして水沢市内では「くくり雛祭り」が開催されていて、このお店もその見学コースになっています。大広間は私達が貸しきりでしたが見学の方々が訪れます。



 くくり雛祭りはこの地方ならではのお祭りです。以下の様に紹介されています。

「くくり雛は「押し絵」の技法で作られた雛人形のことで、水沢地方独特の呼び名です。厚紙の部品の上に綿をのせ、布で包み組み合わせて押し絵に仕上げていきます。水沢地方では、綿を布で包むことを「くくる」と言うことから「くくり雛」と呼ばれています。
 くくり雛の起源は、江戸中期にさかのぼり、その後、水沢の画人、砂金 竹香(いさご ちっこう)が女性や子どもの教育のために広め、明治時代から大正時代に盛んに作られました。内裏雛や三人官女、五人囃子のほか、歌舞伎やおとぎ話などを題材にしています。す。」

 ミニ会席ですがとても豪華な内容で、皆さん大満足です。デザートも美味しく頂き、ゆっくりと歓談できました。






 床の間には掛け軸の書があります。その字を判読出来ずに仲居さんにお尋ねしたところ、その方も分からず、ご主人が来て説明してくださいました。


「半生功名一鶏肋  新平」
 郷土水沢の名士、満鉄総裁、内務大臣、東京市長、拓殖大学学長を歴任した後藤新平の書です。このお割烹は後藤新平も利用したようです。
 その書の意味はご主人の解説では「我が半生の功名は一羽の鶏の肋骨の如くだ」との事です。鶏肋に付いて調べると以下のようありました。

「ニワトリ(鶏)の肋(あばら)骨のこと。食べるほどの肉もないが、捨てるには惜しいという意で、たいして役だつものではないが、捨てるのは惜しまれることのたとえ。
 中国、三国時代の魏(ぎ)の丞相(じょうしょう)曹操(そうそう)の軍は漢中を平定し、さらに蜀(しょく)の劉備(りゅうび)を討とうとしたが、進撃にも守備にも困難であったため、態度を決めかねていた。そのとき曹操はただ一言「鶏肋のみ」といい、部下たちはその真意を解しかねていたが、ひとり楊修(ようしゅう)だけがその意を悟り、「鶏肋は食えば得るところなく、捨てれば惜しむべきがごとし」といって引き揚げた、と伝える『後漢書(ごかんじょ)』「楊修伝」の故事による。」

 大いに心身満たされ、いよいよ巡りも残すところ少しになりクライマックスです。