2017年3月22日水曜日

886「蝦夷5」2017,3,22 荒雄川神社里宮

 次の目的地は大崎市岩出山池月にある荒雄川神社の里宮です。池月にある道の駅を過ぎて程なく右側にあります。ここの表記は以下の様にあります。
「祭神:
須佐雄尊と瀬織津姫尊を主祭神として祀る。宮城県神社庁によれば大物忌神が主祭神とあるが、由緒書や宮司に伺った話では里宮では祀られていないという。その他に、境内社として山神社(祭神:木花咲姫)と天神社(祭神:菅原道真)、水分社(祭神:水分神)などが鎮座している
歴史:
 由緒書によると、養老4年(720年)に創建されたという。玉造郡に鎮座する式内社三座のうちの一つである。鳴子温泉郷の鬼首温泉に鎮座する荒雄川神社と対になっており、岩出山池月の荒雄川神社は「里宮(里の宮)」、鬼首温泉の荒雄川神社は「嶽宮(奥の宮)」と呼ばれており、奉斎する宮司社家もそれぞれ別である。
 主祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊である。由緒によると、穢れを清める祓戸大神の一柱である瀬織津姫尊は、当社では川の上流を司る水神として祀られたものであり、神社庁の由来にある「大物忌神」の名も、荒雄川の清浄な水の流れを司る神である瀬織津姫への畏敬の念と、水を穢すことへの禁忌の念から名付けられたのではないかという。
 里宮の鎮座する地は古来からの聖地であり、境内には縄文時代の祭祀遺跡とされ「荒雄川神社遺跡」があり、神社周辺でも縄文土器や石器などが発掘されている。荒雄川  
神社が創建された後も神宮寺が併設されるなど、地域の信仰の中心地であった。
 前九年の役が起こると、陸奥守鎮守府将軍である源頼義は、安倍一族征討祈願のために大谷孝任を派遣して黄金10枚と黄金造の太刀一振りを奉納している。後三年の役の戦中である応徳三年(1086年)には、源義家も戦勝祈願をしたと伝わる。
 嘉応二年(1170年)に藤原秀衡が鎮守府将軍に任命されると、荒雄川神社は「奥州一の宮」と定められた。室町時代になり、奥州探題大崎氏が大崎五郡(志田郡・玉造郡・栗原郡・加美郡・遠田郡)を領有すると「大崎郡一の宮」として篤く崇敬され、社領三十貫文の寄進をうけた。江戸時代には郡内総鎮守へ指定、岩出山伊達家の氏神となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/荒雄川神社_(大崎市岩出山池月)

 駐車場の前に鳥居があり、階段を上り参道を進むと直ぐ正面に社殿があります。木々に囲まれて鬱蒼とした雰囲気で光が乏しい境内です。

 右手に縄が巡らされていて、大きな木の根があります。ここが縄文時代の祭祀遺跡とされ「荒雄川神社遺跡」です。上に記されてあるようにここは長い間、蝦夷の聖地であり、後世でも奥州一の宮として大事に祀られたところです。


 この里宮に対して、鬼首温泉に荒雄川神社の「嶽宮(奥の宮)」がありますが、この鬼首(おにこうべ)とはおどろおどろしい名前です。その由来を調べてみると以下の様です。

「温泉が地内所々に湧出し、古来、硫黄・石英・石雲母・金・銀・銅の鉱産や漆の生産に富み、馬産地としても知られていた。地名の由来については、坂上田村麻呂が蝦夷経営の際、蝦夷首領大武丸を斬ったとき、その首がこの地に落ちたので鬼首と呼んだという伝説がある。しかし鬼首は本来鬼切部(おにきりべ)と呼ばれていたもののなまりと思われる。鬼切部は平安後期奥六郡の安倍頼時と陸奥太守藤原登任の大戦があった古戦場。その安倍館と称するものが鬼切辺館あるいは鬼城と呼ばれ、古塁跡を残している。【角川日本地名大辞典】」

 果たして如何か分かりませんが蝦夷の栄えた地であり、大和朝廷に征伐された地である事は間違いありません。奥宮の由緒は以下です。
「奥宮は玉造郡延喜式式内社三座のうちの一座。「荒雄川」は江合川の別称である。主祭神は大物忌神で創建は不詳である。荒雄岳には雄石・雌石という2つの大石があり、その下から荒雄川の源泉となる水が湧き出ているという。その大石を『大物忌石』『大物忌神』と呼称し、社殿を建てて祀ったと伝わる。社伝や由緒によれば、もとは「荒雄河神社」と称し、荒雄岳の水神峠付近に江合川(荒雄川)の水源があり、そこに社殿を設けて荒雄川の水への畏敬の念を込めて水神である大物忌神を奉斎したという。」

 木内さんが言うには、神社では「ここは磁場として磁界が出るところだがエネルギーが少ない。縄文杉を御神木に祀ったものではないか。」との事です。
 木内さんはここの祭神の須佐雄尊とはご縁が深い方です。暫し、木内さんのお話に耳を傾けて境内を巡りました。