この奥州市水沢地区はアテルイの本拠地です。この地での経緯に付いて以下の記載があります。
「7世紀、8世紀はヤマトとエミシの相克の時代で、724年に多賀城を、759年に雄勝城をヤマトが築いたが、780年には海道エミシの伊治公呰麻呂が雄勝城を奪い、多賀城を焼き滅ぼした。
内陸の北上川流域では、族長アテルイのもとに大部族連合が結成され、およそ20年の間に、5万、10万、4万と3回にわたり送り込まれた政府側の大軍に、堂々と渡り合うエミシの軍隊が組織されていた(高橋富雄:辺境)と考えられる。
水沢地区の戦争は789年で、ヤマトの紀古佐美が5万の軍勢を進めたが、水沢江刺駅東方の羽黒山に400人の兵をひそめていたアテルイは、紀古佐美軍の退路を断って攻撃した。ヤマト軍の戦死者は20数名だったが北上川におぼれる者が1000名を超えて大敗した。
現在、羽黒山には出羽神社があり、すぐ横の小高い丘にはアテルイとモレを顕彰する碑が一般からの寄付金で建てられ、また、地元民の奉仕で発掘調査もおこなわれ、当時の遺品が見つかっている。
その戦いの主戦場が「巣伏」で小さい記念公園がある。ここは「跡呂井地区」でアテルイにかかわる地名である。丘の上には「たんぼアート」見物用のやぐらが建てられている。
その後、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には胆沢扇状地の北部に胆沢城を築いた。兵力だけでなく民力の消耗もあり、この年にアテルイとモレは講和に応じて平安京にのぼったが、危険人物として処刑された。
この一連の経緯をヤマトによるだまし討ちとする説もある。二人の魂は成仏を拒み、怨霊となって悲痛な声を上げながら都の空を飛びまわったともいう。
ゆかりの枚方市の片埜神社では毎年慰霊祭が行われ、また、田村麻呂の創建の清水寺にもアテルイとモレの顕彰碑がある。
アテルイにちなむ地名の跡呂井が水沢にあり、モレ(モライ)には母体(モタイ)地区が前沢にあり、アテルイの甥、人首丸にはヒトカベ地区があり、いずれも奥州市内の地名なのでアテルイ一族は奥州市を中心に統治していたエミシの豪族であろう。」
出羽神社を参拝して尾根に沿って西に向かうと眺望が開け、丸太で作った物見櫓が目に付きます。その手前にアテルイとモレの顕彰碑があります。アテルイとモレの顕彰碑活動は以下のサイトを参照下さい
この山頂からは180度の見晴らしが効きます。有効な陣地としてアテルイの拠点であったことが伺いしれます。
暫しアテルイとモレの活躍した時代に想いを馳せました。坂上と和議を結び、上洛したのに、坂上の助命嘆願も聞き入れられず惨殺され、同行の兵500名も毒殺されたのです。そのアテルイの墓が枚方市の牧野にあります。
木内さんがおっしゃるには、「坂上田村麻呂はアテルイの能力を認め、蝦夷たちの自然と共存し豊かな生活、治世の素晴らしさを大和朝廷でも活かせるのでは、と想い和議を結んだ。しかし、時の朝廷、桓武天皇は蛮族で敵視し危険と思ったので惨殺したのでしょう。」
坂上田村麻呂は同じ武将ゆえ、敵対したとはいえその器量をよく知り、彼の命を惜み、冥福を祈り京都の清水寺を建立します。
しかしやがて坂上田村麻呂も嵯峨天皇の勅命により、京の都の「鬼門」となる東北の方角を守るように武具をつけたまま殺害されたと言います。そして、やがて坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と崇められるようになり、坂上田村麻呂が創建したとされる寺社が東北を中心に各地に建立されるのです。
平安時代では蝦夷は蛮族でしかなく、日本人扱いをされていなかったのでしょうが、東北の人たちにとってはアテルイは郷土の英雄だったのです。
「北のまほろば・蝦夷の矜恃」も参考にしてみてください。