心の在り様が全てですが、人間の心はいつも、ころころして定まらないので心と言う、と何方かが言っていましたが、ある意味、人間性が心です。人間性は人間の本性で、人間らしさです。
幕末の勤皇志士として有名な高杉晋作が病床で最後に読んだ歌、辞世の歌に以下の言葉があります。
「面白きことも無き世を面白く、すみなすものは心なりけり。」
前の句の「おもしろきこともなき世をおもしろく」は高杉晋作の句で、後の句の「すみなすものは心なりけり。」 は晋作の看病をした野村望東尼(のむらともに)が、下の句を読めずにいた晋作に代わり、付け加えたそうです。
その意味は「面白く無いこの世の中で有ろうと、その人の心がけ次第で面白く生きる事が出来る。」とのことです。
この言葉を初めて知った若かりし頃から私の心に残っていて、良く一人口ずさんでいました。心の置き所一つで物事の見え方を変える事が出来る世界です。
私が学ぶ生体エネルギー理論では心の在り様、人間性を重要視します。
心は諭(さとし)、教(おしえ)、慧(めぐみ)の三つの業と、これを解く意叡(いえい、いのちの心)と託宣(たくせん)の5つで決まると言います。
本来、心は善なのですが、業を見誤って受けとると、諭、教、慧の三業が悪的内容で捉えられ、その結果心が悪となってしまうことがあります。全ては諭、教、慧の三業の捉え方次第で、そこが大切です。
この三業を少し紐解いてみます。
諭は業(ぎょう)を示します。これを私たちの前兆として受け取ります。しかし、この前兆は受け取る側の位置によって、カルマとしての業になってしまうことがあります。ですから、全ては受け取り側の次第になります。
教は業(ぎょう)を示します。これは私たちの行いの全てで、それを行、業、示行の3つのぎょう、の行いに分けることができます。また、行いには、善と悪があります。つまり、本来、善行であるものも、教を受けた私達次第で悪業にしてしまうこともあります。正しい行いに戻すことが、真の教えです。
慧は、業(わざ)を示します。この業は今まで出来なかったことが出来るようになることを示します。そのために、人はこの業により驕ってしまうことがあります。それを驕らずに慧として、謙虚に受け止めることが出来れば、業は感謝に繋がります。
以上のように、三つの業は受け取る側の捉え方次第で、その存在を善くも悪しくもします。さらに、三つは、互いに結びついており、本質において一つである、「三位一体」です。この三つに意叡と託宣が加わり、心が決まります。
意叡は、意識・叡智を意味します。そして命の心、命心と解かれます。それは「命」も「心」も意識・叡智で作られているからです。
託宣は宗主神からの託宣を意味します。生体エネルギー理論の基本をなる想造量子宇宙論では、存在全てを「神子成神子」と表し、神の子と捉えています。存在の源の「そしじ」(宗主神)から生まれた全ての存在は、その託宣を受け、存在し続けることが出来ると考えます。
これら五つのどれがかけても、存在は無いし、これらの五つの位置を何処に置くかで、その存在の姿勢を決める心のあり方が変わってきます。