その概要は以下です。
「北上川と和賀川が合流する北上域は、旧石器時代から人の暮らしが刻まれてきました。和賀川北岸には7世紀後半から8世紀前半にかけて造られていた古墳群が点在し、八幡地区は古墳時代の大集落跡があり、この北上川と和賀川の合流地で古には栄えたところです。」
「江釣子古墳群は和賀川北岸に分布する、五条丸・猫谷地・八幡・長沼の各古墳群の総称です。昭和26年に初めて発掘調査が行われ、北東北の古墳群の調査の先駆けとなりました。これらの古墳は7世紀後半から8世紀前半にかけて造られたもので、直径6~15mの円墳が約120基以上あり、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)、蕨手刀(わらびてとう)、直刀、馬具などが数多く出土しています。中でも金張ガラス玉は国内でも数例しかない貴重な出土品で、古代に大陸との交易があったことを推測させます。江釣子古墳群は1979年(昭和54年)、国史跡に指定されました。」
公園には沢山の家族連れが遊んでいます。その中に「カムイヘチリコホ」という公園があります。カムイヘチリコホはアイヌ語の「神々の遊ぶ所」を意味すると言い、この語が「江釣子」の語源ではないかということです。古墳をイメージした石造りの野外ステージがあり、ガウディ的な印象が少しあります。その西側に八幡神社がありますが閑散しています。公園に戻ると北上市近郊の遺跡などの案内板などがあり学習出来る様になっています。
木内さんがアテルイに感情移入して当時の景色を見てみると、「アテルイが住んでいたところはこの地のような開けた丘の上で山が見え、ここのような感じがする。」との事です。交通の要所で自然の恵み豊かな地で、古には栄えていたところです。
次の目的地は同じく北上市立花にある多岐神社・東光水の滝です。ここにも何度も訪れています。集落の奥に神社はあります。鳥居周りの木が伐採されています。神社の環境整備がなされているようです。私達が訪問し始めると何故か手を入れることが起きて綺麗に整えられるようです。
ここも坂上田村麻呂所縁のところです。多岐神社の由来は以下です。
「(北上市)指定文化財 正一位 多岐大明神
抑[そもそも]、多岐大明神と申し奉るは、往昔人王五十代桓武天皇の御宇、征夷大将軍坂上田村麿、勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共を退治の為、陸奥に下りけり。
稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して、余多の手下(を)擁して其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、巌窟峻険にして容易に攻め難く、止むなく北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、路に迷いて難渋、加えて六月中場の炎天、軍兵渇して疲れ倒れる者出る始末なり。
このとき八十余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり、下流に瀧有りと申したれば、その瀧に到りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大いに揚がる。而かして翁の案内にて三光岳を急襲至しければ、流石の岩盤石も三百余打討られ北方へと逃げされり。
将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。
其の後将軍、鬼神悪路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり、当所に立ち寄りて、かつての翁を尋ぬるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く知る者も無しと、かへりみるに此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれば病気直ちに全快するとの霊地あり、翁は其の瀧の化神に非ざるかと申し上げたれば、将軍不思議に思い、瀧に参りて見渡すに……瀧の下なる石に砂銀置かれ在るを見る、些ては矢張り翁は化神にて征軍の難渋しあるを見兼ね、自づから御導引きになられたに相違ないと、その有難さに、瀧の落つるに向いて三度礼拝し、命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。
ときに、延暦二十一癸未年八月の事なり。」
神社奥の東光の滝を観光しました。いつもの様に少しの水が黒光りする岩を滴り落ちている感じの瀧の流れです。龍神様の姿が見えます。