2018年1月31日水曜日

1201「生成発展1」2018,1,31

 2018年の流れを見る次なるポイントははせくらみゆきさんの視点です。正月早々のブログに「2018年のテーマ「生成発展」と一年の流れ 」(2018年1月2日)に以下の様にあります。

「新年、明けましておめでとうございます。とうとう平成30年の幕開けとなりましたねー。
 時代が急速に変わろうとしている今、新しいテクノロジーが台頭してきて、私たちのライフスタイルも変化しつつあります。きっとこのまま様々なものが変わっていくと、20年後には、手間暇かけて作り上げていくことや、人間らしい感情の機微や理不尽さが、かえって貴重になるのでは? なんて思ってしまいます。
 そんな中、やはり、生きていく中で、大切にしたいことって、「大好き」って思ったり、「おおっ!」と心がぐぃんと動いたりと、そんな愛と感動の気持ちの積み重ねが、ますます人生を豊かにしていくんだろうな、と思います。
 さて、せっかくですので、新年のテーマとして、昨秋に出した新刊、「奇跡を呼び込む幸せ手帳2018」にも書いてある2018年のテーマをお伝えしますね。
 今年の大きなテーマは、「生成発展」。このことを短い一言で言うなら、「日々、新たに」という気持ちで臨むということ。

 私たちは日々、生まれ変わっています。昨日の延長線上に今があるのではなく、本当は逡巡刻々と新たな自分が創出しているのですね。
 また、生成発展というのは、宇宙の法則性そのもの。どうぞ、ありのままの自分、素の自分が、どうしたいか、どう感じているか、そのことを大切に進んでみられるとよいかと思います。
 まあ、実行に移すには、それなりの勇気が必要かもしれませんが、離れるものは離れるし、繋がるものは繋がるんです。皆、それぞれ心地よい方向に進んでいく…
 これが長い目で見ると、やっぱり自然なんですね。
 100年ライフの今、頑張る自分もいいけれど、心地良い自分を選ぶことで、生成発展のリズムにスーッと乗ってしまう、そんな大いなる船に乗って、歩む一年となればいいですね!
 では、年末に昨年一年の月別キーワードをお伝え致しましたが、せっかくですので2018年のキーワードも、一年分書きますね。
 どうぞ、キーワードも参考にしながら、一年の流れややりたいことなどを、脳裏にくっきりとイメージしながら、最高に成就してご満悦顔の、2018年最後の日をセッティングしてみてくださいね。

1月 平安
2月 集中
3月 実行
4月 展開
5月 整理
6月 調整
7月 知恵
8月 繋がり
9月 前進
10月 挑戦
11月 安定
12月 構築

…となっています。
 ちなみに一月のテーマ「平安」は、穏やかな心でゆっくり見渡す月でもあります。
 実際のスタートは節分以降となるので、それまで、じっくりと今年の流れを加速させる、種まきや準備を愉しんで下さいね。
 それではまたね。どうぞ、素敵なお正月をお過ごしください♪」

2018年1月30日火曜日

1200「戊戌5」2018,1,30

 1月31日のスペシャルな天体ショウに触れたブログがありましたので紹介します。

「スーパー・ブルー・ブラッドムーン(皆既月食)」
「このような珍しい空のイベントは、私たち個々にもエネルギー的にとても強い影響を与えます。天から大きな波が押し寄せてさざ波のように届くのです。その影響は、25日(木)半月あたりから徐々に強くなっていくでしょう。今からそのために必要な心構えをして、そのパワーを最大限に受け取る準備を始めましょう。
 皆既月食は一般的に「人生のターニングポイント」をもたらす傾向があります。さらには、あなたが普段あまり気づいていないにしても改善すべき箇所にスポットライトを当てて見せてくれます。いつもつい感情的になって、つい逃げがちな側面です。
 皆既月食の期間は、生活や今後に対する不安の感情が拡大され、心の揺れが生じることもありますので、あまり真剣に捉えすぎないように気をつけましょう。
 実は、自分の恐怖、希望、自分の真実を冷静になって見つめるチャンスなのです!深く自己の内面に入っていき、自己を冷静に観察するのに適したエネルギーがやってきます。
 今回の満月に限らず、巡り巡ってくる皆既月食は常にそのような自己発見のワークに適しています。
 それに加えて今回は、自分の人生に責任を持ち、これから自分の真実に生きる力を与えてくれます。人生という舞台のヒーローは「自分である」という確信を深めてくれます。人に依存することなく、自分の足でしっかりと立ち、自分以外の誰を責めるのでもなく、これからの人生を自由に歩んでいく出発地点に立つチャンスを提供してくれます!
 この数年間受け続けてきた人生レッスンが、ようやくある節目を迎えようとしています。昨年の8月頃からはっきりしないで続いてきたことが、決着を迎えるでしょう。そういう意味では、この満月(31日)以降は、「スッキリと吹っ切れた」、あるいは「なんとなく気持が軽くなった」、を味わうことができるでしょう。
 満月までは、スピリチュアルレベルと感情レベルにおいて、なにが起きているか、細やかに内面を観察してください。2017年は多くの方々にとって変容の年でした。昨年の夏頃から新しい方向性に向かった人も多いかと思われます。
 1月31日の満月は、ただ決着や節目を迎えるというだけではなく、まったく今までとは異なる新しいことを現実レベルでスタートさせるのを促すエネルギーがあります。そのエネルギーが今年の7月、8月あたりまで影響します。満月までの期間にそのために、それまでに終わらさねばならないことを片付けましょう。手放すべきことは、潔く手放してください。
 独自の道を進む決意を固めてくれます。これは女性性の強さを現している側面ですので、今の米国の動きもまさにこれの現われといえます。その強さとは、今まで自己卑下したり、過小評価していた自己価値を見直すためです。自らのパワーを取り戻す気づきに満ちたクリアな意識シフトが起きようとしています。
 今回の満月は、以上のようなことを心に留めておかなければ、感情的にかき回される可能性もあります。いつもとは違う感じで光が投げかけられるので、これまで現われてこなかったものが、「シャドウ」として現われるかもしれません。しかし、強いネガティブな感情的な影響もポジティブな変化をもたらす前に必要な浄化にはちがいなく、現われた陰影も「自分のシャドウ」として自己統合し、バランスを促すことができるでしょう。
 今年のキーワードは、「プッシュしないで、宇宙の流れに委ねましょう!」です。
さらには、高次の存在たちとつながり、存分に援助を受け取ってください!
https://ameblo.jp/taenu1/entry-12346717186.html

「150年ぶり青い月の皆既月食 1月31日」
「日本では3年ぶりの皆既月食が見られます。ブルームーンは、ひと月のうちに二度満月が起こること。そう、今年は年明け早々にスーパームーンが観測され、さらに月末はスペシャルなファースト・ブルームーンの皆既月食。ブルームーンで起こる皆既月食は150年ぶりです✨(直近のブルームーンの月食は、約152年前の1866年3月に起こりました。)
 今回の皆既月食は日本では約77分にわたって観測できるでしょう。快晴なら東南東の空にある月が欠けはじめるのは20時48分から21時51分に南東の空で皆既食がはじまります。欠けはじめから終わりまで観察することができる今回の皆既月食。月がイエローから赤胴色に変化する様をぜひ観測してみてください✨
 このブルームーンの皆既月食のあとブルームーンで起こる次回は2028年12月31日。
そして次は2037年1月31日に完全な皆既月食が見られます。ブルームーンでの月食は2009年12月31日にもありましたが8%の部分月食で、今回のような完全な皆既月食は
152年ぶりの最初の月食にあたるのです。
 そんなこんないろいろスペシャルな天体模様の今年は、本当にあらゆる意味で変化の展開がこれまでと異なっています。
 獅子座の満月(皆既月食)は私たちに過去にとらわれることなく、前進するように促しているようです。かなりブレイクスルーな☆の配置。気になるのは、地震があるかもしれないですね。そんな大きなものじゃないと思いますが揺れくる...はありそう。
 土星(超現実主義)と海王星(ファンタジーな想像性)はともにノーアスペクトなのが印象的です。冥王星と天王星のスクエアはこれが少し気になるけれど、長くつづいた天王星と冥王星のスクエアは変わらざるをえない世相的な動きでもあり、変容の象徴スクエアなので困難をともなう(痛みを)。けれどもこれきり牡牛座へ移動していく天王星ですから(とはいっても再度、牡羊座に戻ってはきますが)。
 水瓶座ー獅子座で起こる満月は自己の限界を突破するように、枷を外すように心のブレーキを解放し、偽りのない自分と向き合うなかで生まれた希望に、飛び込んでいくように
射手座入りしている火星が勇気づけてくれるでしょう。
 射手座の洗練された勇敢さはとても大切。チャレンジには失敗なんて存在しないのに躊躇している暇なんてありません!という感じ。変わりたい人にとってここで勇気をふるっておくことはとても重要。
 時代は大きく変わろうとしています。この2018年~新たな7年サイクルが開始されます。乗り遅れのないように!エールを込めて✨あなたの夢を叶えると決めてください✨
 ムーンパワーを信頼しろといっているわけじゃありません。あなた自身を信頼して自分にならできるとあなたが確信を持つことが大切なのです。
 ウルフムーンのブルームーンの皆既月食、そしてそれをサポートするほかの星々の輝きは、あなたがあなたのイメージする最高のあなたを生きるように、エールを送ってくれています✨
http://akomorimura.blogspot.jp/2018/01/blue-moon-and-lunar-eclipse.html

2018年1月29日月曜日

1199「戊戌4」2018,1,29

 イシスさんのメッセージの続きですが、天赦日のメッセージのこと紹介します。
「●2/1(木)と15(木)は「天赦日」と呼ばれる「百神が天に昇り万物の罪を赦すとされた最上大吉日」です。
 そして、天体上には「ホワイトホール」と呼ばれる「事象の地平線から運命の強運となるものだけを放出する」部位があります。
 2/1と15は、そのホワイトホールが開きます!
 天体の「ドラゴンの頭」と呼ばれる「前世の良縁による恩恵」がテーマの部位が、このホワイトホールに関係しています。
 加えて2/1も15も木曜日。シュメール(古代バビロニアから伝わる占星術)では、木曜日は木星(幸運力・可能性の拡大など)の支配にあるのです。
●両日の天体の動きを見てみました。惑星のエネルギーは集団意識に働きかけて世の中を動かします。
 2/1、太陽は「景気循環の法則を掴む」、月は「クチコミ、ブーム」、木星は「標的を狙い打ち」、ドラゴンの頭は「脚光を浴びる」でした。
 そして2/15は、太陽は「霊的感覚で正確無比の判断をする」、月は「精鋭を揃える」、木星は「変身」ドラゴンの頭は1日と同じでした。物凄いエネルギーが降りるのは間違いないので、実に楽しみです。」(2018年01月16日)

 そして2018年1月31日はこれまた特別な日なのです。「スーパームーン、ブルームーン、ブラッドムーン(皆既月食)」の3つが重なるのです。約152年ぶりのことです。

 1月31日には、皆既月食が全国各地で見られます。
「皆既月食とは、太陽、地球、月の順番で一直線に並んだとき、地球の影に月がすっぽり入る現象のこと。皆既月食になると、月が赤銅色(しゃくどういろ)と呼ばれる赤黒い色になります。
 1月31日の月は20時48分に欠け始め、21時51分には完全に欠けて皆既食となります。月の色が変わる皆既状態は1時間17分も続き、23時8分には輝きが戻り始めます。日付が変わった真夜中0時12分にもとの丸い月に戻ります。
 今回の皆既月食は時間帯も月の高さも、とても観測しやすい好条件にあるので、天気に期待したいですね。」

「スーパームーン」とは以下の事です。
「スーパームーンを簡単に言うと「いつもより大きく輝いて見える満月」のこと。天文学用語ではなく、その定義もはっきりしませんが、夜空にひときは輝く美しい月は、神秘的な気持ちにさせてくれます。
 ではなぜ、スーパームーンなる現象が起きるかというと……
 月は、地球の周りを約27.3日かけて一周します。その軌道は完全な円ではなく、太陽や地球の重力の影響を受けて、楕円を描きながらまわっています。地球と月の間の距離はたえず変化していて、近いときは約35万km、遠いときは約40万kmと、約5万kmも違います(平均距離は38万4400km)。
 このため、最も大きな満月と最も小さい満月を比べると、大きな満月は14%も直径が大きく、30%も明るく見えるのです。
 直近では、2016年11月14日の満月が35万6521kmまで地球に近づきました。68年ぶりの最接近となる超スーパームーンでした。」

 実は2018年1月は既に2日にも満月があり、31日の満月は2日に続き2回目の満月です。このように1か月の間に2回満月が起こるときにその2回目の月を「ブルームーン」と呼ぶことがあります(学術用語ではなく、俗称です)
「ブルームーン」を直訳すると「青い月」ですが、実際に青く輝くわけではありません。ブルームーンは天文現象ではなく、月の満ち欠けと日付のめぐりあわせによって生じます。
 では、なぜ見どころの1つにあげたかというと、ブルームーンには「見ると幸せになれる」という言い伝えがあるからです。
 英語には「once in a blue moon」という表現があって、辞書を引くと「ときたま」「めったに~ない」とあります。ここから転じて「ブルームーンはめったに起こらない幸運なこと。見ると幸せになれる」といわれているのです。

 そして今回の皆既月食はブルームーンと重なるのです!となれば、今回の皆既月食を見逃すわけにはいきませんよね!
 このブルームーンが、今回は皆既月食で赤く見えることになります。言葉遊びに過ぎないといえばそれまでですが「赤いブルームーン」を眺めてみましょう。
 天文現象だけでなく、ブルームーンというロマンチックな面もあわせ持つ今回の皆既月食。普段は宇宙や天体にあまり興味がないという人も、ブルームーンを見ると幸せになれるという言い伝えをきっかけに、皆既月食も楽しんでもらえたら嬉しく思います。」

 次回日本で「赤いブルームーン」が見れるのは2037年1月31日です。
 今回は152年前の江戸時代から明治維新に変わる時以来のものと言います。何かある意味で、明治維新的な大きなことが世界レベルで起きている可能性があります。

2018年1月28日日曜日

1198「戊戌3」2018,1,28

 干支九星気学で2018年を見てきましたが、私の身近な方にその道のプロが居ます。イシスさんというホロスコープを活用した西洋占星術の読み解きをなさいます。イシスさんの2018年の流れを「ジュビターメッセージ」で少し紹介します。
 
「先ず惑星の動きからの最新情報を。
 今年(2017年)の12/20からの土星(試練・長期的計画・経済基盤・不動産など)が移動する事によって以下の事が予想されます。
●土星は、2017の12/20~2020の3/22まで山羊座に入ります。
 山羊座には、既に冥王星(破壊と再生)が2008の11/27から入っており、2023の3/24まで「株・不動産・政治・経済の大変動、国や組織のトップの交代・破産と再生」が進行中であります。 これに、土星が加わることにより「不動産のバブル崩壊、大手企業の倒産、組織や会社のリーダーの交代」が濃厚です。
 また、土星は人間関係や精神病にも関係しています。ストレスによって精神を病む人が増えたり、自殺が増える傾向も。既に精神や心の状態が不安定な方は、決して無理をなさらずに楽な道を選択するチャンスに思います。逃げではなく新しい選択です。
 勿論、悪い面だけではなく良い面もあります。「長年の努力に見合う昇進や新しい時代のリーダーが登場、法律の改正」という流れもあります。リーダーが代わったり、昇進や会社のシステム変更で楽になる方も出てくるでしょう。
●土星と冥王星の関係から、心の在り方によっては吉凶が大きく分かれるのは確かなので、非常に大事な節目です。
 自分の「人間関係、仕事、経済、精神や心の状態」を見極めて、軌道修正したり新しい出発をする方も多くなるでしょう。」(2017年11月17日)

「今年(2017年)の終りまで、今までの道のりが一区切りとなります。
 来年(2018年)から、集団意識が幻想や不安定さ、曖昧さを無くしていく方向に向かいます。それが顕著に現れるのは来年の1月17日以降のようです。
●来年の1月17日(山羊座の新月)は、進行の月(感情・ライフスタイルなど)と天王星(改革・激変など)が90度になり「強い開拓力と破壊力」をもたらすのです。
 良い方向に働けば、起業、吸収合併、転職、引っ越し、進路変更、新規開拓となります。 悪い方向に作用すれば、急なリストラや移動、引退、退職、破産、環境や健康の悪化など。
また、この日は、土星(障害や経済基盤など)と冥王星(破壊と再生)も天王星と90度になっています。
 それによって、社会的な不況や反社会的な人々が増え、強い破壊的衝動や暴力などが問題になってくる傾向があります。
 月のシンボルが「核爆発」。これの意味は、放射能以外にも、自分の芯が抑圧によって爆発することをあらわします。
 天王星のシンボルが「自然が減る」です。何かとても心配です。天王星は地震にも関係あるからです。
●これに対処する案があります。この日の月と木星(幸運力と楽観性など)。それから、月と海王星(波動、音楽、芸術、共感共鳴など)が60度になります。それによって、人との協力や助け合い、優しさや社交によって吉をもたらすのです。
 つまり、独りで突っ張らないで助けを求め、見栄を張らず嘘をつかず現実を落ち着かせる事が肝心。将来の目的を同じくする人達と手を繋ぎ、共鳴していく事が必要なのです。良い周波数を選び、気持ちの良い音楽や感動するエンターティメントで調整していきましょう。」
(2017年12月17日)

 次に2018年01月21日のメッセージを紹介します。
「今、事象的に、安室奈美恵さんに小室哲哉さん、その他にも色んな方々が引退したり、表明しています。いきなりマニアックな話で恐縮ですが、私の好きな「名探偵コナン」の作家である青山先生が、長期休養を致しました。
 また「名探偵コナン」と同じ少年サンデーで長年連載していた高橋留美子先生の「境界の輪廻」も終了してしまいました。この時、私はハッキリ節目が来たのを感じました。
 現在の事象の面白いところは、昔のヒットソングやアニメ、漫画、小説のリバイバルや続編がスタートしたりする「過去回帰の現象」が元気をくれていることです。
●「けじめ、決断」という波が大きくなってきています。これは、天王星の移動する今年の5/17以降、最もハッキリします。国のトップが変わったり時代が大きく動くでしょう。前回の天王星の移動では、東日本大震災を引き起こしています。天王星は革命と激動の星。1月の天王星との緊張角度による大改革・破壊力も、影響力が強いようです。」

2018年1月27日土曜日

1197「戊戌2」2018,1,27

 次に九星気学でみると2018年は「九紫火星(きゅうしかせい)」が支配する年です。その意味は以下です
「日盛りの南天に沖して燃える太陽の意味で「火」の意味があります。燃え上がる火の象意で明るく光り輝き四方を照らします。九という数字は一からはじまる数の中で最大のものであり九天に達する(神の領域に達する)という言葉があります。変化しながら昇るという運や二度の作用と言う意味の運を持つことが特徴と言えます。」 

「九紫火星の年には
明と暗がはっきり分かれる
分岐点を迎える
潜んでいたものが現れる
目先の利益に目を奪われ、簡単に白黒をつけてしまう
理性より感情に流されやすい
大きな火事が起こりやすい
争いが起こりやすい
学問や芸術に関するニュースが多い
という意味などがあると言われています。」

これを踏まえて2018年に起こると思える事象は以下のようです。
「今年の経済状況や世相などとをまとめると、
情報の漏洩や偽情報の流布などで、信用が大きく損なわれる
新しい商品、芸術、文化、価値観などが現れる
経済格差が広がる
新しい法律や制度などにより混乱が起きる
悪目立ちして身を危ぶむ人が多い
政治家の離合集散が続くが、新しい風も吹く
企業により好調不調がはっきりする
短期の投機やうまい儲け話などは要注意
山火事、噴火などの大きな火事に注意
軍事的緊張から短期間の衝突が起こりやすい
新しい学術的発見がある
隠されていた秘密、隠し事がが暴かれる
ということが言えるかもしれません。」

「戊も戌もどちらも「土性」で、かなりドッシリと構えた雰囲気です。それを九紫火星が火生土の流れで強めています。土性の「蓄える」「準備する」盤石さを生み出すためには九紫火星の「一芝居」が必要なようです。」

「ここから導き出される大きな流れ…それは、これまでこそこそ準備してきた「二分化」の流れが表面化します。 ちょうど九紫火星の「離の作用」が強まるため「分裂」「対立」などが起こります。2018年は国内外問わず、解体・分裂がキーワードになります。」

「九紫火星中宮という作用から「2」、「目」の力が強くなり、2018年はより一層ヴィジュアルが重視され、視覚情報に訴えかけるものがチカラをもちます。
 映像戦略やメディアの力が強くなる反面、その裏側(二つ目の視点)も浮き彫りになりやすいでしょうね。テレビとネットの二極化が進み、テレビの限界点が見えてきそうです。
 二足のワラジという意味で「副業」「複業」を促すようなサービスや政策も大ヒットしそうです。2018年は「もうひとつの目」「二つ目の視点」というものが非常に力をもちます。」

 如何でしょうか。この年に向かい、その対処法が記されていました。
「土の性質は変化です。戊戌の干支は土が重なります。ですから、変化にいい年。あなたも変化をするタイミングなのです。ただ、重要な事があります。
 歴史を見ると、変化は「待っていて起こるものではない」ということも事実のようです。
変化するためには、やっぱり勇気が必要。思い切りが必要な事例が多いんです。生い茂った枝葉を切り落とせるか
 今までなかったことを、やるというのは、勇気も努力も必要なんでしょう。その勇気とは、今までのこだわりを捨てる勇気。新しいものに目を向けるためには、やはり、こだわりを捨てる勇気が必要になります。」

タイミングが大事なんです。いつなら変えられるのかと言えば、まさに戊戌(つちのえいぬ)のような年なのでしょう。2018年がその年です。変えようと思うなら、このタイミング。そういう意識で2018年を迎えると、何か大きな変化を手に入れることができるのではないでしょうか。それは進化とも言うべきな変化。
 つまり、今までよりも良くなろうと思うなら、思い切って変えてみましょう。変えるためには、まず捨てること。今まで考えもしなかった新しいものに挑戦してみたり、今までのアプローチから思いっきり別のアプローチに変えてみたり。
 勇気が必要なぐらいの変化を求めなければ、成果は期待できないのかもしれませんね。
2018年は、そういう年なのではないでしょうか。勇気が試されそうですよ!」

2018年1月26日金曜日

1196「戊戌1」2018,1,26

 2018年1月もあっというまに月末になりました。強烈な寒波が日本を襲っていますが、白根山噴火や地震など地球は変化激しく人間は翻弄されています。節分2月3日を過ぎ、立春2月4日から節入りしていよいよ2018年の本番がスタートします。
 私は年初には今年は果たしてどんな年になるのか先人の知恵で一通り確認して、楽しみながら過ごせる心の準備の一助にしています。
 果たして2018年は如何でしょうか。2018年は十干十二支九星気学でみると、戊戌(つちのへ いぬ)・九紫火星(きゅうしかせい)です。その意味を紹介します。

 まず十干の戊(つちのへ)です。
「十干の「戊」は、生命の成長サイクル「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の十種類のうちの5番目にあたり、勢い良く葉が茂る様子を表し、横溢する生命力、繁栄を意味している。
 易学の古典によると「戊は“茂”に通じ、陽気による分化繁栄」と書かれていて、人間で言えば仕事をバリバリとこなす壮年期であり、人生で最高の活動時期という事になろうか。
「戊」の文字の成り立ちは、その部首が「戈構(ほこづくり)」であることからも分かるように、先端に斧状の刃がついた矛(ほこ)の象形文字である。これは、農作業で伐採する道具の事を指し、繁りすぎた枝や葉を落す作業に用いられたと言う。

「戊」は、陰陽五行「木・火・土・金・水」の分類では「陽の土」に当たる。方位も五行で分類されるが、土は東西南北のどこにも関わらず中心点にある。季節も同じく春夏秋冬のどこにも関わらず、四季の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の直前の18日間ずつが土となる。土用の丑の日で有名な土用はこの期間に当たる。
 このように五行における「土」は中庸であり、陰にも陽にも属さない。これは一種の安定とも取れるが、他方、陰陽と言う二極に分類されない不安定な境界線上にあり、ヤジロベエの一本の足のごとく、バランスがくずれれば、どちらにも転ぶ可能性がある状態とされている。」

 十二支の「戌」の意味は
「「戌」は「一」、「戈(ほこ)」から成り立つため、刈り取って一つにまとめるという意味を持ちます。同時に、「滅」に近い漢字でもあり、草木が枯れ果てた状態を指す。「戌」の前の「酉」が収穫を表すため、納得ですよね。逆に「戌」の後の「亥」は草木が種の中で育ち、「子」で芽吹きを迎えます。従って、「戌」は秋・冬の季節にあたるというわけです。」

「「戌」という文字は「一」と「戊」で成り立っていて、刈り取って束にした草と、刈り取りの刃物を表した象形文字であり、「終わり」を意味している。そこから派生し、後に「滅」という字が生まれた。」

「戌」は、本来は「滅」という字で、草や木が枯れる状態を表すと言われたりしますが、全ての物が土の中に還っていくような状態とも言われます。また、「戌」自体には作物を刃物で刈り取り、ひとまとめに締めくくるというような意味合いがあります。

「そして「戌」は、陰陽五行の分類では「陽の土」に当たる。つまり「戊」と同じである。このような「陽の土」×「陽の土」という同じもの同志が重なりあう関係を「比和」と呼ぶ。」

 そして干支の「戊戌」の関係で見ると、
「十干・十二支はそれぞれの意味はもちろん、組み合わせによって表す意味が異なる。例えば、お互いに強め合うもの、打ち消し合うもの、どちらかを凌駕してしまうものなどがあり、この比和の関係は、相互を最強に強め合い、プラスとマイナスであっても互いに打ち消し合うことは無く、どちらかに転んで持てる属性を最大に発揮するものである。」

「この比和は同じエネルギーが一段と高まるとの意味で、良いエネルギーは一段と向上する一方、悪いエネルギーは一段と悪化するのだとか。勝手に解釈するならばリセットした状態であるだけに、良い方向と悪い方向、どちらにも傾きやすいリスクをはらんでいる。」

「つまり2018年の「戊戌」という干支が意味するものは、大いなる繁栄を意味する十干の「戊」と、滅亡を意味する十二支の「戌」が、「比和」という関係によってその威力を最大限に強めつつ、でもどちらに転ぶかは不安定な境界線上にある、ということになる。
十二支の戌は終焉を表し、滅亡を意味する。そして一つの滅亡は新たな誕生の源となる。

「何かしら大きなことが起こることが予想されます。良いこと、悪いことがはっきり分かれるでしょう。
 草木が再生するために地に還るように、不要なものは切り捨てることで新たなチャンスが得られます。何を取って何を捨てるかを明確に定めるのが大事です成長や成熟とは違って、別のステージに行く感じです。枯れないために。考えてみてください。

2018年1月25日木曜日

1195「救世主13」2018,1,25

 悪魔主義といわれるサタニズムですが、サタンは蛇体で鏡です。イディアであり人間性の1面であるロゴスが人智を越えた多次元世界が下りています。そのインターフェース、窓口が必要になりますが、それが鏡の存在です。
 サタニズム9か条にあるように、神に頼らず各自が動物的本能を根拠で生きることが求められています。いろいろ見てみると日本がサタニズムの総本山です。そしてそこにあるものは日本の思想的根幹なのです。
 今日集まった人達がある意味でレディ-マー、救世主です。さざれ石の1人1人で、サイレント・マジョリティーなのです。縄文神の瀬織津姫、宇賀神、アラハバキがサイレント・マジョリティーで、このように東北でこの話しをする事が大事なことです。レディマーの根本の地がこちらで、何らかのアクションが来るかもしれません。そのような凄い話を今日しています。

 縄文神はアマテラスに乗っ取られました。元々、伊勢神宮は外宮しかなかったのです。後から内宮を作られました。明治天皇が内宮を作って参拝したのです。1500年に外宮を作くられていましたが、外宮、内宮とも式年遷宮を行うことにしました。20年に1回、社を作ることはアマテラスの欺瞞性を隠す為です。そこにはなんの歴史も感じません。
 サタニズムの11のルールにあることは、明治以降に行なわれた真逆のことです。今日、このような話しがここ仙台で行われることは、新たなことが仙台から始まること、それはサタニズム、縄文の復活がおこることです。
 救世主の根幹、さざれ石とは遍在する石が1つの巌になることです。それらがクラウド、人込み、雲を形成します。人が死ぬ時は孤独です。しかし、世の中は孤独死を怖がらせて、それを商品、ビジネスにしています。また、反知性レベルで全国民を愚民化することが行なわれています。日本のお笑いテレビは歴史上、最悪レベルの知的レベルに落ちています。
 
 源氏平氏の争いがありました。源氏は新羅で、白で、左翼です。平氏は百済で、赤で、安倍さんです。天皇陛下の退位で平成の時代も2019年で終わることになります。
 平成の年号の中に「平氏の世が成る」があります。平氏は673年の白村江の戦いの後から日本に入って来た人達の流れです。日の丸は白地に赤で、そこにあるのは源氏と平氏です。ここには縄文はどこにも居ないのです。
 安倍さんは満州に関わった岸さんの孫です。旧満州国が北朝鮮でルーツは同じで仲間です。ある意味でオーム真理教が日本を仕切っていて、旧731部隊で北朝鮮の流れです。
 今の日本のどこにもいない縄文がこれから復活します。潜在意識のサイレント・マジョリティーが大どんでん返しをします。それがアラハバキです。日月神示の9分9厘の大どんでん返しです。
 


 縄文スピリットはサイレント・マジョリティーで、それは人数ではありません。奥ゆかしく、それは東北から出てくるのです。
 創造主とは観察者になることで、鏡そのものに成る事で出来ます。思っただけで目の前に現われます。多次元と3次元を均衡させると出てくるのです。イメージと実物が一致するのです。本音と本能を一致させるのです。しかし偽装されたものが本物を求めて出てきますが、誰でも言えることを言ってもいけません。
 安倍話法では、丁寧に謙虚にと言いますが、はなから真実の本当の事を言わないのです。そのように言葉を冒涜してはいけません。魂は待っているのです。多次元と3次元が一致して行くことを。それが肉体を身にまとって生きている醍醐味なのです。

 2020年に東京オリンピック決まりました。前の1964年の東京オリンピックは戦後の日本の復興の意味で開催しました。あの時は高度成長経済で日本は全世界にお金をばら撒いたのです。それは戦後賠償で、ODAの名で行なわれました。
 今回は2020年が先に決まりました。以前に私は又焼け野原にならないと良いがと言いました。それは果たして、北朝鮮のミサイルか?日本内部の崩壊で起きるのか?
 三菱重工の航空機MRJが駄目になりました。日本がどんどん落ちて行きます。東芝、タカタのエアーバック、商工中金の不正、日産、スバルの検査不正、日立の高速鉄道の日本車両の米国での問題などです。フランスのTGVは鋼鉄製ですが日本はアルミで軽量化しているので安全性はまったく違います。神戸製鋼の不正は40年前からやられていた等など。
ハインリッヒの法則があります。1:29:300の比率のことで、重大事故が1件起きるとその背景にヤバイことが29件あり、少しおかしなことが300件ある、というものです。そして、やがて人命に関わる事件が起きるのではないでしょうか。
 高度経済成長で都市を作りましたが、これから一気に壊れて行くのです。それはどのレベルの事が起きるのか。もし新幹線が脱線したらどうなるか。JR西日本、JR東海、JR東日本で新幹線に乗客が多い時に3000人位です。
 そして、それはある日一気に瓦解するのです。偽装された物が叫び続けているのです。部品1つ1つの魂がある日、一斉に崩れるのです。
 かりそめの繁栄の日本は、2020年に焼け野原になります。北朝鮮と己、自らがなる不味い事が起こるのです。それが来年、2018年は激しくなります。平成は干戈の文字が入っているので戦争で締め括られる可能性があります。実は北朝鮮は満州の残置軍人が作った国なのです。

 今日、仙台でこのお話ができたという事は非常に重要です。なぜなら、「救世主は日本の北から現われる」という予言があります。日高見、縄文の本拠地の東北、そしてここ仙台からその狼煙が上がって然るべきです。その象徴として東北縄文日高見の地が最適でした。
 今日は長時間ありがとうございました。来年も是非また仙台講演会に御越しください。



2018年1月24日水曜日

1194「救世主12」2018,1,24

 観察者となることは、自らが鏡そのものであることに気づくことです。そして気づき、自らが創造主となった暁には、たった一人でありながら世界を動かすことができるようになります。
 言ったことと、目の前に展開されることが一致していきます。思ったことが、ただちに目の前に現われるようになります。これがクリエイターです。
 多次元世界の意志と目の前の現実世界が限りなく一致していくのです。この働きを「アラハバキ」と申してきましたね。多次元世界と三次元世界の格差を是正し均衡を図っていく働きのことです。
 これはつまり本音で生きるということと、本能で生きるということです。心の中で思っている本音をきちんと自分自身に焼き付ける。そうすることでその本音をいささかも違わない現実が目の前に現われます。その作用を円滑化させるために鏡が必要なのです。
 多くの人はもともとそもそも鏡であるにもかかわらず、その鏡が曇っているのです。また、滞ってしまっているのです。その鏡をキラキラに、1点の曇りもなく磨き上げなさいよ、と言っているのです。

 また目の前の三次元の現実を精緻に認識するために、日頃から猛烈に勉強しましょうね、と言っています。同じ物事、事柄を見ても、解釈の解析度が違えば認識の度合いも違って来るのです。
 出来るだけ沢山の判断材料と正確な知識と膨大な経験によって、目の前の物事、事柄を、それが何故存在するのかをできる限り正確に捉えることが、この世を御するための第1歩なのです。
 勉強と経験をして、物事や事柄の判断力が高まる事によって、物事の見方が変わります。多角的に俯瞰的に冷静に物事を判断することが出来る様になります。純粋に理性を用いる事が可能となるのです。こうなると、一時の感情によって判断を毀損されることがなくなります。

 魂はその瞬間を待っているのです。多次元世界のロゴスと目の前の三次元物質世界の現物が一致し、それを体感して行くことこそが、人類最大の快感なのです。これこそが、本来肉体を持たない魂が、あえて肉体という物質を身にまとってこの世に生きることの究極の醍醐味です。魂の思うままに肉体と物質的環境が完璧に直結している状態です。

 今の人類はアクセルを踏んでもなかなか加速しない自動車であり、ブレーキを踏んでもなかなか止まらない自動車であり、いくらハンドルを切ってもなかなか曲がれない自動車みたいなものです。
 加速しないように、止まらないように、曲がれないようにしているのがこの世の支配者であり、巨大宗教組織でしょう。人々がみなクリエイターとして自在に生きてしまったら、誰も宗教になんか入らないし、誰も支配されなくなってしまします。
 今の人類は意識と肉体が直結していないのです。それを精緻に、しかも強固に直結させるものが鏡なのです。そして、このように意識と肉体を直結させようとする働き、このことを世間ではサタニズムとしているのです。
 この均衡させ直結させるという働き、このことを神秘思想では「上の如く、下も然り」と表現されます。多くのスピ系の人達はこの「上の如く、下も然り」を精緻な意味も分からないまま安易に用いていますね。アマテラスだ、新道だ、スピリチャルだとかで遊んでいる人には、この「上の如く、下も然り」なぞ理解出来るわけが無いのです。

 つまり、私たちがこれまで神様だと思ってきたアマテラスこそが悪魔であり、私たちがこれまでずっと悪魔だと思ってきたサタニズムこそが福音ということです。全てが逆転されてしまっているのです。
 多次元世界と三次元を変換する鏡は物事を逆転させずに正確に投影します。

 遍在する衆生というさざれ石のような救世主。じつに地味で奥ゆかしく、謙虚で朴訥とした静謐な雰囲気です。しかし、その力は強大です。そして何よりその姿が決して見えないのです。これこそまさにこれから現われる究極の「サイレント・マジョリティ」なのです。
 今回、すでに救世主の点火プラグに一撃がなされたことによって、それはまるで雪崩のように、またドミノ倒しのように一気に全世界へと「インフルエンス(波及)」する。それがどの様な形をもってなされていくのかに付いては、実はまったく予想もできない。すべてのインフルエンスは明後日の方角からやってくるのだから。
 そして目覚めた沢山の救世主たちは、全体ひとつと呼応するインフルエンサーとなり、それぞれ各々が確固たる救世主となります。

2018年1月23日火曜日

1193「救世主11」2018,1,23

  是まで澤野さんのお話のレディーマー(救世主)の前半部分、その中のサタニズムを中心に紹介しました。ここからは後半部分を簡単にお伝えします。

「「一個の動物としての人が本能を覚醒させていくこと」それがサタニズムの核心で、反キリストとは本物のサタニズムを体現する存在となります。そして反キリストこそがレディーマー(救世主)そのものです。
 つまり本物のレディーマーは表に出ている芸能人とかスーパースターではなく遍在する衆生、まるで石ころのような細石(さざれいし)の存在がクラウドを形成し、1個の救世主として機能することがわかります。
 さらに重要なのは「ひとりでありひとつ」、「ひとつでありひとつ」、即ち遍在する衆生全員が救世主でありながら、それぞれを形成する1個の人と均衡しているということです。
 つまり救世主とはひとつを形成するさざれ石であり、遍在する衆生全体を意味すると同時に、それを形成する一人ひとりも同時に救世主であるということです。人類全体であるひとつが救世主であり、それを形成する一人も救世主である。
 そしてその両者は1対73億人で均衡しえるということで、これがレディーマーの正体です。
 
 面白いのはそのひとりと全員が均衡すること。つまり、人ひとりの力というものは宇宙をも動かすだけのものを持っているということ。そんな凄い力を持った一人が73億人と均衡し呼応し反応を呼び起こすのです。すると73億人側からそのひとりにフィードバックがなされ均衡し呼応するという相互補完関係を形成することになるのです。
 まさに多次元世界と三次元世界が言ったり来たりしてお互い反応し均衡を図ろうとする動きです。この均衡を求める動きのことを「アラハバキ」と言います。
 ひとりである私がひとつという全体とイコールで、ひとつという全体は私というひとりとイコールだということです。その働き、機能を知り、目覚めたひとのことを救世主と呼ぶのです。
 これが成し遂げられる為には一人ひとりが成熟しなければなりません。付和雷同ではいけないのです。不勉強でもいけないのです。今、己が立つ位置を客観的に俯瞰できないと駄目です。だから猛烈に勉強しないとならないのです。
 私たちのこの世界が太古の昔からどうであって、そうなって、どう進むのか。これが分からないと成熟など出来ないのです。成熟した独立個人の集合体があって初めて成熟した救世主が成立するのです。

 私は2012年からずっと縄文スピリットの事を言ってきていますが、縄文文化はことごとく破壊され、野蛮で未開なものと喧伝されて来ました。この日本に元々いた正当なる居住者である縄文は、後から入ってきた弥生勢力にその地位を奪われ、縄文人たちは弥生人に支配されました。それ以降、縄文人は表舞台から消されました。
 今、政治の世界で右だ左だやっていますけれど、どちらも縄文と関係ありません。源氏と平氏は新羅と百済の争いなのです。
 そんな縄文の存在をここへ来て改めて示す事、それが救世主の真の役割です。つまりサイレント・マジョリティーの存在を表に出すということです。

 閃輝暗点が見えると頭痛が起きます。私の視界に閃輝暗点にキラキラとトグロを巻いた蛇が現われました。それは蛇との直感が的を得ていました。それがサイン出して現われたのです。そこではイエス・キリスト自身が「救世主とは私のことではなく鏡のこことだ」と。つまり、一人ひとりの鏡を通じて、ひとりと全体(ひとつ)が共鳴共振し、お互いに呼応しながらフラクタルの影響を拡大していく、という救世主の実体そのものです。

 仙台講演会の告知文に以下の様に書きました。
「あなたは、己を、当たり前のこの世に生きる当たり前の人生を生きる者などとしてはならない。あなたは、これから常にあまねくすべての「観察者」として生きるのだ。あなたが生きる世界は、あなたが観察者となるのだ。
「観察者」となったアノマリーは凡百の市井人の耳目を集めるだろう。集めるだけではなく、その時、己がインフルエンサーの先鋭の一点となったことに気づくだろう。その瞬間にあなたは「70億人に埋没するひとり」ではなく「70億人というひとつと均衡するひとり」へと変わる。それこそまさに「Redeemer」である。
 いにしえの縄文スピリットの完全リニューアル復活と同時に起きる私たちの巨大な変化。――「すべては明後日からやってくる」のだ!!
時間は過去から未来へ流れているのではない。「今この瞬間」とは完成された未来への辻褄合わせ、つまり「均衡」のためにある。」
 
 これを実現させるために一番必要なものが鏡なんです。ですから観察者となれと書いているのです。私たち一人ひとりがただ世の中に流される存在ではなく、自ら創造主(クリエイター)として俯瞰的に世の中を観察することによって、是までの被創造物から創造者へと立場を変える事が出来るんです。



2018年1月22日月曜日

1192「救世主10」2018,1,22

 サタニズムにおける9の罪を解説しました。悪魔教会、サタニズムといわれているものの考え方、哲学思想の部分をみますとそれらは決して奇想天外で不気味な残酷な表現や考え方などひとつもありません。そこにあるのはむしろ、きわめて冷静で俯瞰的であり聡明で怜悧な思想です。
 生物、動物としての本能、人としての本音を何よりも重んじ、さらに宇宙との調和、自然との均衡を目指すその姿勢からは私たちは多くを学ぶ必要があるかもしれません。そしてこのサタニズムの考え方というものは、なんと縄文スピリットの内容とまったく同じであるということをここに重ねて指摘しておきたいと思います。
 仙台講演会、そして大樹界がまさか、なんとサタニズムだったということは今回、私自身がこうして原稿を書きながら初めて気づいたのです。

 今日こうして楽しくお話している内容は、私たちにとっては何の違和感もない無い内容かもしれませんが、アマテラスによって支配されているこの日本を始め、西洋キリスト教圏においてはまったく禁忌事項でありタブーであり、禁断の思想哲学であります。

 最後にサタニズムの3つの決まりごとの最後の「地上におけるサタニストの11のルール 」を紹介します。ここでは私は1つ1つ解説しませんので皆さんの読解力、想像力によって真意を汲み取ってください。

「地上におけるサタニストの11のルール 」
  1. 求められてもいないのに意見や忠告を与えないこと。
  2. 他人が嫌がるとわかるようなごたごたを話さないこと。
  3. 他人の家に入ったら、その人に敬意を示すこと。それができないならそこへは行かないこと。
  4. 他人が自分の家で迷惑をかけるなら、その人を情け容赦なく扱うこと。
  5. 交尾の合図がない限りセックスに誘わないこと。
  6. こんな重荷降ろして楽になりたい、と他人が声を大にして言っているものでない限り、他人のものに手を出さないこと。
  7. 魔術を使って願望がうまくかなえられたときはその効力を認めること。首尾よく魔術を行使できても、その力を否定すれば、それまでに得たものを全て失ってしまう。
  8. 自分が被らなくても済むことに文句を言わないこと。 
  9. 小さい子どもに危害を加えないこと。
  10. 自分が攻撃されたわけでも、自分で食べるわけでもない限り、他の動物を殺さないこと。
  11. 公道を歩くときは人に迷惑をかけないこと。自分を困らせるような人がいれば止めるよう注意すること。それでもだめなら攻撃すること。 

 さて、いかがでしたでしょうか?「地上におけるサタニストの11のルール 」は素晴らしい内容だと思います。建前と幻想に満ち溢れたアマテラス派が創作した教育勅語なんかよりも、よほど立派でより現実に即した有効性の高いルールであると思います。
 このルールには本音と本能に忠実に生きることが示されています。そして本音と本能に生きるためには、いかにして社会性や他者への気配りが必要となるか、そして成熟した大人でなければサタニストにはなれないことが明確に示されているのです。
 そこには決して恩着せがましさや、ありがた迷惑なことは記されていませんね。このルールを徹底することによって、確実にムラ社会から脱却することができ、さらに成熟した大人として、そして独立個人として歩むことができると思います。

 また悪魔教会はこれらの沢山のルールについて以下の様にあります。
「しかし、忘れてならないのは、これらは一般的に言ってサタニストがわざわざ無理をしてまで為すべきことと考えているものではないということである。・・・理念上これらは自明の理であり自然に生きていくやり方であると受け止めている。」

 これらのルールは「わざわざ無理をしてまで為すべきことではない」と言う、このゆるさが縄文的であり同時に、本来のサタニズムなのだなと感じさせる部分です。アマテラス大和朝廷であれば、定めたルールは強制であり強要されるものですから、サタニズムの罪やルールがあくまでも推奨レベルであるところに非常に優しさを感じるのです。

2018年1月21日日曜日

1191「救世主9」2018,1,21

7、過去の正統の忘却
  これは難しいですね。つまり、正統なる縄文神、瀬織津姫、宇賀神、アラハバキなど、かつてこの地球を統べ、宇宙の中心核となっていた正統なる神々の存在を封印しただけでなく、封印した事実すら忘れてしまうこと。
 そして地球の運営者、権力者たちも自らが封印したそういった存在のことを世代が変わるにつれ、徐々にその精緻な記憶が消滅していっているわけです。
 しかしサタニズムに携わる者であるならば、そういった過去の正統な流れについて決して忘れてはならないということです。

(これは、かつては広く受け入れられていたものを新しくする場合に利用される洗脳の一つの方法である。過去を忘れて”創始者”の才能ばかりを称えるのは使い捨て社会を助長するものである。)

8、非生産的なプライド
 プライドとは誇りのもとであり自尊心のことです。非生産的とは何も産み出さないこと
であるのと同時に、それは逆説的な意味で、すべてをぶち壊す、という意味に通じます。つ
まり、おしなべますと、非生産的なプライドとは、すべてをぶち壊す自尊心という意味に
なります。
 これは現在の日本の日本すごい論に通じます。身の丈以上の自尊心はやがて、自分の都合の良いように物事を解釈しはじめます。そしてプライドは得てして虚栄を生じさせます。これはまさに1の愚鈍さに通じていることです。
 自己中心的に生きること、利己主義に生きることと、自尊心は違うのです。自己中心的、利己主義に生きるためにどれだけ修練を積まねばならないのか。そして自己鍛錬、修練を積むことによって、じつは自尊心というものは滅却されていくのです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がありますよね。人は立派になり、偉大にな
ればなるほど謙虚になっていくものなのです。しかし多くの人は地位や立場が上になればなるほど偉そうになっていくのです。つまり表層的な肩書きによって妙なプライドとやらが持ち上がってくるのです。つまりプライド、自尊心というものがあるうちは、まだまだそのものは偉くなどないということ、立派でもないということになります。
 偉くもないし、立派でもない者がサタニズムだなど片腹痛いわ!という感じになりましょうか。

(非生産的という言葉を強調しよう。あなたが大切なものまで捨てるはめにならなければ、プライドは素晴らしいものである。自分のためになるならそれでよし。しかし、そうでないときに、惨めな思いをして、「許してくれ、間違いだった。なんとか折り合えるといいのだが」といえるのなら、そうするがよい。)

9、美意識の欠如
 美意識とは無条件で絶対的な美を見抜く力と、それを常に行使し物事を選択的に観察するものが持つ意識のことです。つまり美意識とはオシャレに格好つけることとは根本的に違います。ここで言う美とは人為的で計算された美のことでもありません。宇宙を構成する絶対的な自然と均衡のことを美と称しているのです。つまり美意識とはそれを見分けられる目のことです。
 今ある状態から何が多すぎて、何が足りないのかを見極める視点です。それはいわば、大自然の完全均衡を図るアラハバキの働きに似ています。また、人のあり方に付いて精緻に考量できる意識も美と言って良いでしょう。人が生きる上で何が大切で、何が不要かを選択できる目でもあります。
 およそサタニストになるのであれば、通常おおくの人々が気にも留めないような些末とも思われる出来事や事物に対して、精妙に意識を向けなければならない。そういうことです。
 そして何よりも、己自身この人間としての生物が常に大自然と共にいられるのか?宇宙と共にいられるのか?それは大自然の運行に逆行していないか?宇宙の運行に逆らっていないか?私自身が大自然や宇宙の均衡を乱していないだろうか?こういうことに常に気を払えることこそが美意識であるといえましょう。

(これは調和の問題で、美意識は小魔術に必要なものであり、洗練されるべきものである。消費社会では古くなった美的観念から金や時間を得ることはできない。しかし、美を”見る目”は悪魔主義にとっては欠かせない道具であり、魔術の効果を上げるものである。それは確実な喜びをもたらしてくれる。美意識は個人的なものだが、多くの人を喜ばせる調和のとれた配列というものがあることも否定できない。) 

2018年1月20日土曜日

1190「救世主8」2018,1,20

3、唯我主義
 サタニズムの根幹は自己中心的であり利己主義です。ならば唯我主義も推奨されてしかるべきと思われますよね。しかし、この場合は2の虚栄からの地続きなのです。
 己の本質すらまだ認知できていない身でありながら、どうして唯我主義、つまりただ我のみの境地をショートカットして得る事が出来ようか、という意味になります。もっと正確に申しますと唯我主義という考え方ですと我以外には何も存在しないことになってしまいます。
 自己中心主義というものも同様で、己を利するということは、己以外は利さない、ということであり、これにもちゃんと自分以外が存在するのです。しかし唯我主義はただ我のみ、ということになりますから、これは実は私以外は存在しないことになってしまいますね。
 つまり唯我主義からは自己中心も利己主義も生まれ得ないということなのです。つまり唯我主義という考え方はサタニズムでは有り得ないということになります。つまり、ひとりのみしか見ていない幼稚な考え方であり、そこには一切のひとつが考慮されていないことであります。

(自分より劣った者に自分の意志や感性を押し付けるのは、悪魔主義にとって危険である。他人に自分と同じことを要求するのは間違っている。悪魔主義者は「受けたことを返せ」という言葉を実行しなければならないが、その際、だれもが自分と同じだという安易な幻想に陥らないよう気をつけなければならない。哲学者にとってユートピアは必要であるが、残念ながら(マキャベリにいわせれば幸運かもしれないが)それはまだ遠い話なのだ。)

4、自己欺瞞
 己で己を欺くということですね。つまり本音ではなく、建前を己に対して用いるという、神、創造主、宇宙への冒涜となります。

(これは悪魔の九つのステートメントの一つだけれど、ここに挙げる必要のある大罪である。こんな厄介な代物を背負い込んではならない。自己欺瞞が許されるのは、それを自覚して楽しんでいるときだけで、その場合は自己欺瞞とはいわないのだ。)

5、群れに従うこと
 圧倒的多数に阿(おもね)ることです。阿るとは相手の機嫌をとって気にいられるようへつらうことです。また、付和雷同であり、そこには利己主義も自己中心主義も当てはまりません。群れに従うということは、個人の存在を末梢することであり、それは己がいなくなっても誰も困らないということです。
 それは宇宙であり創造主である自己に対する巨大な背徳であり、己がムラ社会の一員に甘んじることを許容する逃避でもあります。

(これは利益をもたらす限りにおいては個人の欲望を満たすものである。しかし、集団には愚劣が伴い、構成員に対して非個人的な要求をする。集団の気まぐれに振り回されないためには、良い主人を選ぶことが肝要である。)

6、見通しの欠如
 これは5の地続きになっています。圧倒的多数に阿てしまう己は自己判断能力を自ら去勢します。その結果、己の生きる道を己自身で判断することを放棄します。つまり、どうやったって先を見通すことなどできなくなるということです。
 また、己を構成する身体のこと、歴史のこと、哲学のことなど、あらゆる思想を放棄したのであれば、その視線に映える社会とは、なんと難解で複雑で理解しがたいものであるとなります。
 つまり眼前の世界の行く末も歴史も未来もわからないということです。このような状態で物事の行く末を見通すことは不可能です。己の近未来すら大まかに見通せない者が、サタニストなど自称することは決して許されることではないのです。

(これは悪魔主義に多大の苦痛をもたらす。自分が誰で何なのか、自分の存在が何を脅かすのかなどについての展望を失ってはならない。私達は毎日歴史を作っている。歴史的社会的な見通しを持とう。それは小魔術にとっても大魔術にとっても重要なことである。全体をよく見極めて部分を組み立てよう。集団の意見に左右されてぐらついてはならない。彼らとはまったく違った立場にいることを忘れてはならない。)

2018年1月19日金曜日

1189「救世主7」2018,1,19

 ここで述べられているサタニズムの9か条の内容はこれまで述べてきた縄文スピリットの根源的な意味と合致します。
 それは「人とは666、つまり蛇身である。」ことであり、日本の根源神は縄文神で、瀬織津姫、アラハバキであり宇賀神ですが、西欧キリスト教会からすれば蛇体で悪魔です。
 「666」は日本では「ミロク」ですが西欧キリスト教会からすれば獣の数字666として最も嫌われる数字です。キリスト教世界からすればサタニズムとはまさに666で悪魔で、西欧キリスト教会から忌避されているのです。
 この地球、世界を統べているのは縄文神でありこれを封印し、隠蔽したのが大和朝廷であり明治新政府でありGHQであり安倍政権です。そして米国政府はその縄文神瀬織津姫の力を横取りし、世界覇権に利用して来ました。
 日本では縄文神を封印しアマテラスが台頭し、日本人は皆なアマテラスを崇拝しています。このアマテラスこそが本当の悪魔だということでないでしょうか。縄文神たちはこれまでずっと悪魔という汚名を着せられてきました。しかしこの地球はすでに縄文化に向かって動き始めています。

 縄文スピリットの考え方、哲学、縄文意識とは他者に干渉せず、他者からも干渉されない生き方です。また大自然の中で動物たちは一切目を合わせないのと同様に、私たちも家から一歩外に出たらそこは大自然なのです。大都会へ行けば行く程、人はお互い非干渉となり、大都会は大自然そのもので、そこは「ハラ」だからです。
 さてサタニズムにはあと2つの決まりごとがあります。ひとつは「サタニズムにおける9つの罪」です。

「サタニズムにおける9つの罪」
1愚鈍
2虚栄
3唯我主義
4自己欺瞞
5群れに従うこと
6見通しの欠如
7過去の正統の忘却
8非生産的なプライド
9美意識の欠如

1、愚鈍
 私は常日頃から「猛烈に勉強して社会認識のための解析度を上げる事が大事」と言って
います。己に正直に本音で生きるためには、今、己には何が足りなくて、何がわからなくて、何に悩んでいるかを理解できなければなりません。
 つまりアタマが悪いと本音で生きることが難しいのです。サタニストとして生きるならば愚鈍であってはならないのです。

(悪魔主義の大罪の最たるもの。苦痛を伴わないから始末に悪い。無知もその一つである。言葉に迷わされやすい社会はこの愚かさの上で繁栄している。メディアは人受けのする態度で文化的な愚かさを促進する。悪魔主義者は彼らのトリックを見抜いて愚鈍に陥らないよう努力しなければならない。)この(・・)内は他の所での解説ですので、澤野さんのものと参考にして下さい。

2、虚栄
 虚栄とは実質を伴わない上辺だけの栄誉ということです。これをサタニズムでは罪と断罪しているのです。
 ひとことで言ってしまえば人徳に裏打ちされた多次元世界からの価値の総体が三次元で現物化するわけですが、その人徳がないにもかかわらず現物だけを追い求め、それを横取りしてでも力ずくで無し得ようと考える意識のことです。また、そういった風潮を生み出している現代社会そのものが虚栄と言えましょう。

(上辺だけの威厳くらいうんざりさせられるものはないが、これも、愚鈍と同じく世間で金を動かす力を持っている。善かれ悪しかれ、だれでも自分を大物と思いたがるものだ。)
 

2018年1月18日木曜日

1188「救世主6」2018,1,18

 さて、⑤「サタンは右の頬を打たれたら左の頬も向けるのではなく、 仕返しをする行為を象徴する。」です。
 この意味がお分かりになるでしょうか?これははっきり言ってしまえば、自然であれという事です。天、宇宙から何らかの不幸な仕打ちが舞い降りたとしたならば、ただ甘んじてそれを黙認し受け入れるだけでなく、そこに現われるサイン、つまりその不幸の要因、原因と向き合い、それと均衡するだけの徳を己という鏡を通じて天、つまり宇宙へフィードバックさせなさい、ということです。
 また、これはキリスト教の教えを欺瞞であり偽善であり建前であると看破したものです。野生動物を見てみてください。熊にちょっかいを出したら熊は反対側の頬を差しむけますか、そんなことはありませんね。思いきっり襲い掛かってきますよね。これが自然であるということ、そして「ちくわ」であるという純粋さを意味しています。
 ですので誰かに殴られたら、そこで建前や偽善で反対の頬を差し向けるのではなく、純粋で自然で本能的であるならば、そして己が狭窄なアタマで考え出した偽善という算段によってカルマを生じさせるよりも、その場で純粋に反応した方が遥かに宇宙的だ、といっているのです。

 さて、⑥「サタンは精神面で他人の脛をかじる者への配慮ではなく、責任を負うべき者への責任を象徴する。」です。
 これも同じですね。だんだんサタニズムの言っている内容にひとつの共通点があることに気付きませんか?誰かに精神的に依存し、己という自我を持たない人には、当然ながらサタニズムの根幹である自己中心的で利己主義な生き方などできるはずがない。つまり成熟もしていないし、独立個人でもない。そのような相手に対して、どうして配慮する必要があるのだろうか?ということになります。

 さて、⑦「サタンはただの動物としての人間を象徴している。『神から授かった精神と知能の発達』によって 最も悪しき動物となってしまった人間という生き物は四足動物より優れていることもあるが 劣っていることの方が多いのである。」です
 これは強烈なメッセージですね。神から授かった精神と知能の発達によって、人はもっとも悪しき動物になってしまったといっているのです。それは自然であり宇宙である純粋な本能や本音を忘れ、小賢しいアタマによってこしらえた浅薄な偽善や建前によって支配された人間ならば、それは四足動物より劣っているということです。
 サタニズムが言っているのは、とにもかくにも純粋さと素直さと本音と本能の重要さです。それらを失ったならば、どれだけ賢くなったとしても、それは動物以下であるという事です。

 さて、⑧「サタンは罪と呼ばれるものすべてを象徴する。おおよそ罪とは肉体的、精神的及び感情的な満足に繋がるものだからである。」です。
 ここで言う罪とはキリスト教が教える罪のことです。キリスト教での罪とは、アダムとイブの原罪のことです。そしてその罪とは肉体的、精神的かつ感情的な満足に繋がるといっていますね。それはつまり性欲のことであり、セックスのことです。(他にもありますがその代表格がセックスであるということです)
 性欲、そしてセックスとは何かといえば、人類繁栄のための根源的欲求のひとつで、現代人類に残された唯一といっていいほど原始的かつ本能的なものです。このような本能であり本音の代表であるセックスを原罪とするキリスト教とは対極に、サタニズムにおいて、サタンとはその原罪、つまりセックスそのものを意味すると述べているのです。
 つまりサタニストとはキリスト教においてもっとも罪と思われる、その本能の代表であるセックスというものにこそ、もっとも価値があると認めるということです。

 さて、⑨「サタンはつねに教会の最も親しい友人であり続けてきた。というのも彼は長年それを仕事としてきたのである。」です。
 さあ、これは難しいですね。ここで言う教会とはなんでしょうか?これには2つの解釈がありますね。それは悪魔教会とキリスト教会の2つの教会のことです。
 ではまずキリスト教会のことを指すとして考えてみましょう。サタンがキリスト教会の最も親しい友人であり続けてきたというのです。これはどういう意味でしょうか。サタンはキリスト教会という偽善と建前とムラ社会を象徴するものが拡大していく様をあえて眺め、その伸張を影ながら支援してきた。
 というのも、あえて建前と偽善の大聖堂の繁栄を許す事によって、その後に来る本音と本能のインパクトが増すということと、あえて建前と偽善に浸った人々の方が、本能に目覚め、覚醒が促進されるということ。
 このことを見越して悪魔はあえてキリスト教会と共にあった。またキリスト教会は邪悪な悪魔の存在は非常にありがたいものであった。サタンは実在しないものであり、思想であり信条であるわけです。ならばサタンとは本能の事です。この本能こそが悪魔教会の最も親しい友人であり続けてきたということです。
 そしてこの最も親しい友人というのはその本能と非常に似通った存在であるという事を意味しています。つまり本能と悪魔教会はほぼイコールであるということです。そして彼は長年それを仕事としてきたのですよ。ここでいうそれとは本能を指します。つまりサタンは本能を仕事としてきた、ということになります。
 そして人間の意識を解放させ、覚醒させ、そして本当の動物的本能に立ち返り、本源的な意味での自己中心的で利己主義な人となれるよう本能は、本能のままにそれをずっとサポートしてきたんだ、と言っているのです。

2018年1月17日水曜日

1187「救世主5」2018,1,17

 悪魔教会におけるサタニズムには大きく3つの決まりがあります。ひとつは「サタニズム9箇条」で、もうひとつは「サタニズムにおける9の罪」であり、最後のひとつは「地上におけるサタニストの11のルール」です。
 今からこの3つの決まりごとについて話ていきますが、その意味を理解してください。その内容はきわめて冷静で成熟したオトナの哲学です。最初に「サタニズム9箇条」です。

「サタニズム9箇条」
 この所信表明はサタンというものが悪魔教会において何を意味しているか示している。
サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。
サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。
サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する
サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、 親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。
サタンは右の頬を打たれたら左の頬も向けるのではなく、 仕返しをする行為を象徴する。
サタンは精神面で他人の脛をかじる者への配慮ではなく、 責任を負うべき者への責任を象徴する。
サタンはただの動物としての人間を象徴している。『神から授かった精神と知能の発達』によって 最も悪しき動物となってしまった人間という生き物は四足動物より優れていることもあるが 劣っていることの方が多いのである。
サタンは罪と呼ばれるものすべてを象徴する。 おおよそ罪とは肉体的、 精神的及び感情的な満足に繋がるものだからである。
サタンはつねに教会の最も親しい友人であり続けてきた。 というのも彼は長年それを仕事としてきたのである。

 さて①「サタンは禁欲ではなく放縦を象徴する。」です。
 放縦とは禁欲の反対語であり、思うがままにふるまうこと、という意味です。つまりサタンとは誰かに指図されたり、誰かに強要されたり強制されたりはしないのです。常に自らの責任と信念によって本能の赴くままに、思うがままにふるまうのです。そして、そこには欲望を阻害するストイックな禁欲は存在しないということです。

 さて②「サタンは霊的な夢想ではなく、生ける実存を象徴する。」です。
 サタンという存在、そして考え方、哲学というものは、夢幻の架空の存在では決してなく、まさしく、己そのものの存在によって体現せしめる、完全なる実存のものであるということです。この世に、そしてこの社会に生きる私こそが放縦に生きるサタンであるのであれば私こそがサタンの原型であり、そのものである、という考え方です。
 つまり、どこの誰だか分からないサタンという架空の存在を夢想するのではなく、まさにサタンの如く生きる私こそサタンを象徴している、という事を意味しています。

 さて③「サタンは偽善的な自己欺瞞ではなく、純粋な知恵を象徴する。」です。
 これは深いですね。偽善的、つまり本音でなく建前によって己自身を欺いていくような生き方を否定しています。そして、サタンとはまさに純粋な知恵そのものであると言っています。純粋な知恵とは多次元世界から降ろされる無垢で純粋な叡智のエッセンスが一切の毀損なく欠けることなく、自らに注がれることを意味しています。
 つまり、私が良く言っていた「ちくわ」のことです。世の中に対しておもねて迎合して純粋さや素直さを装うことではなく、周囲のことなどまったく気にも留めず、ただひたすら多次元からの叡智の具象化に純粋であること、これがサタニズムに置ける純粋な知恵ということになります。

 さて④「サタンは恩知らずな者のために愛を無駄にすることではなく、親切にされるに値する者に親切にすることを象徴する。」です。
 これは非常に冷酷であり、非常に個人主義が徹底されたものであります。また、アマテラスシステムで散見されるありがた迷惑なお節介とは真逆な考え方です。つまり、この掟はアフリカのサバンナでの野生の動物の意趣と同じです。そして恩知らずな者のために愛を用いることは無駄遣いであると述べているわけです。
 ここで言う恩知らずとはどういうことでしょうか?恩知らずというのは、こちらからもたらされたベネフィットの価値を相手側が理解出来ないということです。つまり、いくら高尚で価値のある情報やモノや言葉であっても、それを相手が理解できないならば、そこに労力を費やすことはまことにもって無駄な徒労であるということです。
 これはおしなべて言えば、それを必要としていない者、それを理解出来ない者には、こちらからお節介を焼いて、与えるということは己も不幸であるし、相手にとっても不幸であるという事です。
 つまり相手に対してなんらかの愛を与える場合は相手のことを良く知ってから、相手がその愛を咀嚼し玩味できるに値するかどうか判断してからにしなさい、ということです。これは非常に冷淡にも思えますが、ここまでして初めて本音というものを伝える事が許されるのです。良く知らない相手、または己を理解していない相手に対して、おいそれと本音を出して伝えてしまうことが、必ずしも幸運な結果を生むとは限らないのですから。

2018年1月16日火曜日

1186「救世主4」2018,1,16

一般的にサタニズムといえば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝つことにより、世界征服を目的とすると想像されがちである。しかし、最大のサタニズム組織である「悪魔教会 (Church of Satan)」は、この考え方を否定する。

 この部分では、悪魔主義者、サタニストたちはあらゆる神を信仰しないわけで悪魔自体をも信仰の対象にしないこと。彼らは偶像崇拝のようことはしないのです。これははっきり言って驚きです。
 続いて
サタンとは次のいずれかに該当する。
即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェースである。

 これはもう仰け反るくらいの凄いことが書いてあります。イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源とは何でしょうか?それは多次元世界の叡智、ロゴス、すべての物質の雛型データのことです。
 宇宙を超越した何らかの力とは何でしょうか?それはつまり、人知を超えた宇宙、つまり多次元世界からの何らかの力だということです。その力を地上世界に降ろすためには、人間界側でのインターフェース(接触面、中間面、界面)が必要だと言っています。インターフェースとは、まさに窓口と言っていいでしょう。または、多次元世界のロゴスを三次元の物質に変換する触媒、すなわち鏡のことですね。
 つまり、サタン(悪魔)とは多次元世界の人知を超えた力、そして叡智、ロゴス、意志などを地上世界に顕現、つまり降ろすための窓口、つまり鏡(ミラー)となる存在である、と言っているのです。悪魔、サタンとは鏡(かがみ=蛇身)のことだったのです・・

 そして続いて
サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもある。です。
 少数派的な精神性と思想とは、まさにサイレント・マジョリティのことです。多くの常識や固定観念から外され、封印されたサタニズムは、声を大にして叫ぶことを封じられ、オカルトとされ沈黙を余儀なくされました。つまり少数派でありながら、声も小さいということです。
 サタニズムの支持者とは実はサイレント・マジョリティだったのです。精神性と思想を意味するということです。これは非常に重要な指摘です。つまりサタニズムはあらゆる神の、しかも悪魔であったとしてもそれを拝むようなことは決してしないということです。

 さらに続いて、
たとえそれがサタンという名の神であっても、あらゆる神を信仰しない。
同様に、悪魔の掟に従うこともない です。
 これはたとえばキリスト教会のような、またはアマテラスシステムのように人々を操作し、均質化していくという組織としての宗教ではなく、ありとあらゆる、自らを拘束するすべてのものからの自由を言っています。
 それは誰にも指図されない、という決意表明でもあり、また、誰に対しても指図はしないという、まさに縄文意識そのものであるといえます。また、それが実現できるということは、精神がきわめて成熟していることを意味しています。

 そしてさらに
サタニズム信仰者はキリスト教やユダヤ教といった伝統的な宗教の信仰を疎んじ、自己中心的な世界観を構築し、利己主義であることを好むと捉えられる。です。
 組織としてのキリスト教会やユダヤ教といった伝統的な宗教とは、未開の野蛮人をまとめて統治し、お金を収奪しる奴隷システムのことです。人々はただ盲目的に神を拝み、献金をし、自らを罪人として貶めるのです。そこで重要とされるのが自己中心的な世界観の構築と成るのです。
 ここでいう自己中心的とはどういうことだと思いますか?それは私たちが一般にいう傍若無人とか身勝手とかそういうネガティブな意味ではないのです。自己中心的とは聡明で緻密に自らを検証した結果もたらせる、覚醒の境地でもって始めて体得される極めて高度な意識状態です。
 たった一人でありながら壮大な宇宙と一体であるということを認知して始めて、私という一人であっても、それは宇宙というひとつと同一であるという意識になります。つまり自己中心的になるということは、おのれが宇宙そのものであることを認識体得したに他なりりません。
 そのような境地に至った人が始めて利己主義を体現できるのです。己を利することとは、他者、つまり宇宙全体を利することと同義となるわけです。つまりサタニズムで言うところ自己中心や利己主義というものとは、一般に言われるような自分勝手にやりたい放題に放蕩を極めることではないのです。

 悪魔主義、サタニズムというものが、私たちがこれまで抱いてきたイメージや印象とまったく違うという事がなんとなく分かって来たかと思います。

2018年1月15日月曜日

1185「救世主3」2018,1,15

 バチカンは聖ペトロの墓の上に建っています。ピーター、PETRO(岩)で、岩から染み出た油がPETROです。PETROを並べ替えるとPORTEでポルテは戸です。岩と戸はアナグラムです。
 バチカン自体がじつはアマテラスを幽閉した岩戸を意味しています。そしてサンピエトロ広場に立つオリベスクはエジプトから盗んで来た物ですが、あれはミトラ教、つまり太陽神ミスラスを象徴するものです。そして岩戸開きです。実はバチカンはアマテラスシステム、太陽信仰の総本山なのです。
 さて、均質化を強制するアマテラスシステムに対して自由奔放であり、本音で生き、しかも成熟した個人である縄文瀬織津姫システムはどうでしょうか。
 日本は明治維新の前、江戸時代までは、日本も成熟した社会だったのです。しかし明治維新で滅茶苦茶になったのです。家主が変わり、西欧キリスト教を偽装した国家神道が取って変わり、江戸以前の日本人の独特の価値観はなかったことにされ、それ以前のものがタブーとされ、瀬織津姫、宇賀神、アラハバキが半ば悪魔的な扱いにされたのです。

 ならば私たちはじめ、世界中のクリスチャンが忌避してきた悪魔という存在が、もしかしたら私たちが常識として用いる悪という言葉の意味とはまったく逆の意味を持っている可能性があるという事になりませんか。
 西欧キリスト教会が語る悪魔とは日本の縄文瀬織津姫、宇賀神、アラハバキのことではないかと推測が可能になります。西欧キリスト教が駆逐し封印した悪魔という存在と、日本が明治維新以降に国家神道によって駆逐し封印した縄文スピリットが同一であるということです。
 では西欧キリスト教会が忌避するその悪魔とは何か?悪魔を取り扱う団体といいますかそういう人達は悪魔主義者とか悪魔教会と言われます。なんか恐ろしいネーミングですが、ではそんな悪魔主義、悪魔教会とは果たしてどういうものでしょうか。

 悪魔主義はサタニズムとも呼ばれます。私たちは悪魔主義、サタニズムと聞けばおどろおどろしい祭壇に、ヤギだか牛だか分からない恐ろしい悪魔像と、少女の生贄が捧げられ、その周囲に覆面をした悪魔主義者達が生き血を飲みながら秘密の儀式を行っているイメージを抱くはずです。それは私もまったく同じでした。
 誰だってそんなイメージを持てばかなり危険な団体だと思うはずです。しかし、多くの人はそのイメージを固定化させてしまっていて実際のサタニズムというものを詳細に考えたことも、ましてや研究した事も無いでしょう。
 ウィキペディアの冒頭に以下の様に書いてあります。(特に下線部の部分に注意してお読みください。)

「サタニズム(Satanism)とは、宗教的信条の一つの主義である。イデオロギー的、哲学的信条や社会的現象との関係を含み、悪魔主義、悪魔崇拝とも呼ばれる。
一般的にサタニズムといえば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝つことにより、世界征服を目的とすると想像されがちである。しかし、最大のサタニズム組織である「悪魔教会 (Church of Satan)」は、この考え方を否定する。
悪魔教会は「サタン」が実際に存在するともしておらず、単にある概念を物質的に代表する名称として「サタン」の名を捉えている。
サタニズムにも様々な形が存在するが、多くのサタニズムでは、
サタンとは次のいずれかに該当する。
即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェースである。
サタンといえば、悪や理不尽な力を連想させる言葉ではあるが、
サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもある。
悪魔教会の創設者であるアントン・ラヴェイは、
たとえそれがサタンという名の神であっても、あらゆる神を信仰しない。
同様に、悪魔の掟に従うこともない
(このことは、有神論のサタニズム信仰者も存在することから、サタニズムが自己矛盾した存在であると誤解されがちである)。よって神に仕え、天の御命に従うような(欧米では一般的な)考え方も存在せず、サタニズムにおいては自身の物質的・身体的な発展と解決が殊更に重視される。
このような理由から、サタニズム信仰者はキリスト教やユダヤ教といった伝統的な宗教の信仰を疎んじ、自己中心的な世界観を構築し、利己主義であることを好むと捉えられる。
一般には理解しがたい信仰のように思われるが、
密教における天部・明王から多面多臂の観音信仰に比肩することで理解は容易になる。ただし、密教のそうした祈願または信仰の対象はあくまで仏・如来の化身とされるのに対し、サタニズムは一神教における神から堕して切り離された信仰対象であることに、その特殊性が見い出せる。」

2018年1月14日日曜日

1184「救世主2」2018,1,14

 瀬織津姫はシリウスで、シリウスC、Dを探しても見えません。ここ地球がシリウスそのものなのです。
 つまり、地球の支配者たちは、この星が瀬織津姫、宇賀神、アラハバキの力によって起動していることを最初から知っていました。しかしそれを全人類に伏せて秘密にしていたという事です。そして、その最大の秘密であり最大の力の源泉について、瀬織津姫、宇賀神、アラハバキといったものを悪魔とし、怖がらせたのです。
 666が悪魔の数と言われます。6とは、「あ」から6番目の「か」で、666は「かかか」で「か」が3つです。ですから、「かがみ」で鏡、蛇身です。ジャパンはジャの蛇なのです。日本から出る救世主をやっつけて置くことで大丈夫です。そうすると目覚める事が無いのです。そうして探し続けているのですが、30年過ぎてもまだ見つからないのです。しかしその候補者として殺された人はいます。

 多次元の潜在▽と3次元の顕在△は同量です。ここが分かると人間が覚醒します。しかし多次元から三次元にいきなり下ろせないのです。多次元と3次元は直接接していないのです。多次元を3次元に変換する変換装置の鏡、ミラーがその間にあります。
 ミラーは3ラで「ラララ」、かがみの蛇み=日本です。日本の鏡を通して世界に投影されているのです。
 眼球の前後で違います。そこは鏡として働いています。目が鏡として働いていて、多次元と3次元を均衡する鏡です。そうすると頭で思った書きたい文字を正確に書けるのです。理念としたもの書いたものが一致します。字が汚い人は問題があります。

 その鏡を隠すことは多次元を隠して、3次元でお金の取り合いをさせることになります。しかし人徳本位性を持つことでお金を与えるものが本当です。合法的にお金を取り上げるのが今の3次元です。ですからそこからおさらばすることです。
 なぜ想造すると下りてくるのか、そのメカニズムを学ぶ必要があります。666はオカルトで、悪いイメージを与えてきました。それには超自然的なものが隠されたもので、神秘的秘密結社で近づくのは危ないです。
 しかしレディーマーで隠されたものが取り戻され、神秘思想を取り戻すことで、それは縄文と密接に関わっています。幻想、虚構が破壊され地ならしされることが「アラハバキ」です。666は6が3つで「ミロク」です。ミロクを日本では嫌っていません。

 悪とは、悪=AKUで、AKUを入れ換えるとAKU=UKAで宇賀神=瀬織津姫です。アラハバキであり瀬織津姫は本当の神です。それを悪と言っている人が悪で、イエスキリストと言うスパースター思想で支配してきたのです。それ以前は地球丸ごとを瀬織津姫システムで動いていました。シリウスDが地球で、シリウスCが月です。
 支配者からすると、皆が独立個人として思いを描いてもらっては困るし、本当の正体に気づかれては困るのです。ですからその人を弾圧してきました。今の勝ち組みとは権力を持って国の税金を自分の物として使う人たちです。しかし叡智を引き継いでいる人徳の人が本当の勝ち組みなのです。
 
 秘密を握る、宇賀神、龍体列島、かがみ、鏡の国が日本です。キリスト教の国は日本に工作してきました。今、日本国内に1~2%しかキリスト教信者がいないので、とても少ないです。明治維新の時に、聖書を元に国家神道を作りました。イエスキリストは馴染まないので天皇というキリストを立てて古事記、日本書紀をでっち上げたのです。ですからそれはまさにキリスト教なのです。その時に創作されたもので、明治以降は、日本はキリスト教国家なのです。しかしその中で純粋なクリスチャンは1~2%ということです。他は無自覚にいつの間に立派なクリスチャンになっているのです。

 明治以降に瀬織津姫、宇賀神、アラハバキを隠しました。そして天照(アマテラス)の架空の神を至上の神としたのです。地球がシリウスDで日本が中心なのに、違うメカニズムに作り変えたのです。平田篤胤、本居宣長、賀茂真淵、水戸学です。戦争に進んだのはクリスチャンの殉教として特攻隊がそれをやったのです。それが今も続いています。
 均質性、金太郎飴を強要しています。国家が望む理想家族を押し付け、家族は絶対的に大事だと、その様にしようとしているのです。先日のベッキーの不倫騒動などで世論操作されています。
 アマテラス国家として主導した社会で均質化した日本を作る。そこでは死ぬまで働け、ゆっくりしては駄目だ。ですから日本は広場や公園の無い国で、皆が安らぎ集合できる場所がないのです。保育園が無い、年金が無い、1億層活躍社会で、思想の脳内規制でマインドコントロールしているのです。それがアマテラスシステムで、それはバチカンがやっているシステムです。

2018年1月13日土曜日

1183「救世主1」2018,1,13

 2017年12月17日に澤野大樹さんの仙台天命塾14回目の講演会がありました。もう1ヶ月前になりますが、今回も今まで以上に濃厚な時間になりました。色々な事情でお話の核心部分はお伝えできませんが、興味深いところを少し紹介します。
 今回の演題は第十四章「鏡の救世主が現れる」~2018年からの日本、そして世界で何が起こるか?~ でした。澤野さんからの講演会案内へのメッセージは以下です。

「10月22日の衆院選を経てわかったことがある。この日をきっかけに、日本は完全に新しい領域へと突入した。
 北朝鮮、アメリカ、ロシア、そして日本。今、懸案となっているあらゆる疑問を解く鍵とは何か?今、日本、そして世界では何が起きてどこに向かっているのか?
 最新時事解説はもちろんのこと、その背後に通底する「神仕組」の根幹について、そしてそれを統べる「Redeemer」(救世主)の介在を明らかにしよう。そしてさらに、すべてが「デンデン返し」される人智を超えたシナリオを明らかにする。
 あなたは、己を、当たり前のこの世に生きる当たり前の人生を生きる者などとしてはならない。あなたは、これから常にあまねくすべての「観察者」として生きるのだ。あなたが生きる世界は、あなたが観察者となるのだ。
「観察者」となったアノマリーは凡百の市井人の耳目を集めるだろう。集めるだけではなく、その時、己がインフルエンサーの先鋭の一点となったことに気づくだろう。その瞬間にあなたは「70億人に埋没するひとり」ではなく「70億人というひとつと均衡するひとり」へと変わる。それこそまさに「Redeemer」である。
 いにしえの縄文スピリットの完全リニューアル復活と同時に起きる私たちの巨大な変化。――「すべては明後日からやってくる」のだ!!
 時間は過去から未来へ流れているのではない。「今この瞬間」とは完成された未来への辻褄合わせ、つまり「均衡」のためにある。精緻極まる時事情報と、純粋極まるスピリチュアル世界が高次元で均衡される。
 12月19日、衝撃の「神仕組」の全貌が仙台天命塾で明らかにされる。」

 このメッセージに貴重な情報がちりばめられていたのですが、後でその事は沢野さんご自身が気づいて驚かれたのでした。今回は、遠くは広島、京都、長野、川崎、東北各県から参加頂きました。是までにない大勢の方々が、衝撃の神仕組みを知り、新たな幕開けへの期待で2018年を迎えることができたことでしょう。
 以下が講演会の内容の簡単な紹介です。

 2017年のキーワードは「The  Redeemer」(ザ・レディーマー)救世主です。他に救世主の意味としてはユダヤ教のメシア、メサイア、救い主のセイビアがありますが、レディーマーは贖い主で、罪を贖うことを意味します。そこには元々持っていたものを取られる、占領される。それを買い戻す、取り戻す。という意味があります。
 縄文スピリット、日高見国、アテルイ、モレの文化が日本の文化から封印されています。これからそれが復活するのです。かつて持っていたもの、奪われたものを取り戻すこと。それがレディーマーで、2017年のキーワードです。
 ある組織、秘密結社などが探し求める救世主像と私の考えるそれとはかなり違います。それは肉眼では見えないもので、1人だが1つ。1人と1つが均衡し、正常に機能するものがアラハバキです。その相対が救世主です。
 これまで救世主候補がいたのですが尾崎豊などは死んでしまいました。アメリカ、ペンタゴン、CIAからすると日本から救世主が生まれては困るし、そうなると立場が無くなるのです。
 そのレディーマーが日本から現われる話しを今日はします。


 2009年に「反キリスト」の講演会をしました。3次元のキリストは一人の肉体を持ったスパースター、超人です。日本の国家は天皇を、それを真似て作り、日本書紀、古事記をでっち上げたのです。しかしこれから現われるのは反キリストです。それは何処にでもいる、遍在する衆生で、一般の人です。たった1つの邪悪のヒーローでなく、遍在するものです。三角形のピラミッドでなく、全員がイエスキリストになることです。
「反キリスト」とは遍在する衆生のことです。しかしそれではローマ教会なども困るので、反キリストを恐れてそれを悪魔としたのです。それが666なのです。

 瀬織津姫、宇賀神、アラハバキ、それこそ縄文と言うものが日本の歴史世界の歴史から隠滅されているのです。ニューヨークの自由の女神、弁天島は瀬織津姫で、モンサント、大天使ミカエルは瀬織津姫なのです。それを隠してキリスト教が出てきているのです。

2018年1月12日金曜日

1182「伊達12」2018,1,12

・O、Tさん
「全国を中山さんと回り、皆さんと交わることが出来る事で学びが多いし、繋ぐことも出来ます。中山さんのあわ歌が変化する度に音を聞いているので、その音の変化に慣れるのが早くなりました。自分の変化を見て、未来もただただでやって行きたいと思います。」

・中山博さん
「あわ歌を歌いだして23,4年になります。私は最初はもっと能力があったと思います。相手の事がすっと分かって言えて、何でも出来ると思ったのですが、1年でその能力は全部消されて、ただ歌うしかなくなりました。それから10年やって、何も無い、ことを教わりました。
 その後、皆さんと一緒に歌うようになりました。あわ歌を歌いたくない、という自分が皆に歌わせる為に、歌うしかない、と思って歌っています。歌う時に一生懸命するしかない。こっちを無にして、ただ歌うしかない。丸森の立石で歌っている時に、何を歌っているのか、無くなってしまいました。
 この様に皆さんに言って頂くのが頼りです。どこが悪いのか自分で考えないといけないが、毎回聞きたいし、言って欲しい。昨晩といい、今日もこの様に皆さんとミーテイングをやってくれるのはありがたいです。」

・I、Tさん
「昨晩話していた時、与える、授けていく、というスタンスが分かり易かった。1つに成るのは違うので出来ないと思う。この世界だと成れない何かがあるが、元々授けるは同じもので引き継がれ、変化を見るイメージが授けるという事かなと思う。
 授けるは差がある。上位から下位へだが、他に延長していけない。自分が出来ていないと認識したい。出来ると我が出てしまうので、希望だけでなく自分がこうだと認める事から拡げて殻を破っていく事。それを認識してやって行く。自分が作った世界を認識して、あわ歌の響きは受け継がれ、受け取るだけとの認識も必要でないか。自分で作っていることでそうなっていると認識して、日々、目の前のことをやって行く事を、解放出来るのかと思うが、中々難しいと感じている。」
中山さん
「瞬時に変えられることが今、AIやコンピューターで出来ている。自分もそれと同じで100匹目の猿と同じ事がおきるので無いかと思う。早く無くせば早くなる可能性はある。」
I、Tさん
「時間と空間で生きているので個別に見ている。本来は1つでコンピューターと同じで、そこでは違う事をインプットして行くので一緒に変わって行きたいというスタンスでないと変われない。」
中山さん
「一緒でないと滑る状態になる。」
I、Hさん
「あわ歌は時間の短縮が明確で期待はあるがそれだけでは駄目だ。」
中山さん
「可能性を信じてくれると変わる。」

・T、Sさん
「何を言うか、立ち位置が分からない。あまり拡げすぎると分からなくなるので肉体の範囲の中で押さえていく。I、Tさんの頭の中で考えている世界を一度消すことも必要かと思う。
 昔は狭い世界観があったがあわ歌をそれで進んできた。身体の反応があったが分析でそれは可能だったが自分がこれからどう変わって行くか分からない。
 熱日高彦神社に以前行き、今回久しぶりに行ったが、中山さんに会話をしてもらったが相手は要らないという遣り取りがあった。それを聞いていて面白いと思った。それが良い、悪いは誰も言えない。良かれと思っても相手には関係ないことがある。黒石寺は何度も足を運んだが、そこでは予想だにしない答えが出たことがある。
 来年が新しい響きを下さり、揺らがずに、との事を受け、揺らがない自分を作る為にあわ歌が必要だと思う。現実的に周りのことで、揺らがない為に必要なこと、家族を繋いだ遺伝子を上手くやって行きたい。
 身近な人の死に目を見ているが個性的で辛いものを残していっている。人が死に、自分がどういう死に方をするか考えている。あの人の死に方が良かったと、自分が穏やかな生き方でと、そう思っている。そう日々準備して行きたい。
 あわ歌はその中で必要な事だ。周波数に慣れさせることをしている。瞬時に身体が反応する自分がいて、是からが楽しみだ。」

・K、Yさん
「いろんなところが振動して凄く眠かった。車の中で眠かったが巡りが終わったら眠気が覚めた。いっぱい情報を浴びたと感じた。身体で振動を受けて、自分が必要な時に動けて、必要な時に回りに振動を発して行く自分に成って行きたいと思う。」

 3日間のあわ歌の集いは終わりました。大きな導きの中に繰り広げられる世界は面白くもあり、不思議で未知の世界への歩みです。善き仲間とのご縁があればこそです。お別れの食事会を中華屋さんで行ないましたが、光のページェントも沢山の人で賑わっていました。



 次回のあわ歌は2018年2月10日から12日です。ご縁の方は参加ください。

2018年1月11日木曜日

1181「伊達11」2018,1,11

 全ての巡りを無事に終えることが出来ました。16時半で既に夕闇の世界です。後は仙台に戻り天命舎で最後のミーテイングです。17時半過ぎから皆さんと車座になって1時間ほどのお話の場です。

  最初に中山さんから以下のお言葉がありました。

「たちまちの時を迎えまつる皆々様に申す。  
 うつし世を大きく変えて、この地球の振動、元なるへと向かうに値するものと致す。 
 このことは大いなる広き全てが始まりて、第三段の拡がりとなる時なり。 
 この時は大きく進みて参るゆえ、この地球の全てに及ぼす大きなる変化なり。
 この人の身は進み来て、他のものより大きく進みておりまするが、その命は数多くの小さき方々の働きを各部所が受けて、その働きによりて生きております。
 是よりはそれぞれの 活き活きひとつと成りてまいる。
 そのことは極微の元の動きをそれぞれが捉えて、発してこの身を動かし行く。
 これまではこの人体の目、耳、体幹、口から入る。それぞれ頭に伝わり、その中にて定められたること思いとなりて現れたり。
 この事、思いにそれぞれの深き欲、我良しの欲 生み出だし、争いの事となりたり。 
 この事 全て無くし、ともどもそれぞれ嬉しき持ちて ひとつとなす。
 そのためのご用意 長きに渡りて この身を通し、振動受けられ、慣れし体となりゆくを望みたり。
 かく申すこの身より発する響きは、この地にありて 皆々に伝えゆく最終段階を迎えたり。
 来る年には発してまいる。大いなる響きなり。
 それぞれ受けたるその身の思いにて行いてくだされ。
 託するはそれぞれの身なる事、よくよく知りて、大きなる道へとお進みくだされ。」
 18時12分


 引き続いて中山さんからお話が先ずありました。
「来年は大きく変わります。各自がそれを受け止め、己のものとすることです。振動を受けて、微細な所から発信すること。自然では無理です。もっと小さいことで、身体の中の小さい所が、自分がどう受け取りかで変わります。それは人それぞれです。
 今まで知っている神仏を云々することは一度無しにして、自分で受け止めて、自分でして行くことです。すがっても、頼っても駄目です。一番頼りに成るのは人間です。しかし、友人、知り合いとは嬉しく、楽しくやることです。一緒に少々の考えの違いがあってもやって行くのが大事です。これからは見えないものを頼っても駄目です。

中山さんのお話を受けて皆さんの感想等を紹介します。
・G、Mさん
「2日間、とても楽しかったです。頭で考えていましたが、感じてスルーしました。昨晩の2次会で楽しいことを聞いたのですが、朝起きたら忘れていました。きっと潜在意識に残っているでしょう。楽しく笑って生きたい。」
中山さん「お伝えでもそのことが出ていましたね。」

・S、Uさん
「今回、中山さんと一緒に体験出来てありがたかったです。企画した大久保先生、Tさんに感謝です。今回頂いたあわ歌の響きは今までと違うもので、昨日より今日のほうが皆と歌って共鳴感があり、嬉しかったです。小さき者達と一緒に響く喜びを感じました。これからも又、響きを感じて続けて行きたいです。」

・O、Yさん
「昨日は頭でしたが、今日は胸が響いた感じです。特に、立石で響いた感じがしました。最後に唱える、あゐうゑをが特に響いて今までと違う感じで嬉しかったです。」

・K、Hさん
「あわ歌から歌い始めて、あゐうゑをを歌えて良かったです。私があわ歌会で頂いたお言葉の内容に付いて、Oさんから中山さんのお話を聞いて感じましたが、これからどうするか、しっかり行動に移せないですが、今出来ることで最善の事をするようにしたいです。奈良田、駿河のことをしますが、仙台の事も忘れずにやって行きたいと思います。」

・S、Hさん
「今回、皆さんの響きが共鳴している事を感じました。環境の良い所で続けてやって行きたいです。やる気がちょっとあります。」

2018年1月10日水曜日

1180「伊達10」2018,1,10

 次の目的地は角田市島田にある熱日高彦神社です。ナビが違う道に誘導して少し回り道する事になりました。かつて相馬妙見のテーマでこの神社に中山さんを同行した事があり、その時も道に工事車両がいて参道を車で進めず歩いてお参りしました。そしてこちらの申し入れを頑なに拒否され、早々に退散した曰く付きのところです。
 今回も何かありそうな感じがします。車で境内の本殿近くまで進む事が出来ました。境内は綺麗に掃除されていて整えられています。
 神社の説明は以下です
「人皇十二代景行天皇の御代、第一皇子である日本武尊が勅命を受けて東征の際当地に到り、古来の聖地であった此の大森山の山懐に祭場を設け、皇祖廼邇邇杵命を祀って、当地が平和であることを祈った。日本武尊が都への帰途に薨去されたので、天皇は勅して(命じて)此処に邇邇杵廼命に併せて日本武尊の神霊を鎮祭せられたと社伝として伝えている。後に素戔鳴命、鹽土老翁命、大己貴神、少彦名命の四神を併せて祀っている。
 また明治42年4月白山社を館島田から、熊野神社を桜井から、水神社を清水田から、館稲荷神社を館島田から合祀して、菊理媛命以下八神を祭神に迎えられた。古来伊具郡惣社とされ、明治5年郷社に列せられており、郡内全ての神社のご祭神を拝することの出来る神社とされた。平安時代には、南方の小斎に鹿島神社(武甕槌命)、北方の尾山大谷に香取神社(経津主命)が鎮座していて、廼邇邇杵命が他界に降臨されるに際して両神が陪従せられたことによる配座とも伝えられている。時代が下って日本武尊の東征に際しては、香取神宮・鹿島神宮との関わりあり、当地の三社においても神事の上で深い関わりが残っている。
 創祀やご祭神に関わる伝えは以上のとおりであるが、当社は日本武尊東征以前にも産土神の聖地であったはずであるから、創祀の年代は特定不可能というべきであろう。平安時代に入って延長5年に延喜式が完成しているが、その中の神名帳には「小社」として当神社の記載あり、江戸に下って「伊具郡惣社」として郡内に神符ヲ頒布していた記録もある。
 通常「お日高さん」と親しみを以って呼ばれていて、享保に奉納された社額には「日髙宮」とある。安永風土記書上にも「日髙神社」の名で報告している。」
 


  ここはあわ歌を歌うことなく中山さんからお言葉を発し以下の問答になりました。
「お~ 虚しき日々を送りて参り、
 その身の響きを再び受けたるは大いなる事と承知したしたり。(拍手)
 恙無きは嬉しき事。是よりもここに居りて、日々只々に参られませ。お~(拍手)
 黄泉成る大き地へと向かう事なれど、この地、暫し身を起きて、恙無く過ごす。(拍手)
 それでは是にて最後と致そう。」15時31分

 以前ほどの頑なさは無く、しかしここに留まるようです。それはそれで良いのでしょうと早々に失礼しました。



 次の目的地は亘理町逢隈下郡にある石間稲荷神社です。今回の巡りの最後になります。小さな川に架かった橋は巾が狭く車が通るのもギリギリです。橋を渡って直ぐ左手に鳥居があり、右側に巨岩の岩壁面があり、そこに石碑や遥拝碑等いろいろお祀りされてあります。
 又、左手には赤い鉄柱の囲いがありますが、そこは「神社付近が海であった頃、岸の岩場に北から寄せる波と南からの潮がぶつかり合っていました。また、この囲いの付近には湧水の穴があり上記に因み『波合いの清水』と呼ばれていた。」そうです。




 階段を登り本殿へ向かいます。参道脇の木々は伐採されて空間が広がって良い感じです。
 この神社の紹介です。
「延暦16年(西暦797年)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折り、この地で討伐の犠牲者になった先人の将軍上毛野田道(崇神天皇の皇孫)をはじめ、土地の豪族や住民たちの弔意のために、伊治水門(石間山)に石合稲荷(現在の石間稲荷神社)を勧請(神様の分霊を迎えて祀ること)し、椿山に観音堂を祀り(その後、神社境内に移転)、武運長久や開拓の安全を祈願したと伝えれています。
 当初、神社が建立された岩間山の処は、巖山で波が打ち寄せ合う場所で、石の間に祠を置き祀ったとされています。その後、時の豪族が奉護し、拠点として下郡をはじめ逢隈地区が開拓開墾され発展しました。(大和朝廷より、日本武尊をはじめとする将軍が時代により陣所を構えて統治の施策とし鎮守して来ました)
 慶応4年(1868年)3月28日に「神仏分離令」が太政官より布告され、明治5年(1872年)に神社の社格として「村社」に列格しました。
 永きにわたり神社は、通称「石間さん」と親しまれ、地域の鎮守様としては勿論、現在の霊験が灼かで、五穀豊穣・商売繁盛の神様として近郷の方々からも厚く崇敬されております。」

 どうやら海が近くで波が打ち寄せていたようです。先の311の東日本大震災の津波も押し寄せたのでしょう。ここは中山さんのみお尋ねのみでした。
「届けたきはこの身よりの響き。生み出だしその身と一つといたさん。
 お~お~(拍手)
 許されしその身を大きなるを伝え、この地と共の是よりに、
 響き下ろされ、守りませ。(拍手)
 あいやうえお いあう 共々参り行く。
 しっかり受けて、この地へ発し成され。(拍手)
 う~(拍手)」16時26分


 既に陽が沈み始めています。しかし何故か本殿前での集合写真はとても明るい空なのです。お喜びいただけたのかもしれません。




2018年1月9日火曜日

1179「伊達9」2018,1,9

 立石を下り昼食会場へ向かいます。丸森の中心街にある齋理屋敷の中にある大正ロマン喫茶、齋理喫茶です。
 齋理屋敷の説明は以下です。
「江戸時代後期から昭和初期にかけて、呉服・太物の商売に始まり味噌・醤油の醸造、縫製業など幅広い事業を展開し、七代にわたり栄えた豪商、齋藤理助氏。
 その屋敷および収蔵品すべてを町が寄贈を受け、「蔵の郷土館」として開放したのが齋理屋敷です。当時の衣類や美術品などが展示されている7の蔵(1棟非公開)と2つの邸宅。
 2010年には、蔵や石風呂などの6つの建築物・工作物合わせて12の建造物が国の登録有形文化財に登録されました。
 年3回の大きな企画展「端午の節句」「齋理の歳迎え」「齋理の雛まつり」はじめ、一年中さまざまな特別企画展が行われています。また、屋敷内を利用して「齋理ざっとむかし」や「シルク和紙・紙漉き体験」も定期的に開催中。
 8月上旬には、齋理屋敷およびその周辺の通り一体を会場とした夏の風物詩「齋理幻夜」が行われ、約1,000基ある灯篭の幻想的な灯と各イベントがまつりを盛り上げます。」

 大正ロマンの名の通りの雰囲気のお店です。私たちだけの貸切で豪華ランチとぜんざい、或いはケーキセットを頂ました。皆さんここでも満たされて心身ともに大満足です。








 そこそこ歓談に華を咲かせた後は、直ぐ近くの百々石公園でしばし休息です。狭い道路をあがると全山そこかしこに巨石がある公園です。
 公園の案内です。
「伊具郡史
 百々石公園は以前、観音山公園とよばれ、由来は、「丸森町有志菊池栄三郎氏が大正十二年独立自費で山路を拓き人工を加へしもの。山上風致絶勝にして紅葉する頃は殊によし。山上に三十三観音の一にあたる細内観音あり」
 なぜ「百々石公園」となったのかはわかりませんが、全山が花崗岩の巨石で出来ているために「百々石(どどいし)」の字が用いられるようになったのだろうと推測されます。」

 駐車場から数分登ると展望台、東屋があります。その先の巨石から午前中に登った羽入りの立石が南東の方向の山に見えます。流石に巨大が道祖神です。丸森の町を眼下に眺望し石の上でまどろみタイムです。






 百々石で多くの英気を頂き、後半へ向けて出発です。
 次の目的地は角田市立石笠島にある笠島の立石です。この立石は道の分岐に突然現われる感じで驚きの巨石です。羽入の立石を東根(隈東)の横綱といい、方やこちら笠島立石は西根(隈西)の横綱と言われています。
伊具郡誌に「立石 笠島権現道(権現堂のことか)の下に在り三丈二尺周囲十二丈」。

「いわれ:角田~白石間を結ぶ最短の道筋で、分かれ道には「右白石・左大倉村」と刻まれた寛保3年(1743年)の道標が立っている。高さ10m、周囲40m程」
 立石の近くの権現森の頂上からは太白山が見えるようです。以下に東西の横綱の立石を
紹介してあります。甲乙付け難い巨石です。

羽入の立石は東根(隈東)の横綱
笠島立石は西根(隈西)の横綱
    立石に向かって皆さんで「あゐうゑを」3回のみ響かせ、発しました。その時のお言葉です。
「西より東へもう一度結び直し、
 天地と十字になる光来る時には必ず発して下され。」14時36分










2018年1月8日月曜日

1178「伊達8」2018,1,8

 次の目的地は丸森町の駒場瀧不動尊公園です。内川の渓流には見事な巨石、その渓谷美は四季折々の自然をめでる方々が集う名所です。丸森の町の中心部から通り抜けて南下します。
 駒場瀧不動尊公園の紹介です。
「駒場の不動尊を中心とした公園です。駒場不動尊は、丸森から内川をさかのぼって南へ約6kmほど山間に入った堂平山(どうへいざん)の北麗、内川の右岸にあります。堂の創建年代は不明ですが渓流を挟んで高さ10数メートルの断崖がそば立ち、いかにも荒修行の地にふさわしい、深山幽谷といった景観に包まれています。
 累々と重なる岩石を洗って急流や深淵がいたるところにあり、上流には高さ12mの清滝もかかり、水石として価値の高い五色石の採集もできます。
 昔は丸森には修験者(山伏)のいる修験寺が沢山あり、不動尊境内にある愛敬院(本尊:不動明王)もその一つです。もともと修験宗とは役小角(えんのおずぬ)を祖とする古い仏教の一派で、護摩を焚き経文を唱え、祈祷を行い、自らは難行苦行を重ね、神験を習得することを業とし、かつては人々の願いを神仏に祈る仲立ちを行っていました。」



 冬の公園を散策して巨石を堪能し、内川に架かる赤い欄干の橋を渡って一番にそそり立つ烏帽子岩?の下に陣取り、皆さんであわ歌を歌いました。その後に「あゐうゑを」を発しました。なんとも良い響き愛です。


 その時のお言葉です。
「最果てなる大きなる地は、北の外れの大きな地。
 ここを定めて、この地球を真素直に戻す。
 渦と為せば全てが戻る。その期限迫り来て、この響き持ち行くことなり。
 北の地より発する事を望む。」10時45分

 果たして北の外れの大きな地とは何処でしょうか。そして北の地より発する事を望む。とあります。

 次の目的地は同じ丸森町の羽入の立石です。東根(隈東)の横綱といわれる立石です。
駐車場からかれこれ1キロほど、20分位の山登りです。朝日が燦燦と降り注いで暑い位です。皆さん登りきり暫し心地良い風に涼を求め休息です。









 立石に付いては以下の様にあります。
「立石 天然記念物 昭和41.10.5 指定 丸森町字泉72の1
 由来:丸森町の中心街から東南東約2kmの山の中腹にそびえ立ち、その高さ12.5m、周囲25mの大石である。その昔、阿倍貞任(1050ころ)が石上に立ったと言い伝えられるほど、以前から人々に注目されてきたものである。
 この巨大な石に対して、人々が何か信仰の対象にしたとも考えられ、石のまわりに、弥生式土器の破片や年代不明の貨幣などが発見されている。
 現況:丸森町羽入東の峰上にある柱状花崗岩である。巨大な岩石のため、筆甫街道上滝に至るまで、見る場所によってその姿を変え異様な感じを人々に与えている。」

「均整のとれた姿形は何かの石碑のようであり人工物を思わせるが、数百トンはあるだろうこの巨石をここまで運び上げることはまず不可能だろう。
 ここで思い出すのは、記紀神話の黄泉比良坂の物語に出てくる「千引きの岩」である。イザナギが黄泉の国からの脱出の際、千人で曳くほどの大きな岩で境界を塞ぎ、イザナミの追跡を逃れたという磐石のことである。この「千引きの岩」が「塞の神(さえのかみ)」の信仰に基づく原典とされている。この立石も岩の霊力で悪霊や災難の侵入を防ぐ、道祖神や石敢当(いしがんとう)のような「遮止」の役割は担っていたのではないだろうか。」
 
 立石に向かって、皆さんであわ歌を歌い、あわ歌の後に「あゐうゑを」発しました。太陽のエネルギーを満々と浴びながら心地良い風に乗り、あわ歌の響きは天空にこだましていきます。なんとも無空無の時です。中山さんも頭が失せて忘却の間に立ち入ったようです。





 その時のお言葉です。
「たとえ大きなるこの地の振動起こり来るとも、天空の支え見事に働き、
 この燈台を守りて、光を繋ぎ、多くの地へと発し行く。
 これ辿り来た大きなる石との結びなり。
 踏み行く道は、皆々照らし行くを。」12時4分