2019年10月31日木曜日

1842「下北・恐山8」2019.10.31

 次の目的地は東北町にある日本中央の碑保存館です。ここは16時閉館ですので急いでむかいました。かろうじて10分前に到着です。受付の女性の方は既に帰りの支度をしていましたが、16時には退館する事で了承を得て駆け足で拝観しました。
青森県に日本中央の碑があるのは何とも不思議ですが、以下の様に紹介されています。

「日本中央の碑        東北町字家ノ下タ39―5   0175-64-7979
 1949年(昭和24年)6月21日、当時甲地村であった石文集落近くの赤川上流で千曳在住の川村種吉により発見された、高さ1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた碑である。
 発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。これは、袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、坂上田村麻呂が現地に到達した伝承がないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形も鑑定に影響を及ぼしている。
「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。一方、日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある(この場合、よみは『ひのもと』となる)。
 また、坂上田村麻呂はこの地に到達していないが、文屋綿麻呂はこの地に到達している。
 現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。


 保存館の中央にある「つぼのいしぶみ」は、高さ約1.5mの自然石で、石の中央部に「日本中央」と刻み込まれています。では、「つぼのいしぶみ」とはどのような意味があるのでしょう。漢字で「壺の碑」と書かれることもありますが、藤原顕昭(ふじわらけんしょう 平安末から鎌倉初期の歌学者)による著作「袖中抄(しゅうちゅうしょう)」の中に、「陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り」と書かれていることが知られています。
 顕昭は幼少期に比叡山で修業し、のちに京都の仁和寺に入ったと伝えられる人物。なお、石に文字を記す、そこから石文(いしぶみ)となるのです。では誰が文字を刻んだのでしょうか。京都の清水寺建立でも知られる有名な人物は、征夷将軍ともなった坂上田村麻呂(天平宝字2年(758年)-弘仁2年(811年))です。日本中央の文字は、矢じりを使って田村麻呂が書いたという解釈がありました。しかしながら、坂上田村麻呂は盛岡市南の志波城までが訪れた地としては最北になり、現在の青森県まで来たのは田村麻呂の次に征夷将軍となった文室綿麻呂です。こうしたことから文字を刻んだのは文室綿麻呂ではないか、という説があるのです。」

「なぜ、日本中央の文字が刻まれたのでしょうか。解釈の中には、千島列島を含めば日本の中央と考えてもよい等、様々なものがあります。しかしながらはるか昔に刻まれたとすれば、そこまでの地形を理解していたということそのものに無理があります。明治期には大きな議論となりましたが、結局は分からず。文字の意味は「なぞ」のまま、まさにミステリーなのです。刻まれた文字から何が感じられるのでしょう。実際に現地を観光し、ぜひとも自分で確かめてみて下さい。
 国道4号線を北上し、ちびき病院を過ぎた後の信号近くに、コンビニエンスストアがあります。その右側を通る道が県道8号八戸野辺地線で、南下して少しすると「日本中央の碑」発見地があります。発見地は駐車場を含めて整備されています。しかしながら周囲は草木が生えており、その中の階段を下ることになりますので、必要に応じて虫よけ対策と、滑りにくいシューズを利用することをお勧めします。途中には看板がありますので、左側を通って進んで下さい。看板を過ぎると再び下りの階段。その先に、石碑発見の看板が見えてきます。
 この場所こそ、石碑が発見されたという場所なのです。石碑の発見ですが、昭和24年6月21日のこと。川村種吉という人物によって偶然見つけられています。
 発見の年代が比較的新しいこともあり、石碑そのものを疑問視する声もあるのですが、実はそのように単純なことでもありません。「つぼのいしぶみ保存館」から県道8号線に入り、すぐの場所に「親巡蹟」がありますが、これは明治天皇の東北巡幸の記念碑で、この巡幸は重要な意味を持っているのです。
 坪(つぼ)と言われる集落近くに千曳神社(ちびき神社)があり、神社の伝説には千人で石碑を引っ張り、神社の下に埋めたというものがありました。神社の名前も千人で引くということから「ちびき」と付いたという説があります。
 明治9年(1876年)の天皇の東北巡幸の際の出来事ですが、公式に明治政府より、神社周囲を発掘調査するよう命令が出ていました。結果として発見することは出来ませんでしたが、その後、昭和になって石碑発見のニュースとなるのです。」

 建物の中央にいしぶみの巨石が展示されています。そしてそこにはっきりと日本中央と刻まれています。その真偽は不明ですが、木内さんもかつて縄文の頃は青森県の辺りが栄えていてその後に南下し、須佐能の出雲などに移行して行ったと話されています。青森市の三内丸山遺跡の発掘により歴史観は大きく変わりましたが、更なる視点の転換がなされるのかもしれません。壁面には先の案内に記された諸々の資料が展示されています。ロマンあふれる世界です。16時には退出して次の目的地に向かいました。









2019年10月30日水曜日

1841「下北・恐山7」2019.10.30

 八戸市の種差海岸を後にして一路、七戸町の見町観音堂に向かいます。以下の様に紹介されています。

「見町観音堂       七戸町見町18
 見町観音堂は青森県上北郡七戸町見町に境内を構えている御堂です。案内板によると
「見町観音堂は、南北朝時代の南朝方最期の忠臣、南部政光によって、長慶天皇の菩提を弔うために創建されたと伝えられています。現在の建物は、延宝4年(1676)に建てられたもので、室町時代の建築様式を伝える県内では数少ない貴重な建物で、昭和60年に青森県有形文化財の指定を受けました。堂内には、絵馬や羽子板など359点が残されており、これらは平成2年、国の重要有形民俗文化財に指定されています。」とあります。開基者である南部政光は元々、甲斐源氏の諸派で現在の山梨県南部町を本拠としていましたが、南北朝時代に南朝に属し足利尊氏と対立した為、甲斐を離れ根城(八戸市)を本拠とし、その後、七戸城に退くと多くの社寺の創建に携わっています。

 見町観音堂は正しくは金鶏山長福寺と称し観光上人や遊行上人が巡礼で訪れた由緒ある寺院で奥州糠部三十三観音霊場第13番札所にも選定されていました(現在の奥州南部糠部三十三観音霊場からは選定外)。七戸地方の観音信仰の拠点として、絵馬(江戸時代中期以降185点)、羽子板(室町時代以降14点)、読経札(113点)、称名念仏札(2点)、納経札(2点)、順礼札(8点)、棟札(応永3年など14点)、その他(21点)、合計359点と膨大な資料を所有し見町観音堂が信仰の対象になっていた事が窺えます。
 現在の見町観音堂の建物は木造平屋建て、宝形造、茅葺、桁行3間、梁間3間、外壁は真壁造板張素地、華美な装飾を廃した質実な意匠で青森県を代表とする近世に建てられた三間堂御堂建築として貴重な存在で昭和60年(1985)に青森県重宝に指定されています。七戸南部三十三観音霊場第3番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:夜もすがら 仏の御名を 唱うれば 極楽ともに ここに見る町)。山号:金鶏山。寺号:長福寺。本尊:聖観世音菩薩。」

 駐車場入り口には絵馬の里、見町農村公園の立派な絵馬の石碑があります。赤い鳥居には金鶏山と記されていて直ぐに階段になっています。この山は間口が狭く奥に細長い形状です。階段を登り杉林の中の参道を5分ほど進むと見町観音堂に到着します。




 茅葺のお堂には草木が繁茂して冠を頂いている様です。ここは1676年の建立で340年程経っています。午前に訪れた八戸市の清水寺観音堂は1581年建立ですから、その後95年後です。
 綺麗に整備されていて大事に守られている様子がうかがえます。八戸の清水寺観音堂と違い、山中の自然の中にあり異次元の空間を味わえます。暫し、皆さんとこの世界を堪能し、木内さんを中心に話しが弾みました。






 帰りは右手に下る道があり公園に出ます。蓮の池があり散策路を駐車場に戻りました。初夏から花の見ごろの頃は見事でしょう。


南部地方は馬の産地で殊の外、馬を大事にされていました。この七戸町は将にその産地です。絵馬は神社に願い事を記して奉納されますが、その謂われは以下の様です。

「個人で奉納するための絵馬として、小型で馬などの絵が描かれて余白や裏面に祈願の内容や氏名などを書くものが、社寺で販売されている。大人数で奉納する絵馬は、大型で、画家に描かせるなどして奉納者が用意することもある。絵馬の奉納は個人的な動機による神仏への願掛けであり、かつては人に見られない時間帯を選んで行われた。また、今日のように絵馬に実名を記すことはなく、「寅歳女」のように生まれた干支と性別のみを記した。
 かつて、神々は騎乗した姿で現れるとされ、神輿の登場以前は神座の移動には馬が必須と考えられた。常陸国風土記によれば、崇神天皇の代より神事の際に馬を献上する風習が始まったとされる。奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬、神馬(しんめ、じんめ)を奉納したと記される。一方、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、奈良時代からは板に描いた馬の絵が見られるようになった。」

2019年10月29日火曜日

1840「下北・恐山6」2019.10.29

 蕪島から海岸沿いに南下して種差海岸を目指します。左には太平洋が水平線まで綺麗に見えます。そして各所に奇岩が勇壮な海岸美を見せ、綺麗な砂浜、松林と対比的な自然美を堪能できます。
 先ずは昼食会場の波光食堂さんに向かいます。種差海岸を左手にみて八戸線の種差駅方向に曲がり直ぐ左にあります。お店の二階の大広間に案内されました。


 八戸は海産物の宝庫です。夏のウニは格別です。今日は豪華な磯ラーメンとミニ生うに丼の豪華ランチメニューです。皆さんその美味しさに喜びの声を発します。美味しいものを頂くと幸せで豊かな気持ちになります。皆さん笑顔です。八戸の美味を堪能頂けて嬉しいことです。


 満ち足りた中に種差海岸の散策です。各自、自由行動で30分ほど快晴の中ゆったりと優雅な一時を満喫しました。ウミネコも近くで散歩です。私は芝生に横になり暫し海を眺めて過ごしましたが、見慣れた景観ですが新鮮な感動です。




 種差海岸以下の様に紹介されています。

「種差海岸          八戸市大字鮫町字棚久保14-167
 波打ち際まで天然の芝生が敷き詰められた、三陸復興国立公園・種差海岸を代表する景観。種差海岸一帯では古くから馬の放牧が行われ、芝生の特徴的な景観は人と自然の関わりの中で形づくられてきました。種差海岸インフォメーションセンターが実施するプログラムや乗馬体験、毎週土曜日の朝ヨガなど、夏場を中心にさまざまな催しが行われ、訪れる人の遊びと癒しの場となっています。


 淀の松原を抜けると一気に視界が開け、眼下になだらかな起伏の芝生地が広がります。「種差天然芝生地」は、種差海岸を代表する景観。海沿いの険しい岩礁とのコントラストが美しい芝生の風景は、まるでスコットランドの海岸のような異国情緒を感じさせます。初夏から秋にかけて緑一色の芝生に彩りを添える、ニッコウキスゲやハマギクなど四季折々の花々も魅力。波音に耳を傾けながら海を眺めていると、時間が過ぎるのを忘れるほど。芝生に抱かれながら、五感で癒しを体験してみませんか。」

 最後に「種差海岸インフォメーションセンター」を訪れました。
「種差海岸の独特の地形や植生を、模型や映像などさまざまな手法で学ぶことができる三陸復興国立公園・種差海岸の拠点施設です。開放的な窓から眺める種差天然芝生地の風景も、また格別。」





 


2019年10月28日月曜日

1839「下北・恐山5」2019.10.28

 次の目的地は八戸の観光名所の蕪島に向かいます。蕪島は国立公園種差海岸の北端で八戸魚港の鮫漁港にあります。八戸は港町としても栄えた所で以下の様に紹介されています。
「江戸時代には「八戸浦」と呼ばれ、三陸海岸における交易港、避難港となっていました。当時の浦浜は、馬淵川河口以北の北浜、湊・白銀・鮫海岸の前浜、白浜以南の南浜に分けられていました。
 昭和35年の特定第3種漁港指定を契機に、魚市場や背後施設などの基盤整備が進められ、現在の姿になりました。八戸漁港を含む「八戸港」は商業港、工業港としても発展してきています。」

 八戸漁港は水揚量・水揚額において数回全国1位になったことがある日本有数の漁港です。最近は「朝にだけ出現する”街”」として館花岸壁朝市が有名です。
 「普段は何もない広大な岸壁に、毎週日曜日の早朝にだけ出現する巨大朝市・館鼻岸壁朝市(たてはながんぺきあさいち)。全長800メートルにわたって300以上の店が立ち並び、毎週数万人もの人出を誇る、青森県内・東北はもちろんのこと、国内でも最大級の朝市です。
 特に、連休やお盆には観光客や帰省客などが通路にあふれ、歩くのが困難なほどのにぎわい。八戸で最もホットな場所と言っても過言ではありません。」


 蕪島はウミネコの繁殖地として有名で、島にあった厳島神社は4年前火災で焼失してしまいました。以下の様に紹介されています。
「蕪島            八戸市大字鮫町
 蕪島は神の使いとされるウミネコ(魚の居場所を知らせる為、漁民から信仰の対象になっていたと思われます。)の繁殖地として神聖視され「神島」、「神場島」がなまって蕪島と呼ばれるようになったと言われています。永仁4年(1269)には犬房丸(幕府御家人工藤祐経の子供)がこの地に流され、蕪島が故郷の江ノ島に似ていたところから厳島神社(弁財天)を蕪島の頂上に勧進し、宝永3年(1706)には八戸藩3代藩主南部通信が男子誕生の子宝祈願を行ったと伝えられています。
 当初は岸から100m程離れていた単独な島で厳島神社(現在の蕪島神社)の例祭や参拝には渡し舟を使って行われていたそうですが昭和に入り整備が進み昭和17年(1942)に旧海軍により埋め立て工事が行われ、現在見られるように陸続きになりました。 
ウミネコは2月から3月にかけて約4万羽飛来し営巣、4・5月に産卵、8月上旬まで子育てを行い旅立ちます。ウミネコの繁殖地は、全国10箇所(八戸市:蕪島・出雲市:経島・陸前高田市:椿島・女川町:江ノ島・酒田市:飛島)ありますが離島や断崖絶壁など人里から離れているのが殆どで、蕪島のように市街地にあるのはウミネコが神格化され保護され住民達と共生できたからではないでしょうか?
 蕪島はウミネコ繁殖地として大変貴重な事から大正11年(1922)に国指定天然記念物に指定されています。又、平成8年(1996)には当時の環境庁による「残したい日本の音風景100選」に「八戸港・蕪島のウミネコ」として選定されています。蕪島の周囲約800m、標高約19m、長軸約300m、短軸約140m、面積約17平方キロメートル。
 蕪嶋神社の社殿は平成27年11月に発生した火災で焼失したため、蕪島の入口に仮の拝殿と社務所が設けられています。もし、ウミネコに「ウン」をつけられたら、蕪嶋神社の社務所へ。「ウン」が開けるかもしれません。※蕪嶋神社再建工事中のため、蕪島島内(頂上)への立入が制限されています。(2020年3月頃まで)」
 

 神社は再建中で立ち入り禁止ですが、ウミネコも少し残っています。数年前に出来た蕪島休憩所で観光情報、蕪島の四季、歴史などをパネルを学び寛ぎタイムです。




 かつて私が子供の頃、この蕪島の南側は砂浜で海水浴場になっていて何度も泳ぎに来たところです。懐かしい風景ですが様変わりです。

2019年10月27日日曜日

1838「下北・恐山4」2019.10.27

 是川縄文館の次は同じ是川にあり、車で数分で到着する清水寺観音堂です。以下の様に紹介されています。
 清水寺観音堂

「清水寺観音堂        八戸市是川中居18-2
是川字中居(なかい)に所在する清水寺(せいすいじ)は、山号を楞巌山(りょうごんざん)と称し、その草創は平安時代にさかのぼり高僧慈覚大師(じかくだいし)によると伝えられています。もともと天台宗でしたが、明治時代に浄土真宗に改宗しています。
 この観音堂は、堂内に残されている棟札から、天正9年(1581)に建立されたことが分かっており、県内最古の木造建築として知られています。
鎌倉時代に中国から伝わった禅宗様(ぜんしゅうよう)という様式を主体として造られており、所々の彫刻には室町時代の特徴を持った文様も残されています。構造は、桁行3間、梁行3間の一重宝形造(ほうぎょうづくり)で、茅葺屋根となっています。
 禅宗様の中世的仏堂として東北地方北部の貴重な遺構で、昭和55年に国の重要文化財に指定され、翌56年から58年にかけて解体復元工事が行われました。
 観音堂には産馬育成の祈願等の絵馬が奉納されており、寛文8年(1668)のものから明治初期のものまでありますが、現在、そのほとんどは八戸市博物館に寄託されて保存管理されています。 また、清水寺観音堂は、糠部(ぬかのぶ)33観音札所の第2番札所となっており、古くから人々の厚い信仰を受けていたことが知られます。」

 本堂脇に駐車場があり、そこから直ぐに観音堂に行けます。大きな杉木立に囲まれ参道の先に茅葺の観音堂は見えます。参道右手には墓地へ向かう道があり、手水石があります。池があり、古びた石灯籠が立ち、この空間だけは別な時空間、異次元世界です。観音堂の茅葺屋根には草木が生い茂り時間を感じます。440年のタイムスリップです。暫しこの空気感を味わいました。





 観音堂に祀られる菩薩は以下の様にあります。
 「観音堂本尊はかつて千手観音(伝慈覚大師円仁作。※盗難により現在不在)としていましたが、現在は救世観音菩薩を安置。他に木造天部立像や馬鳴(めみょう)菩薩を祀ります。木造天部立像は四天王の一つ多聞天あるいは単独で毘沙門天の可能性が指摘され、県内最古となる平安時代後期の彫像と判明。馬鳴菩薩は菩薩が馬に跨る形像。中国の民間信仰に由来し、貧窮の人々に衣服を与えたり、養蚕機織の菩薩として祀られるといいます。また、産馬育成祈願などの絵馬(51枚(寛文8年-明治初期)・市指定文化財)も奉納されています。」

 観音堂内部は拝観できませんでしたが以下の写真でその様子を伺いしれます。
中央に鎮座するのは比較的新しい千手観音菩薩立像の様です。