2020年1月31日金曜日

1933「南福島巨石巡り4」2020.1.31

 次の目的地は同じ二本松市の七尋石山巨石です。三つ岩から近く10分ほどで到着です。以下の様に紹介されています。

「七尋石山巨石       二本松市上川崎字七尋石地内七尋石山公園
 4号線から62号線、鬼婆で有名な安達が原ふるさと村に曲がる。ふるさと村から約4km行って、標識「福島・広域農道」に従い左折、800m行くと智恵子大橋が掛かっており、さらに700m直進すると十字路標識「七石山・右折」があるので従い、600m行けば右手に見える。
 稚児舞台より程近く、つつじの名所として知られています。ここには寛政年間、佐藤大膳太夫が居住していた「愛宕館」跡地で山頂には堂守(将軍地蔵尊)があり、三観音像や庚甲等の神号が刻まれた花崗岩の奇岩、自然石の文字を彫った塔碑なども残されています。現在では七尋石山公園として整備されています。」


  
「春にはつつじが美しく咲き誇る、風光明媚な公園です。佐藤大膳太夫の居住していた愛宕館の跡地に整備され、西国三十三観音像や風神、雷神などの神号が刻まれた、存在感のある巨大な石が印象的です。巨石のすぐ後ろには、将軍地蔵尊が祀られており、その周りには、自然石に文字が刻まれた数々の庚申塔が建てられ、地元の人々に信仰されています。
 巨石があるけれど、ただの石碑?「七尋」というからには、10m以上はある岩があるはずなのですが・・・まあとにかく、道路地図上の「七尋石公園」へは到着しました。
 しかしそこは案内板も駐車場もベンチもなし。公園の標示も全くありません。高さが1~2メートルの巨石が、丘の急な斜面に張り付いています。どことなく人為的な配置のようにも見えます。それぞれの岩には、何か文字のようなものが・・・・よく見ると、うっすらと「庚申」と彫られているものが多いようです。画面左側中央部にある、小さくて尖った岩にだけは、「西国三十三所」というはっきりした文字。いずれも近世の石碑で、古代の巨石信仰というわけではありません。
 たまたまこの近くに、農作業をしておられたご高齢の女性が見えたので、妻が行って話を聞きました。「七尋石」という石があるかどうかを聞いたのですが、よくわからないという答えでした。ただ、この丘の上には「愛宕様」のお社があり、火防せの神様で、そこへ登る道もあるということでした。道があるなら上に登ってみようと、お聞きしたところから細い道をジグザグに登ります。すると、見えてきたのです。巨大な立石が。」

 皆さんを七尋の巨石に案内しました。小高い山に巨石がそこかしことあります。少し山道を登りますが公園として整備されていますので木内さんも無難に上りました。道の正面に立石が聳え立ち迎えてくれました。宮城県丸森の立石よりは少し小さいですが巨大です。先ず皆さん揃って集合写真です。






巨石は亀裂が入り、はく離した様な所もありますが一体化して鎮座しています。岩の裏には社が祀られています。これが愛宕様でしょうか。更に山を登ると頂上です。石碑が立っています。この頂上が佐藤大膳太夫の居住していた愛宕館の跡地です。暫し、木々、岩を眺め雑談です。





 下りが逆方向に下ります。田んぼ脇に水路が流れのどかな良い所です。良く手入れをしていて大事に守られている様です。





2020年1月30日木曜日

1932「南福島巨石巡り3」2020.1.30

 次の目的地は同じ二本松市にある三ツ石稲荷神社・三つ岩です。以下の様に紹介されています。

「三ツ石稲荷神社・三つ岩        二本松市上川崎字三ツ石55



 とりたてて不思議でも、巨大でもないのですが、なんか妙に気になる岩が、ある神社の入り口にあります。この岩は「三ツ石」と呼ばれます。そしてこのお社は「三ツ石稲荷神社」。
住所は、福島県二本松市上川崎字三ツ石ですから、神社名も土地名も、この三枚の岩が起源だということになります。
 ところが、そんな大事な岩にも関わらず、ネットで調べてもほとんど情報がありません。
「二本松市 三ツ石稲荷神社」で検索すると、出てくるのはこの「白狐面」だけです。
これは、幸運をもたらすとされている白狐面の大額で、二本松藩九代目藩主・丹羽長貴公が長子出生祈願御礼として奉納したものだそうです。この白狐は5尺余の大鍵をくわえていて、これは宝庫を開く鍵、人々に幸福をもたらす鍵とされています。たしかに観光資源としては、正体不明の岩より、幸福をもたらす鍵をくわえた白狐面の方が大切でしょうね。
 しかし、私にはこの三ツ石は、このお社の起源にも関わる重要なものではないかという気がしてなりません。白狐面はもちろん、稲荷信仰がこの地に入ってくる前から、この丘と三ツ石は古代信仰の対象ではなかったのか・・・・
さて、三ツ石の岩だけを見ると、はたしてこのお社の起源と関係がある重要な磐座かどうかは不明です。しかし、この周辺地域には、古代巨石信仰の名残ではないかと思えるものがいくつもあるのです。」

 三つ岩は道路脇にあり、神社の鳥居、参道の階段の左手にあります。左程大きくなく高さ150㎝、長さ350㎝程でしょうか。1つの四角い長石がきれいに3分割された様な状態です。どうみても自然の分割ではなく、人工的なものと思われます。今日午後訪れる予定の同じ二本松市の大萬好石も巨大な三つ石なのです。ここからそれ程離れていませんので、上記にあるように古代巨石信仰の一つとして三つ石の信仰がこの地にあったのかと思えます。
 三つ石で検索するとオリオン座の三つ石が出ます。そこでは「オリオンミステリー」(ロバート・ボーヴァル著)という本が紹介されています。オリオン座の三つ星にギザの三大ピラミッドが全く同じ配置がされているというものです。

「ギザの三つのピラミッドの航空写真を見てみると、クフ王のピラミッドとカフラー王のピラミッドはその対角線を伸ばした方向に並んでいるが、一番小さなピラミッド、メンカウラー王のピラミッドと呼ばれているものは、二つのピラミッドを結ぶ対角線上から少しずれている。
 極めて精巧に作られたピラミッド同士に何故、このようなずれが生じているのか?何故、メンカウラー王のピラミッドは先の二人の王のものに比べて小さく作られたのか?財政難説?それを証明するものは何一つない。ボーヴァルは、これらのピラミッドはある計画に沿って作られたもので、メンカウラー王のピラミッドはこのように作られなければならなかった。その計画とは、夜空を地上に写しとることであると。
 そこで、オリオン座の3つ星の写真とピラミッドの写真を重ね合わせてみると まさしく、ピッタリと重なる。更に、少し暗い星ミンタカがメンカウラー王のピラミッドに重なり、その大きさやズレがうまく説明できる。エジプト考古学界で、長年謎とされてきた部分がこのように解明されたのである。



 王の間と女王の間に、二本づつある細長い通気孔は、南の空のオリオンとシリウスがそれぞれ、南中した桙フ高度を示しているという事実も彼の説の裏付けとなっている。通気孔のそれぞれの角度、王の間の北面の通気孔は、建設当時の北極星であった龍座のアルファに、同じく南面の傾斜角45度の通気孔と女王の間の南面の傾斜角39度30分の通気孔は、当時のオリオン座のアルニタクとシリウスの南中時の高度に一致している。


 太陽信仰以前のエジプトの最も古い宗教は、オシリス信仰であった。オシリスは、復活と生産の神で、その妹であり妻であるイシスは子を守る女神として、その子ホルスは天空の神として崇拝を受けていた。特に、古代エジプトにおいて王は、ホルスそのものの分身として考えられていた。
 古代エジプト人達は、ナイル川が洪水になる夏の明け方に、東の空より上ってくるシリウスをイシスの分身、そしてオリオン座をオシリスの分身と考えていた。王の間の通気孔が、オシリスを表すオリオン座の3つ星を、女王の間の通気孔がイシスを表すシリウスを指しているのにはこのような意味あいがあるという。」
https://phenix2772.exblog.jp/9844060/

 木内さんも方位を測定しています。明らかに人工的なものですが、この地にもエジプト同様なオリオン座を意識したオシリス信仰があったのかは不明です。少し意味合いは違うような気がします。










2020年1月29日水曜日

1931「南福島巨石巡り2」2020.1.29

 二本松駅から最初の目的地は二本松城跡、旧二本松藩戒石銘碑巨石です。二本松城は広大な敷地です。二本松藩の状況と戒石銘碑巨石について紹介します。
 これは「二本松藩第7代藩主丹羽高寛が、家臣で儒学者の岩井田昨非の献策により、藩士の戒めとして旧二本松城の入り口にあたる場所(現福島県二本松市郭内3丁目)に設置した石碑。一夜のうちに自然石(花崗岩)の露出面に刻まれたという。1935年(昭和10年)12月24日、国の史跡に指定された。」とあります。

 「二の丸から山頂に至る斜面には大規模な庭園が造られていた。そこには傘状の赤松や多くの古木及び桜・藤・ツツジなどの花木が植えられ、安達太良山から二合田用水によって導水された水を利用する滝や池が配されている。そこには江戸時代からの茶室・洗心亭もあり、今では周囲一帯が霞ヶ城公園として整備されている。なお二合田用水は城内と城下の水不足を解消するため、約370年前に造られた。
 二本松城は室町時代に奥州探題だった畠山氏がここに城を築いたことが始まりとされる。その後、伊達氏、蒲生氏、上杉氏などの所領を経て、江戸時代(寛永20年[1643])に10万石で入部した丹羽氏により石垣や城下町を整備し、現在残る二本松城を築き上げた。
 丹羽氏は織田信長の重臣・丹羽長秀を中興の祖とする外様大名である。長秀は豊臣時代には123万石を領したが、長秀没後は紆余曲折を繰り返し一時は領地を没収された。長秀の孫に当たる光重が二本松入部した時にようやく10万石余までに回復し、その後225年間は転封もなく幕末維新期を迎えている。
 しかしその内実は、入部後比較的早い時期から財政難の連続だった。それは長秀時代に蓄えた財宝の消耗を狙う徳川幕府の政策によって次々と課せられた賦役と、ひんぱんに発生する凶作や火災などによる巨額な出費に起因する。殊に江戸中期以降、当藩財政は破たん状態に追い込まれ、藩内の人心はすさみ、藩としても崩壊寸前の様相を呈したという。
 再三実施された財政再建や改革の努力も、産業振興策が不十分だったのと保守反対派の抵抗によって殆ど成果が出なかった。
 二の丸入り口の巨石に彫られた国の史跡「旧二本松藩戒石銘碑」は、倫理的に崩れ行く士風をなんとか立て直そうとした試みの証拠といえよう。」

 城をぐるりと回り二の口の石碑に到着しました。巨石が鎮西しています。案内を読み、石碑を見ますが字が薄くて読めません。内容は以下の様です。
「幕末の戊辰戦争では旧幕府側(奥羽越列藩同盟)につき新政府軍による攻撃を受け、二本松城は落城した。江戸時代の建物はほぼ無くなったが、近年整備が続き箕輪門(櫓門)および天守台石垣が復元された。
 巨石の中央をよーく見ると、漢詩が掘り込んであるのが分かる。寛永己巳之年(つちのとみのとし、寛永二年)に彫られたようだ。
「爾俸爾禄
 民膏民脂
 下民易虐
 上天難欺
 寛延己巳之年春三月」
 ざっと読むと、
「俸禄は民の膏脂。民を虐げるのは易しいが天を欺くのは難しい。
 日々頂いている給料は元は領民が苦労して得た利益を元にしている。
 民を騙せても天はお見通し。気を引き締めて公務に取り組め。」
 と言うことだろう。不正公務員や号泣議員は100万回読むべし。」



 




二本松藩以外でも江戸時代は多くの藩は財政的に成り立ち行かずに数々の産業振興策、訓戒、綱領を掲げ取り組んだのでしょうが成果を上げる事が難しい時代だったのでしょう。そして265年に及ぶ江戸時代の優れた文化の素晴らしさは戊辰戦争を経て、明治の声と共に革命的大潮流が流し去りました。それは現在に通じるものがあります。
 木内さんは初めて戊辰戦争での二本松の有り様を知ったようです。令和の時代は同様な大転換期に思えます。古の先人の功徳を思い、単なる美談として感情的に受け止めるに留まらず、今己が為すべきことを行う。その覚悟が必要なようです。木内さんは半ばボーっとしていますがその様な処し方が良いのかもしれません。

2020年1月28日火曜日

1930「南福島巨石巡り1」2020.1.28

 12月7日から8日で今年最後の木内鶴彦さんとのツアーを開催しました。今回は福島県南の中通り地区の巨石等を巡りました。2019年は福島県の中通りを3回に分けて巡る最後です。今回も巡りは14名で宿泊のみの参加者1名の総勢15名でした。その様子を紹介します。

 仙台駅西口に集合して7時に出発しました。今回も福島から参加のOさんを8時20分位に二本松駅でピックアップしました。駅には二本松少年隊の銅像が設置されています。



既に木内ツアーも回を重ね打ち解けた仲間の巡りで和気藹々、楽しそうに記念撮影しています。会津藩の白虎隊ほど有名ではありませんが、戊辰戦争でこの二本松藩では悲惨な少年隊の物語があります。以下紹介します。

「落城に一瞬の華を添えた少年隊
 ちょうちん祭りと菊人形展で知られる二本松市。当地は江戸初期から明治維新まで、丹羽氏二本松藩10万700石の城下町だった。別名を霞ヶ城あるいは白旗城と呼ばれた二本松城跡は、中世と近世の城郭跡が同じ所に並存する梯郭式平山城として国の史跡になっている。
 維新期に朝廷側から発せられた会津追討令を受けて、藩内では尊王か佐幕かの藩論混乱は当然あったものの、もはや具体的行動を自ら起こす余力は財政的にもなかった。結局、佐幕派の奥州越列藩同盟に義理立てをして旧式武器を携えて白河口へ出陣し敗北した。
 その兵力撤収がうまく進まぬ内に、二本松城の防備が手薄なのを官軍側に察知され城下を急襲された。藩では兵力不足を補うべく急きょ13~17歳の少年や老人の志願を受け入れて城の防衛を試みたが、わずか数時間の戦闘で落城したという。
 広い馬蹄形城郭の防御は兵力不足状態では、かえって手薄になり脆かったのだろう。藩は就寝中の藩主夫妻を急ぎ起こして他国に脱出させたが、その翌日には早くも落城している。大壇口を守っていた少年隊は鉄炮で善戦したが壊滅した。近くの丹羽家菩提寺の大隣寺には16人の隊士が二本松少年隊の墓として葬られている。
 藩主夫妻は脱出後約一カ月の逃避行の後、投降して二本松に戻され隠居謹慎した。家督は養子に譲り、石高を半減されて決着した。しかし城も城下も焼け落ち、多数の藩士を失い、どうしようもない惨状のまま廃藩置県や廃城令を迎えた。」

「戊辰戦争への出陣は12歳や13歳では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算すると言う入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)という独自の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。
 八番組組頭・丹羽右近率いる大壇口守備隊の大砲方銃士隊として編成されていた木村銃太郎指揮下の25名が特に有名である。木村は、藩の西洋流(高島流)砲術師範であり、隊士は彼の父・木村寛治の開いた木村道場の塾生であった。26日朝ないし27日朝に編成を命じられ、27日夜に編成を完了した。大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷し新政府側の野戦病院として使用されていた称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。
 戊辰戦没者五十回忌では、少年のみで構成されていた木村隊の21名に別隊からの編入者4名を加えた25名を指すものとしていた。ただし、藩内各地に出陣した他の隊でも主に鼓手として少年兵が所属しており、1926年(昭和元年)に刊行された「二本松藩史」以降は彼らも包括して二本松少年隊と定義することとなった。現在では、1981年(昭和56年)までに明らかとなった高根三右衛門隊3名、丹羽右近隊2名、大谷与兵衛2名、大谷志摩隊2名、大谷鳴海隊2名、日野大内蔵隊2名、樽井弥五左衛門隊4名、朝河八太夫隊1名、その他所属部隊不明の22名を加えた合計62名を定義している。なお、当初木村隊のそれは幼年隊と呼称されていたようである。
 二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所がある。また二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っている」


 なんとも今思うと無益な戦いとしか思えない悲惨な結末です。藩の主体性のないままに時代に飲み込まれ翻弄され、幼年の貴重な命が失われたのです。二度と繰り返さない叡智が必要です。

2020年1月27日月曜日

1929「締め括り4」2020.1.27

 来年も色々な事があるだろうと思います。その中で何か探して歩くのが面白いし、そこには異空間があります。そしてそこでは不思議な事が起きて来るのです。
 私に最近、アラハバキの巨石が映像で見えて来るのです。石の割れ目があり、そこで声、歌が響き合う情景です。何かを訴えられている様です。そしてそこに何かを納めないとならない気がするのです。
 来年は東北で、そのアラハバキの巨石などに何か収める事が必要なようです。それは未来で見てきた事の様です。何かが聞こえて来るのです。そこでは凄く変な感じがします。岩手県か?そこの映像が見えて来ます。岩手の樺山遺跡にも呼ばれている様です。そこが場所で、時で現れて来るのです。それが最近多いです。以前、佐賀県の遺跡に行きましたが、そこは前方後円墳のある遺跡でした。

 皆さんは亡くなる事を気にする事はないです。それは確実に保証されています。その生きている今、現れて来る現象に意味があります。自分の意識がはっきりしているのですが、向こうの事なのか、こちらの事なのか、分からなくなって来ます。やがて段々、自分が何処に居るのか分からなくなってくるのです。
 その中で過去の事は分かりやすいです。その経験があるからです。未来は予測して来るのは難しいです。見たいものや、研究したいことはいっぱいあります。私がこれまで研究した事を置いて行きたいのですが、誰の肉体にするかと、考えてしまいます。
 昔、宇宙船地球号の古川さんに言われたのですが、「新しい肉体を早く作って残せば良いよ。」と。でも大変なことで出来ない。

 今年、2019年はスタートで上手く行かなかった。来年は明けた時どうかと思う。この状況の中で我々が乗り越えて行くつもりです。国の研究費でやる事になっているのですが銀行が中々動かないです。こちらの事業予算案を出しています。そこでは新しい実験場として民間企業体でやるつもりでいます。何とかして乗り切るので皆さんこれからも宜しくお願いします。師走は早いので心して進めて行きたい。
 今年は締め括り、来年にしっかりつなげてスタートしたいと思います。


 2019年の木内鶴彦さん講演会は終えました。今年は4回シリーズで「待った無し!始めよう循環型社会作りを」のテーマでお話し頂きました。いよいよ機は熟してきました。
 ご縁の皆さんがこの2020年に出逢い、木内さんの掲げる理想の村作り構想、地球環境を改善し、新しい産業構造を構築する手段を知る中で、各自が望む未来を思い描き、今出来る事、是からに備えて準備が必要な事を考え、行動に移して学びと実践をするステージに来ています。 
 この目的達成には1人の力では不可能です。各自の特異な分野、技術、ものを1品持ちより共同で実践体験して行ける場が必要です。その場作りとして仙台にNGO仙台テンメイを設立して13年が過ぎます。皆様の協力を頂き、確実に1歩1歩進んで来れた事は素晴らしい事と思います。
 木内さんが死亡体験で見て来た未来の世界は現実化してきていて、時代設営は出来上がりました。そして新技術の活用をしながら、後はそこでシナリオを書き演じるメンバーです。
 豊かな精神性、人間性を基調にこれからも木内さん共々、新機軸を構築して行けるように努力して生きたいものです。これから必要な実践哲学、理論、技術を生み出し、繋げて、伝えて行く苦労を楽しくやって行きましょう。引き続き、更なる皆様の参集、協力、支援をお願いします。
 
 懇親会に向かう途中、定禅寺通りではこの6日から始まった光のページェントが光輝いていました。丁度良いタイミングです。





2020年1月26日日曜日

1928「締め括り3」2020.1.26

 本来、自分がいる居場所が分かっていると道に迷う事が無いです。そこでは色んな事が出来ます。今回、思い知らされたのは、知人の急死でしだが、当人はあのような死に方は楽だったと思います。私も楽だったし、そこで旅をしました。
 亡くなり肉体が移っても又、生まれ変わります。そして今の考えを活かせます。その時には天才と言われるでしょう。肉体は違いますが、未来も予測が出来る能力を持って行けます。これからそういう時代を作って行きます。

 来年から始めますが、新年はどうなるでしょうか。自分たちで作らないと成りません。本当の国造りを日本がしないと駄目です。これから世界の環境が悪くなっても救うのは日本しかないのです。皆で力を合わせ、その苦労を楽しむしかありません。
 先日、アフガニスタンで中村哲先生が殺されましたが、価値が分からない人がいます。彼は土地の水利権の事で殺されました。
 これから1~3年が大事になりますが、我慢の時です。11年周期で身体も変化しています。太陽と地球の距離が少し変化します。これから射手座の方向のエネルギーが強いです。南斗七星が関係していて、人間もその影響を受けて落ち着かないのです。それでイライラして戦争をすることになります。これからは殺戮が多く、異常になり、やっかいな時代になります。そこで意識をどう介在させるかが大事です。祈り、想いの方向で無いと駄目です。

 これから琵琶湖あたりで起きる物理的要因があります。かつて大西洋に隕石が落ちました。その時の衝撃で丁度地球の真後ろで琵琶湖が出来て、そこから飛び出したのが淡路島で、それらが出来たのです。その裏付けとして、アトランティス文明の島が隕石で潰れました。その時の隕石の衝突の影響が今度、ゆっくりとしたマントル対流で伝わり、その影響が出て来るのです。
 琵琶湖の竹生島の辺りに温泉水が噴き出したら危ない兆候です。既にそれが出て来ているのです。地球に起きているそのエネルギーを消せるかが問題です。金属棒を使い放電させる事でエネルギーが消えるかもしれません。
 その方法で地震も消せるかもしれないと研究している人もいます。本来は行政がすべきことですが手を出さないのです。
 福島原発事故の冷却水を海に流しています。今の地球で色んな事が出て来ます。人間は馬鹿だから兵器を使い、おかしな事になります。何とかしないと、と思います。これらに対して、皆と力を合わせて乗り越えることです。

 太陽光発電ですが太陽光はパネルに90度に当たる光だけしか使えません。太陽光を凹面鏡で受ける事でどの角度でも発電させる事ができ、それをバッテリーに蓄電させることが出来ます。それで1リットルの牛乳パックの大きさで5年間使えるバッテリーが出来ます。これの技術が完成したら、家の中はコンセントレスが不要になります。全てが電池で起動できる様になります。
 その太陽光発電、バッテリー製造の事をしていきたいし、実用化出来るように研究していきたいと思っています。それをすることは楽しいことです。こういう未来を想像し、その村を作って行くことです。それをもう始める時期になっています。

 新しい力を使ってやって行きます。マダガスカルの仲間のリチャードが日本に来ました。彼らと日本語が通じる付き合いをしたいと思います。彼らには蒙古斑があります。マダガスカルの現地での1か月の給与は1万円ほどです。彼らとも協力してやっていきたいと思います。
 以前、ザルツブルグで皆既日食の観察をしました。ザルツブルグは塩の城の意味です。癒される感じの街です。そこで当日は雨降りで日食が見られるか危ぶまれた。みんなは今晴れていて景色の良い山の方にむかいました。しかし私が選んだ場所は街の川の近くでお城が見える場所でした。結果的に私達の場所は丁度、雨が上がり、そこでは城の後ろに丁度皆既日食が見られたのです。他の人たちが選んだ他の場所は晴れていたのに、その時間には雨で駄目だったのです。私にはここだけは川の影響で雲が晴れるだろうと予測できたのです。


2020年1月25日土曜日

1927「締め括り2」2020.1.25

 今、種米で国産の物があるのでしょうか?魚沼産コシヒカリはその種はカナダから輸入しています。昔から取っている種米を使うと凄いのですが、それは魚沼産コシヒカリで無いと言われます。それは魚沼で取れたコシヒカリと言われるのです。その種の権利はカナダが持っています。オーストラリアに宮崎牛の種牛がいます。このように日本中から純国産のものが無くなっています。代替えで交替しています。
 食べ物が無くなって果たして大丈夫か?米櫃の中を絶やさずにいることを昔は考えていました。今はどうするのか、考えられない。スーパーに買いに行くしかない。農作物が収穫後に盗まれる事も起きている。食べる物が無くなると多くは盗人することになります。
 食べ物が無くなったら、食べさせて上げるとドロボーしなくなります。サラリーマンは感謝の念が無くなり、だんだんに社会が駄目になってきます。

 いよいよ新しい未来の社会を作り、皆で一品持ち寄りをして助け合う事が大事になります。その様な村づくりをして行くことです。
 これを未来に出来るか。もしも出来ないと地球環境は崩壊し、潰れて行くことになります。生き残る人は一品持ち寄りでやる人達です。それは強制されるのでなく、自発的にしていくことです。見返りを求めずにする事。そして各自が提供して、廻り回って自分の所に戻って来る、そんな流れ、循環です。
 兎に角、それを何とかやらないと未来は大変な事になります。これからはその社会実験をする事が必要です。しかしその為にはお金が要ります。農作物も採れたものは循環させます。自分たちが食べるものを確保して、余ったものを他の人に売ること。そのビジネスで得たもので税金を払えます。それで節税になります。将来、それが必要な時代が来ると思います。

 ハウス栽培には液肥が必要です。液肥は自然界の物を発酵させて作ります。福島県会津の仲間の所では、その液肥作りが出来て上手く行っています。これからの問題は放射能だけでなくなります。黄砂も地下核実験で出たものが降って来ます。放射能を浴びても私位の年に成ると困らないですが、是から子供を作る人達は大変です。
 産業構造で色々な事が起きて来ますが、これから韓国など上げた手をどう下すつもりなのかと考えてしまいます。もっと豊かな生活に行くべきです。中国も危ないし、韓国は倒産寸前で、米国も同じです。今、世界にお金を貸している国は日本です。そしてそのお金は日本国民が貸したものです。
 日本では国債を発行していますが、国債を自分が買った覚えがありません。実はそれは天皇家の財産なのです。かつて偽ドルが出回りましたが、日本が各国にお金を貸しても返ってこないです。日本国政府にも日銀がお金を刷って貸しています。それは天皇家から借りているものなのです。

 スサノオ資金というものがあります。1500年前に契約しているものです。天皇家に2種あります。女帝が西院様で女王様です。天皇は東宮でその下になります。やがてスサノオの御魂を持った者が現れた時に天皇家は財をスサノオに返す約束だったのです。
 かつての日本はアラハバキ信仰で、自然信仰でした。人は神では無く、祭り事をする存在が人です。何も無いものが神様です。イワクラとして祀り、鏡になって、暦になっていました。昔の通信はモールス信号で石を削り鏡の様にして光通信として使っていました。それを活用したネットワークが成り立っていたのです。しかし今の天皇家が日本に来てから土地の取り合いに成りおかしくなったのです。

 これからどっちの道を進んだら良いのか。皆で選んで理想的な道を選んで進んで行くことが大事です。初期の段階は基本的な勉強は必要で、その後、社会に出て学ぶ。その道の先人、先生に学ぶことが必要です。私の家では大学に行く教育ではなかったです。男は中学を卒業したら稼いで来い、でした。だから私は中卒で色んな勉強をしました。
 星の事を、自衛隊に居る時に色んな先生に学びました。彗星発見や色んなかかわりの中で、今の宇宙ステーションの中には木内ルームがあります。宇宙から見た地球はどんなでしょうか。地球で偉そうな事を言っている人がいますが、宇宙から見ると馬鹿に見えます。


2020年1月24日金曜日

1926「締め括り1」2020.1.24

 2019年12月6日は木内鶴彦さんの今年最後の講演会でした。そのお話しを紹介します。

 「天皇陛下の入れ替わりの時には色々な事があります。天候異常、世情の大変化もあります。平成天皇の即位の時には阪神淡路大震災が起きました。その時、天皇陛下に力が無いと陰で言われていました。そして最終的に東日本大震災まで引きずりました。
 今回の令和はどうでしょうか。1番良いのは陛下がボーとしているのが良いのではないかと思います。半分笑い、半分寝ているのが良いです。それがまとめ役として一番良いと思います。秋篠宮殿下ははっきり言いすぎのきらいがあります。今の陛下の方がボーとしている感じがします。
 来年はどうなるでしょうか。私は来春に又、皇居のご奉仕の大掃除をする予定です。ご奉仕の掃除は気持ち的に良い事かと思います。天皇は神道っぽい事をしていますが、本当の神道ではありません。日本の神道は八百万の神で、全てに神が存在するというものです。それは自然界の摂理で生き、育てて行く、ということです。来年はそれを学んで行けたら良いと思います。

 今の陛下がどうか。今の流れに流されていたら、国民の生活の基盤がどんどん犯されていきます。かつて昔はお金が無く、都会に働きに行く事は珍しいことでした。しかし都会へ行くと身体を痛め、田舎に帰ってきて山菜など田舎の食べ物を食べて健康が回復する、と言う事が多々ありました。それは田舎の雑菌が治してくれているのです。
 今は消毒しないと食べないという風潮が出来ていて怖いことです。昔、味噌おにぎり、梅を刻んだおにぎりは美味しかったです。私のお袋はおにぎりを作ってくれました。お茶づけも美味しかった。都会へ出てから田舎に帰るとお袋の料理を食べられて嬉しかった。
 都会の食事は後味が悪い。昔は手作りの漬物が美味しかったが今はあまり食べられない。スーパーで売っているものしか食べていない。野沢菜も工場で作られたものは口に馴染まないし、昔は家々で手作りで作っていた。味噌樽に漬けて作るが、お茶受けに良かった。地域ごとに味が違う。九州の醤油は私の口に合わなかった。味噌も甘いし、納豆に砂糖を入れる所もある。その味加減が分からない。
 琵琶湖ではヘラブナが取れ鮨、鮒ずしを作るが、臭くてあまり口に合わなかったが、最近は美味しいと感じる年ごろになった。宮崎での漁師料理で魚をミンチしてご飯にかけて食べるが美味しい。兎に角、食べられる事が生き延びることです。

 先日、知り合いがぽっくり死んでしまいました。タレントの木内みどりさんです。いきなり心不全で急死でした。私の星のイベントに参加してくれていた人で、動脈瘤が破裂して即死だった。でも死に方は即死の方が苦しくないので良いかもしれない。
 死ぬと、あちらの世界を旅して歩ける。心肺停止になって、過去、未来と想像するとそこへ行ける。意識した所の時間に固着してそこに行ける。そしてあちらの世界を見て来て私はしぶとく帰ってきました。色々見て来ましたからその事を喋りたいと思っています。未来には選択があるのですが、どうするかが問題です。これからは皆で力を合わせてやって行かないとならない。

 今の社会構造を根本的に変えて行かないと救われません。会社に勤めサラリーを貰う生活はやがて破綻します。昔は食べ物を先ず作ります。そして働きに行くのはその後でした。長男が家督を継いで家に残り、末子は外へ働きに行く、というパターンです。
 農家では1年間でどれほど稼ぐのでしょうか。1年で200万円位なのかな。それに比較して都会で働いた人の給与は桁違いに得られます。今は、家督を継いだ長男は我慢して、都会の姿を眺めている世界です。しかしもう1度食べる事から考えることが必要になります。やがて米も無くなります、そんな状況が来るだろうと思います。

 

2020年1月23日木曜日

1925「シャーマンライブツアー20」2020,1.23

 夕暮れ間近かですが予定は後2か所です。払田柵跡に向かいます。神宮寺岳と同じ大仙市内で、15分位で着きます。ここは先の紹介文にあった様に、文献資料にその名がないために、「幻の柵」とも呼ばれている、「いまだ謎多き遺跡・払田柵」です。以下の様に紹介されています。

「払田柵跡(ほったさくあと)         大仙市払田字仲谷地95
 今から約1,200年前の平安時代の初め頃、国家がこの地の統一を進めるために造った、役所と軍事、儀式の役割を持ったといわれている遺跡です。しかし、古文書などには記述が見られず、歴史上の名称が未だ解明されていないなど、多くの謎を秘めた遺跡でもあります。
 周囲を約3.6kmの材木塀で囲まれ、復元された外柵南門は高さ9.7mと広大なスケールを誇る払田柵跡。夏と冬にはその敷地で祭りも行われます。
 総合案内所ではアニメを交えた映像で、払田柵跡について知ることができます。散策前にはぜひお立ち寄りください。予約でガイド付きの歴史散策もお楽しみいただけます。
【発見】
 1902年頃、耕地整理の際に秋田県仙北郡千屋村(現在は美郷町)の水田から200本余の柵木が発見されました。けれどもこの木は燃料にされたり、下駄に加工され売られたりしました。しかし、後藤宙外が遺跡の存在に注目し、遺跡内の文字の書かれた木片を採集して、敦煌出土の「木簡」に似ていると論考しています。
 1930年3月に文部省に嘱託された上田三平が発掘調査を開始し、払田柵跡の存在が明らかとなりました。
 1930年10月には本格的な調査が開始され、その結果、1931年(昭和6年)3月30日に秋田県としては初めて国の史跡に指定されました。払田柵の遺構はその規模において陸奥国府が置かれたとされる多賀城を遥かに凌ぐものです。
【様々な学説】
 775年に秋田城から遷された出羽国府、すなわち「河辺府」とする説。
さらに、801年に、坂上田村麻呂が造胆沢城使となり、出羽権守文室綿麻呂を遣わして、河辺府、すなわち払田柵の造営に着手し、804年に完成したとする説。
 横手盆地南端部の雄勝郡内に設けられた雄勝城がのちに移転された説。現在あらためて注目されており、年輪年代測定の結果とも矛盾しないそうです。
 なお、雄勝城(おかちじょう/おかちのき)とは、出羽国雄勝郡(現在の秋田県雄物川流域地方)にあった日本の古代城柵。藤原朝狩が天平宝字3年(759年)に築造したとされています。
 現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡のみです。」
詳しく沢山の写真で紹介しているこちらのサイトを参照ください。

 16時前に到着したのですが総合案内所は閉じています。お願いして向かいの秋田県埋蔵文化財センターでトイレをお借りしました。
 払田柵は外から見学しましたが、丁度日暮れの時で夕陽の織りなす光のグラデーションと靄の出現でこれまた幻想的な世界を見せて頂きました。








 最後に予定していた横手市の保呂羽山・波宇志別神社神楽殿はキャンセルして仙台へ向けて帰路に付きました。
 大曲駅で盛岡から参加のSさんとお別れです。


 その後、大曲ICから高速道路に乗ったのですが、その間に、またまた神宮寺岳のある姫神山系に沈む夕陽の変幻の世界を見せて頂きました。




 最後は大曲ICに向かう辺りでは全く靄に覆いつくされ視界が消えてしましました。



 自然の妙、不可思議な映像世界で、最後に素晴らしいおもてなし、お別れを頂きました。高速に乗ってからは又、綺麗な夕陽です。



 そして無事に仙台駅に19時半頃に到着し解散と成りました。濃厚な2日間の神人、陸奥・縄文・シャーマンライブツアーは実り多い恵みを頂き、終える事が出来ました。神人さん始め、参加いただいた皆様ありがとうございます。

 次回、神人さんの仙台でのイベントは3月6日から8日までで、神人ライブ、7時間講演会、アオモリケンジンライブです。是非とも参加下さい。詳しくは以下をご覧ください。