四季循環もそうです。この年は春に向う予兆が現われはじめるとはいってもまだ冬なのです。「冬」の語源は「ふゆ(増ゆ)」なのだそうです。表面には現われていませんが、植物は冬の間に生命エネルギーを黙々とたくわえ増やしているのです。そして、春の季節が到来するやいなや、一気にその蓄えたエネルギーを開放して、芽吹き、花を開かせ、若葉を茂らせるのです。
今年はまだいのちのエネルギーを蓄える準備の年なのだということを忘れないようにしましょう。しかし、眉間にしわをよせて頑張るというのではなく、そんな尊い修行、やがて必ずやって来る春の季節のために着々と準備出来る立場にある自分や同志の人たちのしあわせを喜び、感謝するのです。
三爻の喜びは「盱豫 くよ 」です。「盱」は、「上目使いにながめること」だそうです。上に権力者の四爻がいるので、そっちの方ばかり気にして媚び諂い、権力者の意向を忖度して行動します。そしてうまく立ち回って自身が昇進出来ること、おこぼれがたくさんもらえることが、この人の「喜び」なのです。どこかの国の官僚でそんな人がいましたね。
また、そのように上の人にヘイコラする人はきっと部下には厳しく支配的にふるまうものです。易の神様は「君の醜い卑しい生き様にはやく気づきなさい。反省が遅くなるほど大変なことになるよ」と警告しておられます。
四爻の喜びは「由豫 ゆ うよ 」です。「由」は「頼り従う」という意味です。部下達はあなたを信頼して、あなたの指示に従って生き生き喜んで働いてくれます。そして業績もグングン上がります。そのように部下達が喜んで働いてくれている姿、業績が上がっている状態を見てあなたは「喜ぶ」のです。これが「由豫」です。
モノゴトがうまく運ぶのは素晴らしいことですが、そんな時ほど図に乗らないよう充分気をつけねばなりません。あなたはこの団体のトップではなくあくまで補佐役なのです。それなのに自分の成果を誇ってトップの座にある人をないがしろにしだしたり、独断専行し出したりしたらもういけません。
トップとも充分コミュニケーションをとって、提案するのはいいですが、方針を決定するのはトップであるということをしっかりわきまえて行動することです。調子のいい時ほど周囲に充分気配りし、謙虚な気持を忘れないことが必要です。
五爻には「病」があると示されています。トップの座にあり、事業も発展しているのに何を病むのでしょうか。それは、四爻の補佐役があまりに優秀で部下たちの信頼も厚いからです。自分と比べて嫉妬したり、組織を乗っ取られるのではないかと恐れたりします。
トップである自分が采配を振るって組織を思うままに経営して、世間の脚光賞賛をあびることが出来たらどんなにか面白いことでしょう。しかし、それは「エゴの喜び」です。組織のトップとしての役割は何でしょうか。その組織を繁栄させ、発展させることですね。
今、組織が成長してゆきつつあるなら、あなたがでしゃばることはないのです。補佐役や部下たちの働きに心から感謝して、部下達が成果を上げてくれていることを「喜び」としましょう。
そして、組織全体に目配りだけはしっかり忘れないで、少しでも疑問点や違和感が生じたら、すぐ対処する用意だけはしておきましょう。さらに、トップの座にあるものとして、何か組織に問題が生じたら、すべての責任は自分がとるという覚悟だけはしっかり腹に据えておきましょう。
2020年2月29日土曜日
2020年2月28日金曜日
1961「年運命運4」2020.2.28
易経では「喜び」を六つの場合に分けて説明しています。
まず、一番下の陰の爻(初爻)の場合です。この場合の「喜び」は「鳴豫 めいよ 」と名づけられています。「実力がないくせに傍若無人にはしゃぎまわる空騒ぎ」のことです。
下卦の一番下の爻は、上卦の一番下の爻(四爻)と「応」の関係にあるとされています。つまり、実力者の四爻の人物と自分は強い繋がりがある、血縁があるんだとうぬぼれて、そんなバックを誇ってまわりの人に威張り散らしたり、優越感を顕わに示すふるまいをするのです。
でも、本当はこの人には見るべき能力もないし、それを自覚して努力して自分を高めてゆこうという向上心もまったくありません。そんな中味がカラッポのくせに人を見下してバカにする、自分勝手に人を振り回すことだけを「喜び」にしていたら、君のこれからは「凶」そのものだよと、易の神様は厳しくお説教されています。どこかの国のナッツ姫がそうでしたね。
次は二爻ですが、これは特に私たちの仲間、同志へのアドバイスだそうです。易経の本文にはこうあります。
「介 かた きこと石の于 ごと し。日を終えず。貞 (中正)にして吉なり」
蒋介石さんの「介石」という名は、易経のこの箇所を採られたのだそうです。
石のように強い意志をもって、やがてやって来る「喜びの時節」に向けて実力を蓄える。そんな努力、修行が出来る今をこそ「喜び」としなさいとおっしゃいます。つまり現象に現われた喜びをフワフワ追いかけないで、必ずやって来る「本当の喜びの時」のために、いのちの実力を地道に堅実に黙々と蓄える準備の年としなさいとアドバイスして下さっているのです。
「日を終えず」というのは、そうはいっても人のやることですから、いっぱい過ちも犯すし、逸楽にふけるという場合もあるだろうけれど、そんな時は、その日のうちに反省して神様にお詫びしてサッパリし、次の日からはまたまっさらな気持で再出発しなさいとアドバイスして下さっています。
そして、その「強い意志」の方向は、天地に順じて定め、行動しなさいと教えて下さっています。神の意志(天の理)は人類を「分裂の時代」から「ユニティ(融合・一体化)の時代」に向わせようとしておられます。その向きに神流が流れています。そんな神のご意志の潮流に順じて身を任せて運ばれてゆくようにしなさい。そうすればホンモノの「喜び(神流楽 かんながら )」が体験出来るよと教えて下さっています。
また、「地の理」というものがあります。これは気の循環です。昼と夜の日周の循環があり、また四季の循環などもあります。そんな循環に逆らわないように行動すれば、苦労を少なくして、楽に成果を上げることができます。
たとえば、日没をむかえる時期に新たな事業をスタートさせてもうまくゆくはずがありません。日の出のタイミングで新事業を始めたらその事業は発展してゆけるでしょう。しかし、夜の間に必要なものをしっかり準備しておかなければ、日の出のタイミングで一気にスタートダッシュをかけるということは出来ませんね。
2020年2月27日木曜日
1960「年運命運3」2020.2.27
立花大敬さんは私が主催している仙台天命塾の名付け親です。かれこれ25年程、大敬さんの「しあわせ通信」や著書を愛読し、座禅会、講演会にも参加し、仙台でも講演会などを開催してきています。
大敬さんは年頭にあたり毎年、1年の年運、運気、対処法をお伝えくださっています。
令和2年、2020年のものを紹介します。
「2020年 喜びに備える年」
新しい年を迎えるにあたって、今年はどういう年になるのか、どういうことに気をつけて身を処してゆけばいいのかを、易の神様にアドバイスしていただきました。
昨年は『訟』の卦けが出て、「訴えと争いの一年になるよ」と示して下さいましたが、確かに昨年はそんな年でしたね。
今年は『雷地 らいち 豫 よ』という卦が出ました(図)。
「豫」には「あらかじめ(前もって)、よろこぶ、 おこたる」などの意味があります。ここでは令和2年は「予兆の年」つまり、「喜びの兆しがあらわれはじめる年」と観ればいいと思います。
下卦が大地で上卦は雷です。大地の上に雷が轟きます。これは春雷で、「冬はもう終わりだよ、もうすぐ春だよ」と告げる喜ばしい予兆です。まだ大地には雪が積もり冷たいままなのですが、それでももうすぐ春が来るぞと期待できるような出来事が少しずつ起こってきます。そうして、人の心も何だかワクワクして落ち着かなくなります。
そこで、この年のテーマは「喜びの質に気をつけよう、喜びのレベルを高める努力をしよう」ということになりそうです。
『豫』の卦の姿( 象 しょう )をもう一度ご覧下さい。
下から上に六本の棒状のもの(爻 こう といいます)が並んでいますね。漢字の一の形の爻が「陽」で、まん中に隙間がある棒が「陰」です。そうすると、この卦の場合は、下から四番目の爻(四爻)だけが陽で、あとの五つの爻がすべて陰ですね。
陰と陽は引き合いますから、四爻の陽にすべての陰が引き寄せられ団結します。ところが、四爻は主人(トップ)の座ではありません。主人の座は五爻なのです。ですから、この四爻の人物は補佐役(幹部)で、そのような、能力だけでなく人望もある優れた人物が加わってきます。そうして、組織に活気が出てきて、構成員が生き生きして仕事を楽しむようになり、一丸となって課題に取り組み、成果が上がるようになります。
まず、そういう素晴らしい出会い、ご縁が現われるかもしれないぞ。そんな喜びの訪れがきっとあるに違いないぞと信じて先を楽しみにしていましょう。心に描かれたイメージや思いが形の世界に現われるのですから、『そんなことはあるはずがない』などと頑なに否定していれば、そのネガティブな思いのほうが勝って、そちらが実現してしまいます。それほど人の思いは強力なのです。そういう自由意志を神様は許していらっしゃいます。そんな失敗成功の試行錯誤を通して人は成長してゆけるからです。
大敬さんは年頭にあたり毎年、1年の年運、運気、対処法をお伝えくださっています。
令和2年、2020年のものを紹介します。
「2020年 喜びに備える年」
新しい年を迎えるにあたって、今年はどういう年になるのか、どういうことに気をつけて身を処してゆけばいいのかを、易の神様にアドバイスしていただきました。
昨年は『訟』の卦けが出て、「訴えと争いの一年になるよ」と示して下さいましたが、確かに昨年はそんな年でしたね。
今年は『雷地 らいち 豫 よ』という卦が出ました(図)。
「豫」には「あらかじめ(前もって)、よろこぶ、 おこたる」などの意味があります。ここでは令和2年は「予兆の年」つまり、「喜びの兆しがあらわれはじめる年」と観ればいいと思います。
下卦が大地で上卦は雷です。大地の上に雷が轟きます。これは春雷で、「冬はもう終わりだよ、もうすぐ春だよ」と告げる喜ばしい予兆です。まだ大地には雪が積もり冷たいままなのですが、それでももうすぐ春が来るぞと期待できるような出来事が少しずつ起こってきます。そうして、人の心も何だかワクワクして落ち着かなくなります。
そこで、この年のテーマは「喜びの質に気をつけよう、喜びのレベルを高める努力をしよう」ということになりそうです。
『豫』の卦の姿( 象 しょう )をもう一度ご覧下さい。
下から上に六本の棒状のもの(爻 こう といいます)が並んでいますね。漢字の一の形の爻が「陽」で、まん中に隙間がある棒が「陰」です。そうすると、この卦の場合は、下から四番目の爻(四爻)だけが陽で、あとの五つの爻がすべて陰ですね。
陰と陽は引き合いますから、四爻の陽にすべての陰が引き寄せられ団結します。ところが、四爻は主人(トップ)の座ではありません。主人の座は五爻なのです。ですから、この四爻の人物は補佐役(幹部)で、そのような、能力だけでなく人望もある優れた人物が加わってきます。そうして、組織に活気が出てきて、構成員が生き生きして仕事を楽しむようになり、一丸となって課題に取り組み、成果が上がるようになります。
まず、そういう素晴らしい出会い、ご縁が現われるかもしれないぞ。そんな喜びの訪れがきっとあるに違いないぞと信じて先を楽しみにしていましょう。心に描かれたイメージや思いが形の世界に現われるのですから、『そんなことはあるはずがない』などと頑なに否定していれば、そのネガティブな思いのほうが勝って、そちらが実現してしまいます。それほど人の思いは強力なのです。そういう自由意志を神様は許していらっしゃいます。そんな失敗成功の試行錯誤を通して人は成長してゆけるからです。
2020年2月26日水曜日
1959「年運命運2」2020.2.26
② 2020年を西洋占星術でみると
東洋だけではなく、西洋の星廻りもチェックしてみました。大きな流れをみてみると、
2020年12月22日に水瓶座の位置で木星と土星が重なります。これをグレートコンジャンクションと呼び、20年に一度くらいの割合で起こるのだそうです。ここでみるべきポイントは、このグレートコンジャンクションが水瓶座で起きること。水瓶座は風の星座に属しており、古い世界を改革する象徴です。常識や慣習を嫌い、自分の個性をのびのびと発揮できる自由な世界を好みます。2020年の終わりくらいから、そんな『自由な風のようなムード』となるかもしれません。
占星術では12の星座を、性質によって四つに分けています。「火、土、風、水」これをエレメントといいます。
火は、牡羊座、獅子座、射手座 土は、牡牛座、乙女座、山羊座
風は、双子座、天秤座、水瓶座 水は、蟹座、蠍座、魚座
このように分かれます。
前回の2000年のグレートコンジャンクションは牡牛座である、土のエレメントで起こりました。土のエレメントは真面目でコツコツ、現実的なものに価値をおきます。そして、牡牛座は所有に固執します。
一方、水瓶座は理想を追求することに喜びを見出し、モノから解放されています。
風のエレメントは情報、コミュニケーション、ネットワーク、文化の象徴でもあります。
風のエレメントに変わり始めるのが、2020年の末頃からと言えそう。
世の中の価値観も、モノから変化が起こりそうです。世の中のムードを象徴するエレメントが土から風へ変わり、2020年から、200年ほど続きます。
断捨離が流行ったり、ものより体験を重視する価値観は、風のエレメントに合致してるといって良さそうです。権威的なもの、ものに価値を置くのは時代遅れとなっていきそう。
生き方としては組織より個人、上下の関係より横のつながりが時代に沿った生き方になりそうです。
③ 2020年を九星気学でみると
次に九星気学をみていきます。2020年は、七赤金星中宮年です。七赤金星が象徴するものは、『金』!金運の星として知られていて、『経済』を象徴します。金の字のごとく、満たされていることが大切な年になります。
そんなことを言っても、先立つ『お金』がないよーと、私も思ったのですが、重要なポイントがひとつ。お金がないよー。〇〇がないよー。と不満を感じると、それが『欠け』となり、運勢に悪影響を与えるのだとか。それよりも、〇〇があって良かったー。今日食べた、〇〇が美味しかったー。何でも良いので、満ち足りた気持ちを感じることが、実際にお金があるか?ないか?より大切だそうですよ。
『満ち足りた気持ち』を味わうのが開運の秘訣です。しかし、七赤金星が中宮にあるときは、経済は表面的には順調のように見えて、波乱含み、八方塞がりという暗示もあるので、お金の管理や株の取引などには気を引き締めるべきです。
七赤金星は、天候では暴風雨を示していますので、台風や突風などにも気をつけた方が良さそう。そして、女性の場合は、外面を整えるのにエネルギーを注ぐといいそうです。おしゃれするのが開運の秘訣だそうです。
④ 2020年はどんな年になるの
2020年はどんな年になるの?いろいろ、みてみましたが、最後にまとめてみました。
・過去に行ってきたことから、実りを得ることができる年
・新しい価値観へ移行する年
・モノから解放され始める時期
・組織や団体よりも、個人の活躍がさらに注目される年
・縦割り社会より、地域やコミュニティの横のつながりが大切になる
・コミュニケーションやネットワークが重要視される
古いものや伝統的なものから脱却して、新しいものへと変化が感じられる年です。頑固な考えを解き放して、今までにない新しいことを始めると良さそう。
開運のコツとしては、外面(洋服、髪型など)にいつもより、気をつけると運が味方してくれるはず。そして、暴風にはいつもより、気をつけた方が良さそう。お金の管理もおろそかにしないで!さてさて、2020年はどうなるのでしょうか?
2020年2月25日火曜日
1958「年運命運1」2020.2.25
令和2年2月22日22時22分22秒は見事に2が10個並びます。2度とない事です。既に2月4日の立春が過ぎて節が変わり、令和2年が始まりました。
世の中は昨年末から武漢で発生したコロナウイルスも正式名がCOVID-19(コビット19)と決まり、ダイヤモンド・プリンセス号の感染拡大、その後日本各地で拡散の騒ぎで持ち切りです。それ以外にも色々ありますが果たして今年はどんな年になるのでしょうか。少し調べてみました。
ゲッターズ飯田「2020年は価値観の大転換が起こる年」では以下の様に記しています。
「2020年は子(ね)年。干支(えと)のスタートの一年になります。実は20年は、価値観ががらりと変わる大転換の年で、今までいいとされてきたものや通用してきたものが、そうではなくなります。
具体的には、土地やお金などよりも、目に見えないものや、はかなく消えていくものに価値が見いだされるようになります。大手企業なら安心という昔ながらの価値観はさらに揺らぎ、倒産する会社もありそうです。大手新聞社も例外ではありません(笑)。
また、お金よりも友情や愛情が重んじられ、人とのつながりがより強まります。LGBTQの人たちに代表されるような、マイノリティーの人たちが社会で認められやすくなるでしょう。
そして、庶民的なものの方が好まれるようになります。人とのつながりを大切にする動きも相まって、例えば高級レストランに行くよりも、ホームパーティーやバーベキューなどをみんなで楽しむことの方が主流になりそうです。
はかないものへの価値も高まりますから、ライブや演劇などに行くといいでしょう。そうしたものに接すれば、運気がアップします。
以前は“世間の常識”から少しでも外れていると生きづらいところがありました。多様性が認められるようになれば、誰にとっても過ごしやすくなるわけですから、喜ばしいことです。また、庶民的なものの価値が高まるのも、金銭的にはありがたいこと。いろんなアイデアで暮らしを楽しみ、大切な人と一緒に過ごすことで、いい一年になるでしょう。
「運命の人」と聞くと、恋愛相手を連想するかもしれませんが、そうとは限りません。今まで親友、恩師、仕事上のパートナー、嫌いだけど反面教師になった人などさまざまな人とのつながりがあったはずです。自分の人生に影響を与えた人はみな「運命の人」ではないでしょうか?(以下省略)」
https://dot.asahi.com/wa/2019122600034.html?page=2
具体的に十干十二支等の分析を紹介します。
「2020年はどんな年になる?運を味方につける方法は?」
① 2020年を干支や五行でみると
2020年は子(ねずみ)年です。まずは、馴染みのある干支からどんな年になるのかチェックすることにします。通常、干支(えと)というと、12種類の動物を思い出すかと思います。しかし、干支は正しくは60種類あります。干支は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞なのです。日本では動物で表す、十二支を干支(えと)と呼んでいますよね。でも、本来は十干(じっかん)も合わせたのが本来の姿。
十干というと、聞いたことがない方もいるかもしれません。こちらは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸と10個あります。火や水などの、自然の要素を表しており、五行の占いで使われています。例えば、丙午(ひのえうま)の女房はもらうな!なんて言われていますが、午(うま)年で、かつ、丙(ひのえ)の2つが合わさった年を表すのですね。2020年の干支は「庚子(かのえ・ね)」に当たります。
まずは、十干(じっかん)の庚(かのえ)からみていくと、庚は人生の季節でいうと、秋にあたります。何らかの収穫を得ることができる年となります。五行でいうと『金』、陰陽だと『陽』、方角としては『西』を表します。イメージとして、なんとなくつかめましたでしょうか?
そして、2020年は子(ねずみ)年です。十二支を数えるときに、ね、うし、と数え始めるように、子年はトップを切ります。スタートアップを象徴して、何かを始める年回りとなります。子年は、時間でいうと、23時~1時頃、方角は北、季節は旧暦の11月、五行は水、陽を象徴しています。
この2つからイメージを膨らませてみると、2020年は過去に頑張ってきたものの成果がみられる年。しかし、過去の収穫だけに頼らずに、何かしら新しい種をまかないといけない。
そんな感じです。過去の栄光や遺産に頼るだけはダメなのです。何かしら新しいことを始めるべき年みたいです。
世の中は昨年末から武漢で発生したコロナウイルスも正式名がCOVID-19(コビット19)と決まり、ダイヤモンド・プリンセス号の感染拡大、その後日本各地で拡散の騒ぎで持ち切りです。それ以外にも色々ありますが果たして今年はどんな年になるのでしょうか。少し調べてみました。
ゲッターズ飯田「2020年は価値観の大転換が起こる年」では以下の様に記しています。
「2020年は子(ね)年。干支(えと)のスタートの一年になります。実は20年は、価値観ががらりと変わる大転換の年で、今までいいとされてきたものや通用してきたものが、そうではなくなります。
具体的には、土地やお金などよりも、目に見えないものや、はかなく消えていくものに価値が見いだされるようになります。大手企業なら安心という昔ながらの価値観はさらに揺らぎ、倒産する会社もありそうです。大手新聞社も例外ではありません(笑)。
また、お金よりも友情や愛情が重んじられ、人とのつながりがより強まります。LGBTQの人たちに代表されるような、マイノリティーの人たちが社会で認められやすくなるでしょう。
そして、庶民的なものの方が好まれるようになります。人とのつながりを大切にする動きも相まって、例えば高級レストランに行くよりも、ホームパーティーやバーベキューなどをみんなで楽しむことの方が主流になりそうです。
はかないものへの価値も高まりますから、ライブや演劇などに行くといいでしょう。そうしたものに接すれば、運気がアップします。
以前は“世間の常識”から少しでも外れていると生きづらいところがありました。多様性が認められるようになれば、誰にとっても過ごしやすくなるわけですから、喜ばしいことです。また、庶民的なものの価値が高まるのも、金銭的にはありがたいこと。いろんなアイデアで暮らしを楽しみ、大切な人と一緒に過ごすことで、いい一年になるでしょう。
「運命の人」と聞くと、恋愛相手を連想するかもしれませんが、そうとは限りません。今まで親友、恩師、仕事上のパートナー、嫌いだけど反面教師になった人などさまざまな人とのつながりがあったはずです。自分の人生に影響を与えた人はみな「運命の人」ではないでしょうか?(以下省略)」
https://dot.asahi.com/wa/2019122600034.html?page=2
具体的に十干十二支等の分析を紹介します。
「2020年はどんな年になる?運を味方につける方法は?」
① 2020年を干支や五行でみると
2020年は子(ねずみ)年です。まずは、馴染みのある干支からどんな年になるのかチェックすることにします。通常、干支(えと)というと、12種類の動物を思い出すかと思います。しかし、干支は正しくは60種類あります。干支は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞なのです。日本では動物で表す、十二支を干支(えと)と呼んでいますよね。でも、本来は十干(じっかん)も合わせたのが本来の姿。
十干というと、聞いたことがない方もいるかもしれません。こちらは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸と10個あります。火や水などの、自然の要素を表しており、五行の占いで使われています。例えば、丙午(ひのえうま)の女房はもらうな!なんて言われていますが、午(うま)年で、かつ、丙(ひのえ)の2つが合わさった年を表すのですね。2020年の干支は「庚子(かのえ・ね)」に当たります。
まずは、十干(じっかん)の庚(かのえ)からみていくと、庚は人生の季節でいうと、秋にあたります。何らかの収穫を得ることができる年となります。五行でいうと『金』、陰陽だと『陽』、方角としては『西』を表します。イメージとして、なんとなくつかめましたでしょうか?
そして、2020年は子(ねずみ)年です。十二支を数えるときに、ね、うし、と数え始めるように、子年はトップを切ります。スタートアップを象徴して、何かを始める年回りとなります。子年は、時間でいうと、23時~1時頃、方角は北、季節は旧暦の11月、五行は水、陽を象徴しています。
この2つからイメージを膨らませてみると、2020年は過去に頑張ってきたものの成果がみられる年。しかし、過去の収穫だけに頼らずに、何かしら新しい種をまかないといけない。
そんな感じです。過去の栄光や遺産に頼るだけはダメなのです。何かしら新しいことを始めるべき年みたいです。
2020年2月24日月曜日
1957「南福島巨石巡り28」2020.2.24
今回の巡りを終えました。白河駅で半数以上の方が下車しますので実質、ここが解散予定です。駅近くのファミリーレストランのデニーズで軽食を頂きながら反省会です。皆さんの感想を紹介します。
・K、Mさん
「今回のツアーには急遽キャンセルがあって参加出来ました。直前の風邪で辞めようかとも思ったのですが、車に乗っているうちに元気になり、今は美味しくビールを飲んでいます。今回はO君やSさん達の体を癒す力を体験出来ました。初めての所を楽しく巡り、最後まで元気に過ごす事が出来て感謝です。次回も宜しくお願いします。」
・S、Hさん
「今年の木内さんツアーは全てに参加出来て皆勤でした。いつもながら大久保さんの企画、運営に感謝です。そして運転手の方、ご苦労様です。私は参加直前に家を引っ越しをしたばかりでした。宿や食事会場も素晴らしく全てに感謝です。また宜しくお願いします。」
・F、Mさん
「今回もお世話様でした。今年4度目のツアー参加で、やっと皆さんの仲間入りが出来て緊張しなくなり、楽な気持ちで参加できました。神社と巨石、巡る所が全てがぴったりでした。冬の季節でしたが、田舎の風景がみられて良かったです。訪れた一之宮の石都々古和気神社での1万年前の巨石祭祀は凄いと思いました。」
・S、Aさん
「ありがとうございました。今回は龍の風を体感できました。特に石川城跡での気の巡りを良く体感出来ました。今日の最後の岩も凄かったです。今回も楽しく巡れて皆さんに感謝です。」
・O、Hさん
「皆さんご苦労様でした。木内さんもいよいよスタートで6年後から更に忙しくなる様で楽しみです。今日の午後に訪れた破石の巨大さは凄かった。これから進んで行くにしても過去の事を知りながらやって行きたい。」
・O、Hさん
「今年の木内さんの福島シリーズに3回目の参加が出来ました。福島に住んでいるが、地元の昔の事を知らず過ごしていた事、多くの事に気付いていなかったと感じた。巡る中で色々と新鮮な感じを受けて良かったです。ありがとうございます。」
・O、Yさん
「お世話様でした。今日最後の鹿島神宮の磐座が良かったです。石都々古和気神社で一之宮の御朱印を貰えたのも良かったです。御世話様でした。」
・K、Yさん
「12月の今年最後のツアーを楽しく、贅沢に参加出来て感謝です。福島シリーズにまだまだ知らない面白い所がある事を知り凄いと思いました。毎回ですがこの様な企画をして下さり、運転して案内してくれる事に感謝です。後で頂いた資料を読んで理解を深めたいと思います。」
・M、Aさん
「今回もありがとうございます。離れて住んでいるので皆さんに会えるのが嬉しいです。ここに来れる事で心身が休まります。参加して帰ると元気を貰えます。また楽しみに参加したです。次回も宜しくお願いします。」
・K、Hさん
「大久保先生の企画で普通行けない所に行けて楽しめました。台風19号の爪痕も残っているのが見れたが、狩野川台風で静岡が被害あった事を思い出しました。次回の木内さんの伊豆・富士山ツアーは参加出来ないので皆さん楽しんで来てください。」
・T、Oさん
「毎回とんでもない所を大久保先生が見つけて来るな!と言うのが感想です。どういう事が出るか、それらに共鳴し、何が起きるか楽しみにしながら運転をしていますが、面白いです。車中、色々な話を聞けて驚き、それに符号する事が出たり、納得する事が多々ありました。最後の鹿島神宮で夕陽が出て、岩の上まで行ったがとても良かった。今後もお役立ち出来る事をやって行き、更にしっかり出来るように頑張ります。」
・T、Sさん
「お疲れ様でした。車の中は生体エネルギーの新兵器で癒しながら参加出来ました。息子の運転をみて、このように一緒に旅が出来て、皆さんの役に立ち、良く出来て来ていて安心です。」
・木内鶴彦さん
今年1年有意義に過ごせました。今回も山に登り、磐座を見せてもらいながら良い旅が出来ました。知らない所を知れる楽しみがあります。勉強して、むこうで見てきた世界がフイットする事は楽しい。またこの様な巡りをして行きたいと思います。今回もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。」
いつもながら打ち解けた、楽しい仲間との巡りは目出度し目出度しで、皆さんに喜び、満足して頂けて嬉しいです。来年は更に東北各地のここはと言う所を木内スペシャルゲストと巡りたいと思います。乞うご期待です。
・K、Mさん
「今回のツアーには急遽キャンセルがあって参加出来ました。直前の風邪で辞めようかとも思ったのですが、車に乗っているうちに元気になり、今は美味しくビールを飲んでいます。今回はO君やSさん達の体を癒す力を体験出来ました。初めての所を楽しく巡り、最後まで元気に過ごす事が出来て感謝です。次回も宜しくお願いします。」
・S、Hさん
「今年の木内さんツアーは全てに参加出来て皆勤でした。いつもながら大久保さんの企画、運営に感謝です。そして運転手の方、ご苦労様です。私は参加直前に家を引っ越しをしたばかりでした。宿や食事会場も素晴らしく全てに感謝です。また宜しくお願いします。」
・F、Mさん
「今回もお世話様でした。今年4度目のツアー参加で、やっと皆さんの仲間入りが出来て緊張しなくなり、楽な気持ちで参加できました。神社と巨石、巡る所が全てがぴったりでした。冬の季節でしたが、田舎の風景がみられて良かったです。訪れた一之宮の石都々古和気神社での1万年前の巨石祭祀は凄いと思いました。」
・S、Aさん
「ありがとうございました。今回は龍の風を体感できました。特に石川城跡での気の巡りを良く体感出来ました。今日の最後の岩も凄かったです。今回も楽しく巡れて皆さんに感謝です。」
・O、Hさん
「皆さんご苦労様でした。木内さんもいよいよスタートで6年後から更に忙しくなる様で楽しみです。今日の午後に訪れた破石の巨大さは凄かった。これから進んで行くにしても過去の事を知りながらやって行きたい。」
・O、Hさん
「今年の木内さんの福島シリーズに3回目の参加が出来ました。福島に住んでいるが、地元の昔の事を知らず過ごしていた事、多くの事に気付いていなかったと感じた。巡る中で色々と新鮮な感じを受けて良かったです。ありがとうございます。」
・O、Yさん
「お世話様でした。今日最後の鹿島神宮の磐座が良かったです。石都々古和気神社で一之宮の御朱印を貰えたのも良かったです。御世話様でした。」
・K、Yさん
「12月の今年最後のツアーを楽しく、贅沢に参加出来て感謝です。福島シリーズにまだまだ知らない面白い所がある事を知り凄いと思いました。毎回ですがこの様な企画をして下さり、運転して案内してくれる事に感謝です。後で頂いた資料を読んで理解を深めたいと思います。」
・M、Aさん
「今回もありがとうございます。離れて住んでいるので皆さんに会えるのが嬉しいです。ここに来れる事で心身が休まります。参加して帰ると元気を貰えます。また楽しみに参加したです。次回も宜しくお願いします。」
・K、Hさん
「大久保先生の企画で普通行けない所に行けて楽しめました。台風19号の爪痕も残っているのが見れたが、狩野川台風で静岡が被害あった事を思い出しました。次回の木内さんの伊豆・富士山ツアーは参加出来ないので皆さん楽しんで来てください。」
・T、Oさん
「毎回とんでもない所を大久保先生が見つけて来るな!と言うのが感想です。どういう事が出るか、それらに共鳴し、何が起きるか楽しみにしながら運転をしていますが、面白いです。車中、色々な話を聞けて驚き、それに符号する事が出たり、納得する事が多々ありました。最後の鹿島神宮で夕陽が出て、岩の上まで行ったがとても良かった。今後もお役立ち出来る事をやって行き、更にしっかり出来るように頑張ります。」
・T、Sさん
「お疲れ様でした。車の中は生体エネルギーの新兵器で癒しながら参加出来ました。息子の運転をみて、このように一緒に旅が出来て、皆さんの役に立ち、良く出来て来ていて安心です。」
・木内鶴彦さん
今年1年有意義に過ごせました。今回も山に登り、磐座を見せてもらいながら良い旅が出来ました。知らない所を知れる楽しみがあります。勉強して、むこうで見てきた世界がフイットする事は楽しい。またこの様な巡りをして行きたいと思います。今回もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。」
いつもながら打ち解けた、楽しい仲間との巡りは目出度し目出度しで、皆さんに喜び、満足して頂けて嬉しいです。来年は更に東北各地のここはと言う所を木内スペシャルゲストと巡りたいと思います。乞うご期待です。
2020年2月23日日曜日
1956「南福島巨石巡り27」2020.2.23
次の目的地は同じ白河市にある鹿島神社の巨石です。神社の紹介です。
「鹿島神社 白河市鹿島8
福島県白河市にある。白河駅の南東2Kmほどの鹿島に鎮座。阿武隈川と東北本線に挟まれた場所。鳥居から、木々の参道が続き、石橋の先に神門がある。参道の両脇の道の横には、淡島神社と金比羅神社。神門をくぐると広い境内。正面に社殿がある。境内右手には、「仙道 三十三観音 第二十七番札所」という石碑があり、観音堂らしき建物や、石仏があった。当社の神宮寺だろうか。
社殿の右手には、境内社・松尾神社。左手には樹齢1000年以上の御神木や月讀尊の石碑と小祠が二つ。
社伝によると、宝亀年間(770年代)光仁天皇の御代の創祀。弘仁二年(811)正月九日、坂上田村麻呂東北遠征の折に、常陸国鹿島大明神を勧請し、白河郷総鎮守とした神社。
御神体は、小田切・瀬上の二剣で、「韴霊神剣」というらしい。
式内・白河神社の論社の一つ。とすると、鹿嶋が勧請された後、延喜の頃(十世紀)まで、白河神社と称していたことになるが、いつ、現在の社名に改称したのだろうか。
当社は、「日本三鹿嶋のひとつ」らしい。一つは、茨城の鹿島神宮だろうが、もう一つはどこの鹿嶋神社だろうか。 神紋は三つ巴。
当社の提灯祭は、日本三大提灯祭の一つらしい。残りの2つは、新潟・弥彦神社の燈籠祭と愛知・一色諏訪神社の提灯祭。」
「宝亀年間(七七〇~七八〇年)光仁天皇の御代この地に祭られ、弘仁二年(八一一年)坂上田村麻呂が東夷征伐の際、改めて常陸国鹿島大名神を勧請した神社で、白河地方の総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として、戦勝を祈願したと言われています。延喜式神名帳(成立九二七年)にのこる式内社でもあります。その後も歴代城主の尊崇あつく、城主自ら奉幣、参籠し、祭田や社殿の寄進もありました。文明十三年(一四 八一年)時の城主小峯政朝が神社において一万句奉納の連歌会をおこないました。著名の連歌師宗祇が西国からはるばるこの地にやって来たのも、この会に出るためでした。このことは、当時の白河地方の文化が相当高い水準だったことを示しています。文化三年(一七八三年)松平大和守により『鹿嶋大神宮』の額が、また大正十四年(一九二五年)海軍元帥東郷平八郎により『鹿島宮』の額が奉納されています。この両額は今も神社の正面に掲げられています。寛政七年(一七九六年)には松平定信公より『楯無しのよろい』(市文化財)も奉納されています。明治四十三年(一九一〇年)不幸にして火災にあい、 建造物、備品のほとんどを焼失しましたが、大正元年(一九一二年)再建され、現在に至っています。また、古来より歌枕にある転寝の森(うたたねのもり)は、当神社の飛地境内で、東へ三百メートル程のところにあります。」神社の由書より
詳しい写真等は以下のサイトをご覧ください。
立派な社殿の神社の参拝もそこそこに、社殿左手裏にある磐座に向かいます。神社の脇にはご神木の樹齢1000年の杉の大木があります。その奥の神社の裏手の森は神体山(しんたいさん)で「甕(みか)の森」と言われています。
石垣に階段が設けられていて階段を上り山裾の道を進んでいくと「猿田彦大神と月読尊の岩座」があります。縄文時代から信仰されている大きな岩で、この磐座では古代から祭祀が行われた場だとされています。
沈みかけた夕陽が木々の間を抜けて差し込んできます。巨石が光を受けて金色に輝いています。巨石の下の狭い道を上りますが行き止まりで引き返し、光と戯れました。きっとこのご神体山のすそ野からこの巨岩を拝し祭祀を行ったのではないでしょうか。
2020年2月22日土曜日
1955「南福島巨石巡り26」2020.2.22
破石を後にして白河市に向かいました。目指すは「感忠銘・白川城跡」です。以下の様に紹介されています。
「感忠銘・白川城跡 白河市藤沢
感忠銘碑は、白川城の東部搦目(からめ)山にある高さ7.6m・幅2.7mの日本有数の磨崖碑です。
文化4年(1807年・江戸時代)、搦目の庄屋内山官左衛門重濃が、南朝時代の名将結城宗広・親光親子の忠烈を後世に伝えようと考えました。そこで、岩壁に白河藩の儒学者広瀬典の撰文「賀孝啓一千里啓」を記し、題字として、白河藩主松平定信より与えられた「感忠銘」の三文字を刻みました。残念ながら風化が進んでおり崩落の危険があるため、現在は立ち入り禁止です。遠目からは「感忠銘」の三文字だけ読み取ることができ、全文は白河市歴史民族資料館に拓本で収められています。」
白河市にはこの白川城跡と白河城跡の2つの城跡があります。
白川城跡
「文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている。
祐広の嫡子の宗広は、後醍醐天皇の命により新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、建武の中興(1334)を実現させた。その後、南北朝時代には義良親王(のりながしんのう)・(後村上天皇)を奉じて、北畠顕家と共に、北朝方の足利尊氏と戦った奥州南朝派の中心人物である。
白川城の存在した時期については、明らかではないが、南北朝時代の文書にその名が見られることや、「山城」という城の形態から、築城年代は南北朝時代と考えられる。また、永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定される。」
国道脇に駐車場があり柵の向こうの崖、そこに感忠銘碑があります。その文字は肉眼では確認できません。
案内には以下の様に記されています。
「白川城は別名搦目城(からめじょう)ともいう。
白河市街の東方、阿武隈川の南に連なる丘陵にあり、中央から北にかけて遺構群がある。山頂の平坦部には空濠と土塁があって、御本城山(館山)といわれ、ここが白川城の中枢部にあたる。それより北に半島状に伸びた二つの出丸があり、その下の谷を下門入という。これが搦手で、搦目城の名の起源といわれている。御本城の東には谷を隔てて鐘撞堂山、その東には美濃輪という谷がある。感忠銘碑のある絶壁の南には馬乗場、さらに南にひとつの壇跡があり、今は稲荷神社を祀っている。御本城山の北西方の字藤沢山には、延文五年(一三六〇)銘の供養塔が出土した平坦地があり、その他約二〇ヘクタールにわたり遺構が現存している。
源頼朝の奥州合戦ののち、白河庄の地頭職となった結城氏は、宗広の代になって威を張り、子親光と共に南党(吉野方)の柱石として本城により勇戦し、元弘三年(一三三三)には太守義良親王と陸奥国司北畠顕家を白川の地に迎え、建武二年(一三三五)の西上、延元元年(一三三六)の下国、さらに延元二年再び西上と、本城は南党の重要な拠点となった遺跡である。
感忠銘は城跡の一部である北東の搦目山二番地の断崖に、宗広・親光父子の忠烈を後世に伝えるため、内山重濃が文化四年(一八〇七)に白河城主松平定信の感忠銘の三文字を得て、広瀬典の撰文、千里啓が書いた磨崖碑である。 福島県教育委員会」
強風が吹き寒さが震えながら暫し往時を偲びましたが、その親子の忠烈を「感忠銘」としてこの巨岩に刻んだ思いは数百年の風雪の時を経て知る由もありません。参考までにその全文を紹介します。
「感 忠 銘
蔚然深秀、在我白河東者、結城氏墟也。我望之而有所感焉。元亨建武間、士氣衰苶、天下擾々視利避就。獨宗廣・親光、忠烈凛々、憤發唱義、欲率天下而與之。不幸弗克、以殞身。然猶東州士民、知戴南朝之天者、實亦其力也。一時忠烈、楠公之外無能耦焉。而今吾民鮮知其爲州人。奚以興千餘風。内山重濃家於墟下。損財爲予勒銘、表而出之。公嘉斬擧、題賜三大字。以刻上方。嗚呼二子之忠魂、數世後得此偉標焉。其必含笑於地下。吾輩亦與有榮也。銘曰 峭乎此山。維石巉々。渓風肅然。劍佩夜還。踪蹟不刊。輝映千年。民莫自棄、國能生賢。 文化四年秋九月 廣瀬典謹識 賀孝啓謹書
(読ミ下シ文)
蔚然(ウツゼン)タル深秀(シンシウ)、我ガ白河ノ東ニ在ルモノハ、結城氏ノ墟(キヨ)ナリ。我之ヲ望ミテ感ズル所有リ。元亨・建武ノ間、士氣衰苶(スイデツ)、天下擾々(ゼウゼウ)トシテ、利ヲ視テ避就セリ。獨リ宗廣・親光、忠烈凛々、憤發シテ義ヲ唱ヘ、天下ヲ率ヰテ之ニ與セント欲ス。不幸ニシテ克(カ)タズ、以テ身ヲ殞(オト)セリ。然レドモ猶東州ノ士民、南朝ノ天ヲ戴クコトヲ知レルハ、實ニ亦其ノ力(チカラ)ナリ。一時ノ忠烈、楠公ノ外ニ能ク耦(ナラ)ブモノ無カリキ。而ルニ今吾ガ民其ノ州人タルヲ知ルモノ鮮(スクナ)シ。奚(ナン)ゾ以テ餘風(ヨフウ)ヲ興サンヤ。内山重濃墟下(キヨカ)ニ家ス。財ヲ損(ス)テ予ヲシテ銘ヲ勒(ロク)セシメ表(アラワ)シテ之ヲ出ス。公斯ノ擧ヲ嘉シ、題スルニ三大字ヲ賜フ。以テ上方ニ刻ス。嗚呼二子ノ忠魂數世ノ後此ノ偉標ヲ得タリ。其必ズヤ笑ヲ地下ニ含マン。吾ガ輩モ亦與ツテ榮有ルナリ。銘ニ曰ク、峭乎(セウコ)タル此ノ山。維石巉々(コレイシザンザン)。渓風肅然(ケイフウシュクゼン)。劍佩(ケンバイ)夜還ル。踪蹟(ソウセキ)刊セズ。千年ニ輝映ス。民自ラ棄ツルコト莫(ナ)クンバ、國能ク賢ヲ生ゼント。」
「感忠銘・白川城跡 白河市藤沢
感忠銘碑は、白川城の東部搦目(からめ)山にある高さ7.6m・幅2.7mの日本有数の磨崖碑です。
文化4年(1807年・江戸時代)、搦目の庄屋内山官左衛門重濃が、南朝時代の名将結城宗広・親光親子の忠烈を後世に伝えようと考えました。そこで、岩壁に白河藩の儒学者広瀬典の撰文「賀孝啓一千里啓」を記し、題字として、白河藩主松平定信より与えられた「感忠銘」の三文字を刻みました。残念ながら風化が進んでおり崩落の危険があるため、現在は立ち入り禁止です。遠目からは「感忠銘」の三文字だけ読み取ることができ、全文は白河市歴史民族資料館に拓本で収められています。」
白河市にはこの白川城跡と白河城跡の2つの城跡があります。
白川城跡
「文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている。
祐広の嫡子の宗広は、後醍醐天皇の命により新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、建武の中興(1334)を実現させた。その後、南北朝時代には義良親王(のりながしんのう)・(後村上天皇)を奉じて、北畠顕家と共に、北朝方の足利尊氏と戦った奥州南朝派の中心人物である。
白川城の存在した時期については、明らかではないが、南北朝時代の文書にその名が見られることや、「山城」という城の形態から、築城年代は南北朝時代と考えられる。また、永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定される。」
国道脇に駐車場があり柵の向こうの崖、そこに感忠銘碑があります。その文字は肉眼では確認できません。
案内には以下の様に記されています。
「白川城は別名搦目城(からめじょう)ともいう。
白河市街の東方、阿武隈川の南に連なる丘陵にあり、中央から北にかけて遺構群がある。山頂の平坦部には空濠と土塁があって、御本城山(館山)といわれ、ここが白川城の中枢部にあたる。それより北に半島状に伸びた二つの出丸があり、その下の谷を下門入という。これが搦手で、搦目城の名の起源といわれている。御本城の東には谷を隔てて鐘撞堂山、その東には美濃輪という谷がある。感忠銘碑のある絶壁の南には馬乗場、さらに南にひとつの壇跡があり、今は稲荷神社を祀っている。御本城山の北西方の字藤沢山には、延文五年(一三六〇)銘の供養塔が出土した平坦地があり、その他約二〇ヘクタールにわたり遺構が現存している。
源頼朝の奥州合戦ののち、白河庄の地頭職となった結城氏は、宗広の代になって威を張り、子親光と共に南党(吉野方)の柱石として本城により勇戦し、元弘三年(一三三三)には太守義良親王と陸奥国司北畠顕家を白川の地に迎え、建武二年(一三三五)の西上、延元元年(一三三六)の下国、さらに延元二年再び西上と、本城は南党の重要な拠点となった遺跡である。
感忠銘は城跡の一部である北東の搦目山二番地の断崖に、宗広・親光父子の忠烈を後世に伝えるため、内山重濃が文化四年(一八〇七)に白河城主松平定信の感忠銘の三文字を得て、広瀬典の撰文、千里啓が書いた磨崖碑である。 福島県教育委員会」
強風が吹き寒さが震えながら暫し往時を偲びましたが、その親子の忠烈を「感忠銘」としてこの巨岩に刻んだ思いは数百年の風雪の時を経て知る由もありません。参考までにその全文を紹介します。
「感 忠 銘
蔚然深秀、在我白河東者、結城氏墟也。我望之而有所感焉。元亨建武間、士氣衰苶、天下擾々視利避就。獨宗廣・親光、忠烈凛々、憤發唱義、欲率天下而與之。不幸弗克、以殞身。然猶東州士民、知戴南朝之天者、實亦其力也。一時忠烈、楠公之外無能耦焉。而今吾民鮮知其爲州人。奚以興千餘風。内山重濃家於墟下。損財爲予勒銘、表而出之。公嘉斬擧、題賜三大字。以刻上方。嗚呼二子之忠魂、數世後得此偉標焉。其必含笑於地下。吾輩亦與有榮也。銘曰 峭乎此山。維石巉々。渓風肅然。劍佩夜還。踪蹟不刊。輝映千年。民莫自棄、國能生賢。 文化四年秋九月 廣瀬典謹識 賀孝啓謹書
(読ミ下シ文)
蔚然(ウツゼン)タル深秀(シンシウ)、我ガ白河ノ東ニ在ルモノハ、結城氏ノ墟(キヨ)ナリ。我之ヲ望ミテ感ズル所有リ。元亨・建武ノ間、士氣衰苶(スイデツ)、天下擾々(ゼウゼウ)トシテ、利ヲ視テ避就セリ。獨リ宗廣・親光、忠烈凛々、憤發シテ義ヲ唱ヘ、天下ヲ率ヰテ之ニ與セント欲ス。不幸ニシテ克(カ)タズ、以テ身ヲ殞(オト)セリ。然レドモ猶東州ノ士民、南朝ノ天ヲ戴クコトヲ知レルハ、實ニ亦其ノ力(チカラ)ナリ。一時ノ忠烈、楠公ノ外ニ能ク耦(ナラ)ブモノ無カリキ。而ルニ今吾ガ民其ノ州人タルヲ知ルモノ鮮(スクナ)シ。奚(ナン)ゾ以テ餘風(ヨフウ)ヲ興サンヤ。内山重濃墟下(キヨカ)ニ家ス。財ヲ損(ス)テ予ヲシテ銘ヲ勒(ロク)セシメ表(アラワ)シテ之ヲ出ス。公斯ノ擧ヲ嘉シ、題スルニ三大字ヲ賜フ。以テ上方ニ刻ス。嗚呼二子ノ忠魂數世ノ後此ノ偉標ヲ得タリ。其必ズヤ笑ヲ地下ニ含マン。吾ガ輩モ亦與ツテ榮有ルナリ。銘ニ曰ク、峭乎(セウコ)タル此ノ山。維石巉々(コレイシザンザン)。渓風肅然(ケイフウシュクゼン)。劍佩(ケンバイ)夜還ル。踪蹟(ソウセキ)刊セズ。千年ニ輝映ス。民自ラ棄ツルコト莫(ナ)クンバ、國能ク賢ヲ生ゼント。」
2020年2月21日金曜日
1954「南福島巨石巡り25」2020.2.21
<解釈:成因:当初の復元→変化史 変化の原動力>
1.巨大なコアストーンが小さな尾根先端斜面上部に露出していました。
(8.5+α)×9.5×6.5mで、単体コアストーンとしては有数の大きさ
2.地すべり状の動きで尾根先端が滑り落ち、落ちた先で安定。
3.この時代は未詳。古くは、更新世末期の氷期に当たり、周氷河作用により滑り落ちた可能性もありますが、完新世に入ってからの小規模な地すべりによる地形とも考えられ、標高も低いので、ごく新しい地形である可能性の方が高い。
4、逆に現代から見ますと、この時代は地名起源でもありますし、江戸時代以前にさかのぼると思われます。稜線肩露岩・地すべりによるすべりの例は、宮城県丸森町筆甫の経石、花巻市東和町谷内丹内山神社の胎内石など。
5.移動後、自重により傾斜方向に直行する曲面割れ目が入って2つに破断しました。
この時期は地名起源でもありますし、江戸時代以前にさかのぼると思われます。ただし、破断面はすごく新鮮で、風化していないように見えます。だから新しいとは云えませんが。
類例は、栃木県足利市名草、名草弁天の弁慶割石、山梨県甲州市塩山上小田原の裂石、
山梨県山梨市上石森の石森山子持ち石など多数。
<どのように利用されているか:歴史資料>
・ブログによれば、集落名「破石」の元になっている巨石で、石をご神体とする祠の名も、「破石神社」であるとのこと。
・祭神名は、祠の中に札があり、天之石戸別命と石凝姫命とわかりました。
・石鳥居の束柱に、「破石神社」と刻まれていた。
http://chibataki.moo.jp/kyosekihukusima/asakawawareisi/wareisi.html
もう一つ紹介します。
「日本最大級の巨大な石神・浅川町の破石」
露岩や岩石帯ではなく、何気ない風景の中に単立する「聖なる岩」としては、日本最大級なのが、この「破石」(われ石)です。(途中省略)
アラハバキ系の巨石信仰・・・・などと勝手に決めつけるとお叱りを受けそうですが、いずれにしろこのあたりの巨石信仰は、隙間や割れ目があるものが目立ちます。
ネットでいろいろ調べましたが、この岩の信仰や由来、あるいは周囲の出土物など、何ひとつわかりませんでした。まさに謎の巨石です。周辺に大きな岩はなく、なぜここにぽつんと存在するのでしょうか?常識的に考えれば、人の手で運べるような石ではありません。」
http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-332.html
国道に車を止めて農道に入って田んぼ脇の参道を進むと破石神社があります。午後の陽ざしを浴びて明るい雰囲気です。石の鳥居に奥に小さな社があり左手にご神体の破石が鎮座しています。
正面からみると巨大な三角お結びに見えるのですが真横からみると真ん中から割れています。この割れから破石、われいしと呼ばれているのでしょう。割れた奥の石から巨木が根を張り聳えています。石木共生です。
石の周りを一周し、割れ目を通り抜け思い想いに巨石を堪能しました。巨石の存在への意味を感じ、人々との関わりの意味を見出すには中々難しい世界です。
光が燦燦と降り注ぎ石のエネルギーと相まって私達は沢山のエネルギーを頂けました。
1.巨大なコアストーンが小さな尾根先端斜面上部に露出していました。
(8.5+α)×9.5×6.5mで、単体コアストーンとしては有数の大きさ
2.地すべり状の動きで尾根先端が滑り落ち、落ちた先で安定。
3.この時代は未詳。古くは、更新世末期の氷期に当たり、周氷河作用により滑り落ちた可能性もありますが、完新世に入ってからの小規模な地すべりによる地形とも考えられ、標高も低いので、ごく新しい地形である可能性の方が高い。
4、逆に現代から見ますと、この時代は地名起源でもありますし、江戸時代以前にさかのぼると思われます。稜線肩露岩・地すべりによるすべりの例は、宮城県丸森町筆甫の経石、花巻市東和町谷内丹内山神社の胎内石など。
5.移動後、自重により傾斜方向に直行する曲面割れ目が入って2つに破断しました。
この時期は地名起源でもありますし、江戸時代以前にさかのぼると思われます。ただし、破断面はすごく新鮮で、風化していないように見えます。だから新しいとは云えませんが。
類例は、栃木県足利市名草、名草弁天の弁慶割石、山梨県甲州市塩山上小田原の裂石、
山梨県山梨市上石森の石森山子持ち石など多数。
<どのように利用されているか:歴史資料>
・ブログによれば、集落名「破石」の元になっている巨石で、石をご神体とする祠の名も、「破石神社」であるとのこと。
・祭神名は、祠の中に札があり、天之石戸別命と石凝姫命とわかりました。
・石鳥居の束柱に、「破石神社」と刻まれていた。
http://chibataki.moo.jp/kyosekihukusima/asakawawareisi/wareisi.html
もう一つ紹介します。
「日本最大級の巨大な石神・浅川町の破石」
露岩や岩石帯ではなく、何気ない風景の中に単立する「聖なる岩」としては、日本最大級なのが、この「破石」(われ石)です。(途中省略)
アラハバキ系の巨石信仰・・・・などと勝手に決めつけるとお叱りを受けそうですが、いずれにしろこのあたりの巨石信仰は、隙間や割れ目があるものが目立ちます。
ネットでいろいろ調べましたが、この岩の信仰や由来、あるいは周囲の出土物など、何ひとつわかりませんでした。まさに謎の巨石です。周辺に大きな岩はなく、なぜここにぽつんと存在するのでしょうか?常識的に考えれば、人の手で運べるような石ではありません。」
http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-332.html
国道に車を止めて農道に入って田んぼ脇の参道を進むと破石神社があります。午後の陽ざしを浴びて明るい雰囲気です。石の鳥居に奥に小さな社があり左手にご神体の破石が鎮座しています。
正面からみると巨大な三角お結びに見えるのですが真横からみると真ん中から割れています。この割れから破石、われいしと呼ばれているのでしょう。割れた奥の石から巨木が根を張り聳えています。石木共生です。
光が燦燦と降り注ぎ石のエネルギーと相まって私達は沢山のエネルギーを頂けました。
2020年2月20日木曜日
1953「南福島巨石巡り24」2020.2.20
次の目的地は浅川町にある破石神社の御神体「破石」です。今日の巡りの中で1番に注目の存在です。以下の様に紹介されています。
「破石神社 御神体 破石 浅川町山白石破石
4号線から鏡石、矢吹、白河等何処からでも118号線を浅川町に走り浅川町の276号線に折れ、更に山白石の破石部落に折れる。福島交通のバス停「破石」から1km程走る。右手、田の奥に巨大なピラミッド型の△石が見える。右隣にはそれほど大きいものではない鳥居がほんとに小さく見える。
破石の二つには注連縄が巻かれ、破石神社のご神体となっている。これこそ巨石!という感じである。どなたも取り上げていないのが不思議であり、多分であるが、地元でしか知られていない巨石を見るにつけ、他にもこうした知られざる巨石は東北には未だまだ在るに違いない!と思ってしまう。当然であるが村落名「破石」はここから来ている。
https://hamadas.exblog.jp/13684144/
いろいろ調べてもこの破石の存在はあまり知られていません。その中で以下のサイトは岩石の構造的成因を検討していますのでその1部を抜粋して紹介します。
「結果は、巨大なコアストーンが小さな尾根上部に露出していたのが、滑り落ち、落ちた先で停止後自重により傾斜方向に直行する割れ目が入って2つに破断したものと判断しました。
<こんな石があった:立地と形態>
形態
・いろいろ巨石を見て回っていますが、この石は大きさといい、姿といい、文句なく第一級です。迫力ありますね。
・正面高さ8.0m 幅9.5mの三角形のおむすび型の石で、斜面に平行に手前と奥で大きく2つに割れ、手前側は1~2m滑っています。
・割れる前の奥行き6.5m。 元々は一体の巨大なコアストーン塊でした。
展開図(下図)を作成・・・参照。 寸法は、上画像の竹竿4.4mなどを利用して測定。
・石を二分割する大開口の割れ口は、平滑面でなく曲面をなしていますので、開口形式は、木の根開口ではなく重力破断開口です。
・後石の側面には、2カ所で大木が根を張っている割れ目があります。
・岩塊周囲は、コアストーンの風化球面が全面的に残っています。
・岩質は、阿武隈山地の白亜紀新期花崗閃緑岩。 ⇒右の図 落ちていた破片の新鮮断面。
・岩塊底部には、マサがあり、岩塊は根石ではありません。また、背後の地形から見て、現在位置にあったコアストーンが掘り出されて露出したものではなく、背後の稜線斜面から滑って移動してきたものです。
・コアストーンの形を復元しますと、おむすび型のコアストーンで、周囲全面と円頭が残っており、地中で風化により形成されたおむすび型のコアストーンが、転倒せずにそのまま滑り降りてきたものと考えられます。
結果は、巨大なコアストーンが小さな尾根上部に露出していたのが、滑り落ち、落ちた先で停止後自重により傾斜方向に直行する割れ目が入って2つに破断したものと判断しました。
「破石神社 御神体 破石 浅川町山白石破石
4号線から鏡石、矢吹、白河等何処からでも118号線を浅川町に走り浅川町の276号線に折れ、更に山白石の破石部落に折れる。福島交通のバス停「破石」から1km程走る。右手、田の奥に巨大なピラミッド型の△石が見える。右隣にはそれほど大きいものではない鳥居がほんとに小さく見える。
破石の二つには注連縄が巻かれ、破石神社のご神体となっている。これこそ巨石!という感じである。どなたも取り上げていないのが不思議であり、多分であるが、地元でしか知られていない巨石を見るにつけ、他にもこうした知られざる巨石は東北には未だまだ在るに違いない!と思ってしまう。当然であるが村落名「破石」はここから来ている。
https://hamadas.exblog.jp/13684144/
いろいろ調べてもこの破石の存在はあまり知られていません。その中で以下のサイトは岩石の構造的成因を検討していますのでその1部を抜粋して紹介します。
「結果は、巨大なコアストーンが小さな尾根上部に露出していたのが、滑り落ち、落ちた先で停止後自重により傾斜方向に直行する割れ目が入って2つに破断したものと判断しました。
<こんな石があった:立地と形態>
形態
・いろいろ巨石を見て回っていますが、この石は大きさといい、姿といい、文句なく第一級です。迫力ありますね。
・正面高さ8.0m 幅9.5mの三角形のおむすび型の石で、斜面に平行に手前と奥で大きく2つに割れ、手前側は1~2m滑っています。
・割れる前の奥行き6.5m。 元々は一体の巨大なコアストーン塊でした。
展開図(下図)を作成・・・参照。 寸法は、上画像の竹竿4.4mなどを利用して測定。
・石を二分割する大開口の割れ口は、平滑面でなく曲面をなしていますので、開口形式は、木の根開口ではなく重力破断開口です。
・後石の側面には、2カ所で大木が根を張っている割れ目があります。
・岩塊周囲は、コアストーンの風化球面が全面的に残っています。
・岩質は、阿武隈山地の白亜紀新期花崗閃緑岩。 ⇒右の図 落ちていた破片の新鮮断面。
・岩塊底部には、マサがあり、岩塊は根石ではありません。また、背後の地形から見て、現在位置にあったコアストーンが掘り出されて露出したものではなく、背後の稜線斜面から滑って移動してきたものです。
・コアストーンの形を復元しますと、おむすび型のコアストーンで、周囲全面と円頭が残っており、地中で風化により形成されたおむすび型のコアストーンが、転倒せずにそのまま滑り降りてきたものと考えられます。
結果は、巨大なコアストーンが小さな尾根上部に露出していたのが、滑り落ち、落ちた先で停止後自重により傾斜方向に直行する割れ目が入って2つに破断したものと判断しました。
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