2016年9月30日金曜日

712「黒石6」2016,9,30

 立石神社は一関市藤沢町増沢字立石地内にあります。中山さんは以前にも訪れていますが、その時には神社の参拝のみで、社殿奥の巨石のところに辿りついていませんでした。
 神社の紹介した資料はあまり無く、入手できたのは以下です。

「この「立石神社」は、稲倉魂(うかのみたまの-みこと)を祀っており、平安時代中期、応和2年(962年)に、山城国の勧請により建立されたと伝えられています。
 神社の周りは、様々な巨石で囲まれており、最大の石は、高さ17m、周囲11mもの大きさがあります。
 このご神体の「立石」ですが、江戸時代の明和9年/安永元年(1772年)に、仙台藩の歴史学者である「田辺 希文(まれふみ)」が、藩主「伊達 重村」の命により編纂した「封内風土記」に、次のように紹介されています。
『 昔、平泉中尊寺の猿楽見物に来た僧と児童数十人が、猿楽に間に合わず、当地で中尊寺の方向を見つめたまま石と化した。 』
また、増沢地方の言い伝えにも、次の様な伝説があるそうです。
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 昔、宮城県のお寺の僧侶が、平泉の能を見に来たそうです。そして、この神社のある増沢村付近に差し掛かった所で、「平泉の能は、まだ行っていますか ?」と村人に尋ねたそうです。
 すると「平泉の能は、終わってしまいましたよ」と言われたそうです。はるばる宮城県から来た僧侶は、答えを聞くとがっかりしてしまい、もはや歩くこともできなくなってしまったそうです
 それでも「能が見たい、能が見たい」と言い続けながら、立ったまま亡くなってしまったそうですこうして、亡くなってしまった僧侶の遺体は、平泉の方向を見たまま、石になってしまってそうです」
http://blog.goo.ne.jp/pea2005/e/385f5301b05724525c2ef7b6735c5bd8

 社殿の奥に下りて巨石群を目の当たりにして、その巨大さに驚きです。明らかに何らかの儀式を行ったと思える空間がそこにあります。縄文のころからこの地は聖地として、依り代であり、大いなる存在と情報を交換し、儀式の場であったのでしょう。北に面した巨石は鏡のようでもあり、台座の石に穴を開けてそこに柱があったような痕跡があります。 どこの聖地でも思うのですが、大和朝廷の神を祀る神社はミスマッチですが、ここの巨石は北から見るとその社も消えて見えませんので、古の物語宇宙を再現できる世界です。



 その巨石に触れ、触発されるように中山さんが一人で霊媒、シャーマンの如くに、その巨石に対峙して声を発し、あわ歌を響かせ、音を奏でました。




 中山さん一人での響きは奥が深い、諸存在との感応に応じての響き、振動で、その情報量は桁違いのものを感じます。沢山で巡っても、時と処、その目的に応じて対応を変える必要があります。それを読み解く能力が不可欠で、ただあわ歌を歌えば良い、と言うレベルでは無い世界です。

 その時のお言葉です。
「あえ あえ あえ あえ あえ うえ
 この度、この地にありて、この響きを発して、揺らぎを持ちて、新たなるへの道作る。
 大きなるを許されし。時迫り来れば、ますます大きなり。
 ここに、この身を置きて響かせるたるは、この国の大きなる柱へ繋ぐもの。
 写して参る」15:21
 


果たして如何ほどの大きな揺れが来て、新たな道が作られるのでしょうか。時が迫りくれば益々大きくなり、しかし、響かせたものはこの国の大きな柱に繋ぐもの、とあります。この地の立石が巨大なるが故に、今後、その役割も大きくなるのではないかと思われます。

2016年9月29日木曜日

711「黒石5」2016,9,29

 12時半の昼食予定の時間丁度に一関市にある「世嬉の一」酒造の、「蔵元レストランせきのいち」に到着しました。ここは生体エネルギー技術を導入していて日本酒だけでなく、地ビールのいわて蔵ビールでは世界でも高い評価をいただいていて、毎年数々の賞を受けています。
 私がかつてこよなく酒を楽しんだ頃は、ここの蔵ビールを将に浴びるように頂いていましたが、今は昔です。20年前に私が生体エネルギーに出会った頃には既にこの酒蔵は実践しており、数々の実績を上げていて何度も視察や会食に訪れていました。先の東日本大震災では大きな被害を受けたのですが再建されて、多くのお客さんで賑わっていました。嬉しきことです。 
 レストランやカフェ、博物館、売店など色々な建物がありますが、私たちは大正ロマンが漂うカフェ徳蔵で豪華なランチを頂きました。




 円卓を囲み、郷土料理の餅とはっと汁の「手延べはっと・餅膳」を頂きました。まだまだミッションがありますので蔵ビールはお預けです。




 料理には、特別に用意してくださった果宝餅のあんこ餅の椀があります。その中に萩の木の小枝が1つだけ入れてあり、それを引き当てた方には福が来る、とのことです。それを引き当てた方には幸運のプレゼントを頂けるとの事です。楽しみに皆さんで頂きました。果たして幸運の女神が微笑んだラッキーボーイは、何と私でした。1合瓶のお酒を頂きましたが、嬉しきことです。
「世嬉の一」http://sekinoichi.co.jp/

 お腹も満たされて午後の目的地は一関市舞川にある観音山の山頂付近に鎮座する舞草(まいくさ、又は、もぐさ)神社です。ここの謂れ等は以下です。
「舞草神社は、式内社・儛草神社に比定されている古社で、718年に菊理姫命を祭神としたのが始まりの由緒ある神社です。坂上田村麻呂が必勝祈願の為、大同2年(807年)に観音を安置し、創建したとも言われています。舞草山すなわち白山嶽の山腹に鎮座し、もとは山頂に社地があつたという。
 この山には処々金屑があり、刀工三條宗近の鍛刀跡といはれている。ここに「日本刀の祖舞草刀」と称される刀を鍛える技術が盛んになったのは、この地が良質の鉄鉱石を産出したからであろう。全国の刀工の祖神としての崇敬も篤い。」
 祭神が菊理姫命で菊理(くくり)です。何とも99にリンクします。


 舞草鍛冶については以下の表記があります。
「この舞草の地は平安時代より刀鍛冶が集団で住まいした所と伝えられ、舞草刀は日本刀が直刀から湾刀へと移り変わる時期の初めの頃とされています。
 刀剣に関する代表的な古伝書に鎌倉時代に書かれた観智院本銘尽がありますが、この中でも舞草鍛冶の刀工が数多く記述されており、その場所は、ここから直線距離で北西約700mの白山岳周辺にあったと伝えられております。舞草鍛冶は往時の陸奥国にあって武器づくりの集団として欠くことのできない存在でした。」-東参道入口案内板

 蝦夷たちはこの湾刀を既に使用していたようで、その強さの秘訣だったようです。この刀により武士の戦いを変える画期的な変化をもたらした地です。
 県道から狭い道を登り神社に着きました。実は下見に3度来て、ようやくたどり着いたいわくつきの処です。神社の参拝もそこそこに、更に道を西の奥の方に行き、電波塔のある行き止まりまで進みます。
 そこには大部ヶ岩があります。車を降りて少し道を下ると急に眺望が開けて別世界が現れます。巨石がそそり立ち、絶壁の下には北上川が丁度蛇行して、そこを東北新幹線の線路、鉄橋が見えます。実り豊かな田園、そして北上山脈が綺麗に見渡せます。




 暫し、陸奥の素晴らしさに感動し、その岩の上で西の空に向かいあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。  
「来たる時を、見事に乗り越え、遥かなるへと参る身は、
 それぞれ大きく揺らがぬ事なり。
 日は迫り来る。これよりの60数日にて知る事となります。
 この大きなる見事なる地、よくよく見定めおかれませ。」14:14


 是より60数日とは11月上旬のことです。果たして如何知ることと成るのかです。
 そして実は、この舞草神社は午前に訪れた、桜松神社と瀧乃沢神社と一直線に並んでいます。ここから東に弧を描くように次の目的地の立石神社に向かいます。


2016年9月28日水曜日

710「黒石4」2016,9,28

 次の目的地は盛岡市玉山区生出にある瀧乃澤神社です。岩手の主たる霊峰は岩手山、姫神山、早池峰山です。岩手山と姫神山を結ぶラインのほぼ真ん中に瀧乃澤神社が鎮座しています。国道4号線から東に入って、姫神山を正面に見ながら5分程進むと、田園の中にその滝があるのです。山も無く畑が広がる平地にこじんまりした木々に覆われた森があり、そこが瀧乃澤神社です。
 赤い鳥居に瀧乃澤神社と記され、脇の石碑に瀧乃澤不動尊とあります。鳥居を過ぎて下ると小川がありその先に瀧乃澤神社があります。その先に小さな滝がありますがその上に用水路のようなものが走っていて何とも景観が乱されがっかりです。



  この滝は「盛岡市北部を流れる北上川支流の生出川枝沢に懸かる落差4mの分岐瀑である。
 その昔、族に襲われて目を負傷した武将がこの滝で目を洗ったところたちどころに治ったとされ以来、目の神様として信仰されてきたと言われています。」とあります。ここには2つの滝があり、こちらは「上の滝」です。
 そこそこに引き上げて鳥居を出て右手に進むと、少し貧弱な赤い鳥居があり、そこを下っていくと「下の滝」です。小さな社があり滝不動尊が祀られているようです。




 下の滝もほぼ同じ大きさですが、こちらは自然の中にぽっかり開いた異空間でエネルギーが清らかで木々と川の響きあいが心地良い世界です。
 瀧の落ちる岩には沢山の顔が見えて不思議な様相です。その異次元存在が現界と異界の鏡なのでしょうか。


 この瀧乃澤神社についても「不思議空間、遠野」で以下の様な記載がありますので紹介します。
「盛岡市玉山区(旧玉山村)に鎮座する瀧乃澤神社。創建はあきらかではないが、古くからここに滝明神を祀るという。祭日は、6月28日となっている。この鳥居を下って、御神体の滝へと向かう、いわば下り宮が瀧乃澤神社となるが、意図的に下り宮にしたのではなく、どうも立地的に下り宮になったというのが正解だろう。
 社を建てる場合、明治時代になり南を向けて建てるよう国から指導があったようだが、立地の問題があり、必ずしも南に向けて建てられた社ばかりでは無いという事は承知している。
 この瀧乃澤神社と姫神山を線で結ぶと、その間に瀬織津比咩を祀る多岐神社が鎮座している。そのどちらの社も姫神山を向けて建てられている事から、恐らく姫神山の姫神と瀧明神である瀬織津比咩は同じであるという事を示しているのではなかろうか。
 姫神山の頂に祀られていた熊野権現は、那智の神であるという。那智の神とは、那智の滝の瀧神である事を考えると、この玉山村の滝明神を祀る瀧乃澤神社は姫神山に祀られる瀬織津比咩を祀る神社と思っていいだろう。何度も書き記すが、姫神山に祀られた立烏帽子姫とは鈴鹿明神でもあり、この鈴鹿明神は京都の祇園祭りにも登場する姫神で、名を瀬織津比咩という。」

 瀧に向かってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あー、お出ましなされた。よくよくこの時、分かりて頂きたり。
 大いなる是より、大いなるこの地、大いなるこの水、
 皆々共に、新たへ参る。しっかり守りて参られませ。
 はらるり、 はんたり ゆるりんた。」11:08



 車は岩手山を正面に見ながら国道4号線に向かい、次の目的地は昼食会場の一関市です。



2016年9月27日火曜日

709「黒石3」2016,9,27

 10日は良い天気に恵まれました。仙台駅に6時半に皆さん集合して、2台の赤と黒の999の車に定員いっぱいの11名が分乗して一路、陸奥路を北上します。最初の目的地は岩手県八幡平市の桜松神社・不動滝です。そこは七時雨山の麓です。

 今回の巡りのテーマは開催案内に記されてある様に、「アラハバキ、瀬織津姫、北斗妙見の縁の各所であわ歌を響かせ、大変動に向けて新たな働き、光と響を発動させる陸奥日月星を一体と成す巡りの旅。」ですが、そもそもの大元は奥州市水沢区にある妙見山黒石寺を開き、発動させることにあります。
 これまで黒石寺には中山博さんとは2010年以来、4回訪れていますが初めの時はそれなりの応答でしたが、テーマを持って訪れてからは中々、頑なに光を受け入れて新たに進む事を拒んできていました。当時は、黒石寺に近づくに従い、身体が強烈な不快感、硬直など明らかな負の情報を感受していました。
 しかし回を重ね、前回、2016年4月10日に訪れた時には、大分受け入れられるように変わってきて下さりました。そしてあわ歌を響かせた後のお言葉の中でも最後に、以下の様な言葉で終わっていました。
「新たなる光は今一度。それまでの御用意を。」
 その内容は、本ブログ「601「菩薩5」2016,4,25」を参照ください。
http://tenmei999.blogspot.jp/2016/04/6012016425.html

 それを受けて、黒石寺に関係する諸々を含めて陸奥の各所を日、月、星と捉えて、基本コンセプトは①アラハバキ・巨石 ②瀬織津姫・早池峰山 ③北斗妙見、の日月星を整え一つにする。その巡りは陸奥を北上して桜松神社・不動滝を始点として、そこから南下して左回りに3回転して黒石寺へ入る、と言う案で計画をしました。そして今回の訪問がいよいよ始まりました。

 順調に走行して、前沢SAで1度休憩を取り、盛岡から参加のKさんをピックアップ予定のテレトラック安代を目指します。Kさんは高速バスで来ますが、安代の手前でバスを追い越し、こちらは安代のバス停で9時8分着のバスの到着を待ちます。Kさんも私たちがバスを追い越したことに気付いた様でメールをくれました。
 バスは9時9分着となり、99の括りの時間に丁度ピックアップすることに成りました。どうやら今回の巡りでひとつの締めくくりが出来る予感がします。地元をおさめる姫巫女的存在を迎え、嬉しき始まりです。



 桜松神社は朝の清清しい生気に満ちていました。境内にある不動滝は日本滝百選のひとつで、岩手県で唯一の名瀑です。鳥居を過ぎて綺麗な参道を進み右手に桜松神社の拝殿があります。御祭神は滝津姫命、瀬織姫命です。さらに奥に進むと不動堂があり、そこから滝の水音が聞こえます。不動堂から下るとすぐに不動滝です。9月に入っての台風の影響でしょう、水量が多く、将に名瀑の姿です。











 以下は「不思議空間、遠野」に記載された興味深い記事ですので紹介します。
「元和元年(1615)現宮司である村上家の祖先が、この地に不動明王を祀った時より始まると云う。明治の初めまで櫻松不動明王として尊崇し奉仕してきたが、明治初年(1868)宮司村上藤之進が神社を創立し祀官として奉仕す。桜松神社の名称は不明だが、瀬織津比咩が祀られ滝不動と呼ばれていたが、明治40年に桜松神社となったという。
 ところで桜松神社の名称が不明という事だが、例えば美保の松原の天女伝説の様に、松の木は弥生時代に輸入された神の寄り付く樹木であった。また桜は、遠野の猿ヶ石川が氾濫した時に桜並木を植えた事からわかるように、優れた保水力と鎮魂を意味するのが桜の木であった。その「桜」の漢字には「女」という漢字が使用されている。つまり「桜」という漢字は、元々女性を表すのではないだろうか。つまり桜松神社に「桜」という漢字が使用されていのは、水神でもある女神の瀬織津比咩であるからでもある。そして「大祓祝詞」の疑体現する地に琵琶湖があるが、その桜谷に天智天皇以前の古くから祀られていたのが瀬織津比咩である為、元々桜の木と縁が深いのが瀬織津比咩である為の桜松神社という名称では無かっただろうか。
 やはり、白蛇が祀られていた。滝沢村の白澤神社は、町史によれば瀬織津比咩が祀られていたが、いつの間にか瀬織津比咩から白蛇に変わっていた。恐らく県内の白蛇を祀っている殆どの神社などの以前は、瀬織津比咩が祀られていたのではなかったろうか。」
http://dostoev.exblog.jp/18047086/

 赤色の橋の上から滝に向けてあわ歌を響かせました。あわ歌の新しい歌い方は、滝の音にかき消されるようですが各自が強く響きを発して良い加減です。そこでのお言葉です。

「働きは終わりたり。これより参るは新たなり。
 更なる働き、今より新しきへ向かわれませ。
 この水、大きなる働きとなす。」9:53





 滝から渓流の散策路を戻りましたが素晴らしい自然のエネルギーを頂き、新たなるへの始まりの始まりとなりました。