「弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も「記紀」の影響や仏教による変容で、すっかり影をひそめ江戸時代には、何神であるかは不明になってしまった。わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために密かに今日までその伝統を守り続けた。かろうじて文献のみその名をとどめるか、あるいは、末社で密かに生きつづけるのにすぎない。
神社や寺院にはアラハバキの名こそ消えてしまったが弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりであるからアラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視できない、草鞋、鉄製下駄を供えたり、目の神様になっていたり、習俗から見て元の神が変容していることを示す、例が数多く発見できる。それから、多くの本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい。」
「古代東北を探っていくと、世界の龍信仰や日本神話とのつながりが見えてくる。
天照系の神々に出雲を追われた国つ神たちは東北へ移動した。蝦夷は東北を「ひのもと」と呼び、朝廷は東北を道の奥と呼んだ。すなわち中央政権の支配が及ばぬ地として「陸奥(みちのく)」と名付けたのである。
東北の民は朝廷軍など中央の権力と何度も戦い、全てに敗北した。負けた側は歴史を消されてしまう。勝った側は当然のように自分たちの正当性を主張する。自分たちは正義の戦いをした、あらがった連中は野蛮で文化も無く殺したって構わない奴らだ、と決めつけたのだ。
東北は阿弖流為(アテルイ)、前九年、後三年合戦、平泉滅亡、奥州仕置、戊辰戦争と大きな戦に巻き込まれ、歴史をズタズタに書き換えられ、棄てられてしまったのです。それでも東北の人々は逞しく生きているのです。
遥か昔、出雲には「和」と呼ばれる国の人々が暮らしていた。やがて大陸から九州に渡ってきた邪馬台国、つまりヤマト族の集団が北上を続け、出雲で「和」の人々と敵対関係になった。最終的に畿内全域を統一したヤマト族は、出雲王朝である「和」から国を譲られたという神話を広め、大和朝廷を作り上げた。そもそも何故「大和」と書いて「やまと」と読むのか?「大」を「や」と読むこともなければ、「和」を「まと」と読むこともない。私たちは「大和」は「やまと」と読む者と刷り込まれてしまったので、それが当たり前になっている。
ヤマト族は「和」の国を邪馬台国に組み入れた。だが、「和」と交流のあった中国は、それをヤマト族の侵略行為だとして、併合を認めなかったのではないか。その為ヤマト族は出雲王朝の「和」から正式に国を譲ってもらったことにした。そして邪馬台国と「和」という二つの国が合体して「大きな和の国つまり大和となりました」と宣言したのだろう。但し、読み方は「だいわ」ではなく、「邪馬台=やまと」とした。
「和」の人々は「出雲の国譲り」のあと、畿内から遠い九州あるいは東北方面に逃れた。
東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになった。だから東北に暮らす我々は、蝦夷の末裔ということになる。
※隼人=古代九州南部の移住民、七~八世紀頃大和朝廷律令支配体制に組み込まれた。
今でこそ単一国家とされているが、少なくとも鎌倉時代の初め頃までは、明らかに日本には国が二つあった。大和朝廷が支配する国と、出雲王朝の流れを汲む「和」の人たちの国である。その対立構造の中に阿弖流為(アテルイ)や安倍貞任の戦いがあった。
聖武天皇が東大寺の大仏に鍍金(メッキ)する黄金を求めていると、たまたま東北で金が産出した。それまで朝廷にとって東北は戦いをする価値もない土地だった。多賀城をこしらえたのも、東北を支配するというより、ここまでは我々の領土だぞと蝦夷に示すためだった。
多賀城は蝦夷を滅ぼすための最前線と説明されているが、そうではない。それまでは利害がぶつからないから協調していた。ところが蝦夷の国に黄金が出現したため、朝廷軍が入り込むようになった。こうして蝦夷と朝廷との長い戦いが始まる。
古代東北の民・蝦夷は、本来穏やかな暮らしを好む「和」の民だった。」
次の目的地は陸奥国一ノ宮、塩竃神社です。表参道の階段を登って参拝しました。202段の階段は些か脚にきつかったようですが、皆さん登り切り塩竃神社、そして志波彦神社を参拝しました。
本来は志波彦神社の方が社格が上で名神大社です。一方で塩竃神社は延喜式に載っていない式外社で、公式な国家のリストに上がらない神社なのですが、陸奥の国一ノ宮なのです。えっ!と言う感じですがその事は後で触れます。
元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたのですが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在の正式名称は志波彦神社・塩竃神社です。
由緒によると、創建は不詳です。御祭神は、志波彦神社は志波彦大神、鹽竈神社は別宮:塩土老翁神 で主祭神、本殿左宮:武甕槌神、右宮:経津主神です。志波彦大神は謎の多い神ですが別名、塩土老翁神と言われています。
鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられています。
ですから正式な参拝は志波彦神社を参拝し、次に塩竃神社を参拝するのだそうです。更に塩釜神社は別宮を先に参拝して、本殿を参拝するのだそうです。