2015年12月11日金曜日

531「好日一如9」2015,12,11

 牧山観音・零羊崎神社(ひつじざき)は奥州三観音の一つです。佐藤造船所からは10分程で牧山(標高250m)の頂上にあります。神社鳥居前の道路の展望所から牡鹿半島、太平洋、先ほど訪れた佐藤造船所のある渡波付近が眺望できます。





 エネルギーに満ち満ちた朝陽が海を照らし、きらきらと輝き、素晴らしい自然美です。昨日の富山といい、坂上田村麻呂所縁の三観音は眺望の効く、エネルギースポットにあります。またそこが蝦夷の聖地であったこと、その地を封印する為に祀られた証でもあります。
 零羊崎神社の御祭神は豊玉彦命です。別名、綿津見神で、海の神霊を司り、イザナギが死の国の穢れを祓い禊する時に現われた神で、海上守護の神です。創建年代は不詳。
 聖観世音菩薩が祀られています。由緒等は以下です。
「式内社・零羊埼神社に比定されており貞観元年従四位下に叙せられた古社。
応神天皇二年、神功皇后三韓征討の時、当社大神の御神託により出征を決意・大神の御守護により無血にして征討がかない、勅によって各地に御鎮祀あらせられた神社の一つ。
「涸満瓊別神」という名を賜り東奥鎮護のため、龍巻山に鎮座したという。その後、涸満瓊別(ひみつにさけ)が零羊崎(ひつじさき)という文字になり、龍巻山の龍が除かれて牧山となったという。
仏教と習合し、坂上田村麻呂の奥州三観音の一つ牧山観音を勧請。鷲峰山長禅寺という山号も持っていた。」
 多くの紹介には以上の記載がありますが、それ以前、蝦夷のこと、富山で触れた魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女(まきめ)は記載ありません。そして創建が不詳です。



 本殿の右手奥に神仏分離前にこの地にあった鷲峯山長禅寺の石塔の相輪橖(塔)がありますが珍しい形です。




 参堂を下る途中にあるアヤメ園は日差しが降り注ぎ、陽だまりの山懐です。暫し休憩して楽しみました。


 黄金山神社は宮城県に2箇所あります。1つは石巻市の牡鹿半島の東南端、太平洋に浮かぶ金華山の黄金山神社、もう一つは涌谷町の黄金山神社です。
 金華山黄金山神社については以下の紹介があります。
「社伝によれば天平勝宝2年(750年)に神社として創祀されたという。則ち、奈良時代に国家事業としての東大寺毘盧遮那仏(所謂奈良の大仏)建立に際して鍍金に要する金の調達に苦慮していた大和朝廷の下に、天平21年(749年)2月、陸奥国から日本初となる金産出の報せとその金が齎されたが、その産出地が金華山であり、翌天平勝宝2年(750年)、牡鹿連宮麿(おしかのむらじみやまろ)等が時の国守に産金を司る神を祀る神社の創建を申請して金華山に金山毘古神と金山毘売神の2柱を奉祀し、後に弁財天を本尊とする寺院となったといい、日本初の産金を祝して大伴家持が詠んだ短歌、「天皇(すめろぎ)の御代(みよ)栄えむと、東(あづま)なる陸奥山(みちのくやま)に金(くがね)花咲く」に見える「金花(華)」に因んで島(山)名としたと伝える。なお、弁財天については金華山の太平洋岸に漂着した天女を金華山の山頂と麓とに祀り、麓を弁財天堂(大金寺)と山頂を竜蔵権現(現大海祇(おおわたつみ)神社)と称したとも伝え、また、産出した金を朝廷に献上した百済王敬福についても、牡鹿半島の北の付け根に近い女川町の御前浜(おまえはま)に漂着したという伝説や、同地に住んでいたという伝えがあった。
 江戸時代まではこの社伝縁起が広く受け容れられ、陸奥国小田郡の式内社「黄金山神社」はこの産金に因んで創祀されたと考えられる為にその「黄金山神社」に比定されても来たが、文化10年(1813年)に伊勢国の国学者沖安海(おきやすうみ)が天平産金の故地は現宮城県遠田郡涌谷町(旧くは小田郡に属す)であり同地に鎮座する小金神明社が式内黄金山神社である事を査定して再興した為に(現涌谷町黄金山神社)、当神社の創祀に関する縁起も再考される必要が生じた。」

 簡単に言うと、かつては金華山黄金山神社が天平の金の産出場所と思われていたのですが、実際は涌谷黄金山神社だったと言うことです。何故にこのような取り違いが起きるのか、意図的に大和王権に隠していたのでは無いのかと推測できます。
 さて私たちの目的地は涌谷黄金山神社です。主祭神は鉱山神の金山毘古(かなやまひこ)神で、現在は商売繁盛の神として信仰されています。社伝では、宝亀元年(770)按察使参議紀能により勧請され、延暦十八年(799)坂上田村麿によって修理が加えられたという。式内社・黄金山神社に比定されている古社。神社の紹介です。
「当地では金が発見される前から神が祀られており、小田郡(現:遠田郡)の人日下部深淵が、産金当時の神主であった。産金前の名は黄金山でなかったはずだが、不明である。 
 740年代、平城京で聖武天皇が大仏塗金のための黄金を切望していた。当時、日本国内では金は採れないとされ、全て輸入に頼っていた。まさにその時、陸奥国守百済王敬福が管内の小田郡で産出した黄金900両を貢上した。天平21年(749年)正月4日のことであった。900両もの砂金を収集し、奈良の都まで運ぶためには1年から2年の歳月が必要であり、実際に砂金が発見されたのは747年頃と考えられる。この黄金発見によって東大寺大仏は無事完成し、小田郡は永年、陸奥国は3年間免税とされた。
 産金関係者に位が授けられたとき、日下部深淵は外少初位下に叙された。これより後、天平神護年間まで(767年)に、現在の黄金山神社の場所に瓦葺の仏堂が造られた。神社は黄金山神社と名を改め、延喜式に小座として記載された。
 中世の黄金山神社の様相は不明である。江戸時代に地元でははじめて黄金が出たところと言い伝えていた。拝殿のみで社殿はなく、黄金山を神体として拝んでいた。拝殿は、奈良時代の仏堂の礎石を流用して建てられていた。江戸時代の後期、1790年頃までは年々祭祀が行われていたが、しだいに止んで荒廃の相を見せつつあった。しかし、江戸時代には天平の産金地を牡鹿郡(現石巻市)の金華山とするのが通説で、その地の金華山黄金山神社が信仰を集めていた。これに対して、江戸時代後期の国学者沖安海は、小田郡黄金山神社の古い礎石と付近に散乱する古瓦に注目した。文化7年(1810年)の『陸奥国小田郡黄金山神社考』で、金の産出に由来する神社は遠田郡涌谷村の黄金山神社であると唱えた。沖は神社が荒れているのを残念に思い、天保6年(1835年)に新たに社殿を建てた」

 この地は日本で始めての金の産出であり、その時に神主もいた様です。そしてその時の陸奥国主が百済王敬福なのです。しかし創建が不明です。この紹介の最初の箇所に、当地では金が発見される前から神が祀られており、とあります。考えられるとしたらこの地は元々蝦夷の聖地で、金鉱山があり砂金が取れることは既に蝦夷の中で知られていて、貴重なものと認識されてあったのではないでしょうか。そして、この地での金の産出が大和王権の陸奥支配を強化する原因になったのでしょう。








 神社を参拝しましたが、大きな黄金色の鳥居から参堂が続きますが綺麗に整備され、閑静な中に鎮座していました。この涌谷に所縁のあるWさんから素晴らしい金箔と金の延べ棒羊羹を皆さんにプレゼントして頂きました。