2015年12月25日金曜日

545「石巻12」2015,12,25

 本山博先生には私もヨガを学びに三鷹の道場に通い、20数年にわたりIARP(国際宗教・超心理学会)の会員になって学ばせていただいていました。本山先生は今年の9月に89歳で亡くなられましたがその業績は顕著で素晴らしいものでした。多くの著書を書かれていますがその多くを読ませていただいていますが、本山先生が、超常的方法によって日本人の起源と日本古代史に関する情報を得ています。
 百瀬直也氏がそのいくつかの著書で書かれたことをまとめていますので紹介します。(【】内は百瀬氏による注)
• 4〜5万年前にアジア大陸から移住してきた古モンゴロイドであるアイヌ族(=縄文人)は、狩猟・採集をして共同生活をしていた。
• 3,500〜4,000年くらい前に、地球の気温が下がって北方のシベリアや満州の方が寒くなってきたので、人々が南下して満州や朝鮮の方へ移ってきて、混血が起きながら新しい民族ができてきた。その頃の日本の人口は20万人ぐらいだった。百済や(朝鮮半島の)南の方で生きていた人たちは騎馬民族たちによって南の方へ押しやられて日本へ来るようになった。
• 3〜4千年前に、大陸の満州・沿海州から来たと思われる新モンゴロイドの出雲系民族は、先住のアイヌ民族と争い、和合しつつ、日本全国を統合し、彼らの民族神である大国主と素盞嗚命を最高神として祀る神社を建て、御神座を西向きに置いて拝み、アイヌの神々を統合した。
• ヤマタノオロチ退治の神話は、出雲族がアイヌの部族とその部族神を統合する争いの神話であろう。
• 3〜4千年前に移住してきた出雲系の楯縫(多々奴比、たたぬい)族が丹波の篠山に来て、鉄器で山を焼いたり、湖の水を下の川に流して緑豊かな平野(東西約20キロ、南北約5キロ)に変えてそこに定住し、農耕共同体として平和な生活を営み、多々奴比神社(河内多々奴比神社、兵庫県多紀郡西紀町下など)を建て、出雲系の民族神である大国主と素盞嗚命を祀った。【富氏の伝承ではスサノオは出雲族ではなかった。】
• 2、000〜2,500年前に、新モンゴロイドの大和(天孫)系民族が中国南部または朝鮮半島の西側、百済を経て九州に移住してきた。彼らは出雲系より優れた稲作を行い、優れた鉄器をもってきた。
• 出雲族が丹波篠山に移り住んできた500〜千年後に、大和系の物部氏が丹波の篠山に移り住んできて、出雲系民族との争いが続いた。現在でも、篠山の西半分は出雲系の、東半分は大和系の民族の子孫が住み、互いに反目している。その北半分は出雲系の、南半分は大和系の神々を祀っている。
• 大和民族はやがて先住のアイヌ・出雲民族を数百年のうちに統合して、民族の神である天照大神を最高神として、アイヌ・出雲系の神々をその下に統合した。
• 和人族たちは自分たちの正当性を示すために『古事記』や『日本書紀』を書いた【ユダヤ教徒または原始キリスト教徒だった秦氏が古事記の編纂に加わっていて、聖書を真似て物語を作った?】。和人の出身地は中国南部【福建省や広東省のあたり?】または朝鮮南部【西側?百済?】のあたりだった。
• 応神天皇の頃(在位270〜320年)に、ユダヤの一族がだんだんと日本へ流れてきた【秦氏のことか?】。
『謎の出雲帝国』の冒頭にある「出雲神族年表」から、一部を抜粋すると以下です。
• BC3500年頃:前記縄文時代。アイヌ、サンカ渡来。
• BC2500年頃:出雲神族渡来(後期縄文時代)
• BC1500年頃:スサノオ出雲へ侵攻。
• BC1000年頃:天ノホヒ出雲へ侵攻。
• BC600〜BC700年頃:神武東征、トミノナガスネ彦(出雲神族)敗れる。
 この出雲神族年表と本山先生の情報がかなりの部分で符合します。木内鶴彦さんもスサノウを3500年前の存在と言いますので年代的に当てはまります。
 更に神武天皇以前の古代王朝、ウガヤ王朝のことを調べてみると以下のことがありました。
 「ウガヤ王朝とは『上記』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で鵜茅草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)の共通の王名を持つ王朝とされている。鵜茅草葺不合尊は、『古事記』、『日本書紀』、神社伝承では、神武天皇の父とされているが、『上記』、「竹内文献」、『神伝上代天皇紀』などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していないので、架空の存在と考えられているが、その元となる王朝があったのではないかと古代史の復元では考える。」
 「これだけ多くの古史古伝が同じものと考えられる王朝を伝えているのである。正しく伝わっているとすれば記紀と合わないために矛盾を生じる。真実の伝承から改ざんされているのは確かであろうが、何かの王朝伝承が改竄された形で伝わっていると解釈できる。その元伝承は何であろうか。
 72代の王朝は世数にして62世代なので、年数にして約1700年である。そのままであればBC1700年頃に王朝が始まったことになる。
 縄文中期(BC3000年からBC2000年)のころ、西日本の照葉樹林帯の遺跡数は減少するが、飛騨地方のような中部山岳地帯では遺跡が一挙に4倍近く増加している。照葉樹林を捨てて、ナラ・クリ林が多い地方へ人口が移動している。縄文中期を通して気温は少しずつ下がっていく。BC2000年頃気温が急激に落ち込むんでいる。エジプトではナイル川の水位が低下し古王国時代が終焉する時期にあたる。中部山岳の遺跡数は激減し、その一部は西日本に移動した。BC1600年ごろは飛騨地方の人口急減期にあたる。」
古代史の復元では神武天皇に至る系統は次のようなものである。
① 朝鮮半島と中国との国境付近から流れてきた人(素盞嗚尊)の系統・・BC37年頃流入
② 春秋戦国時代の中国(呉)から流れてきた人(伊弉諾尊)の系統・・BC472年流入
③ 秦徐福の子孫(高皇産霊神)の系統・・BC208年流入
④ 飛騨国の系統・・・縄文時代より
 この中で系統が伝わっていないのは④の飛騨国の系統のみである。飛騨王家の系統は縄文時代から続くので相当長いと思われるが、その系統が全く伝わっていない。神武天皇につながる系統の中でウガヤ王朝の正体と考えられるのは飛騨王家しかない。」
(「ウガヤ王朝の正体」http://www.geocities.jp/mb1527/ugayachou.html

 この中で①のスサノウの系統が時代的に前の年代と相違しますが飛騨王朝がウガヤ王朝で縄文の時代2000年に亘ったものと推定されます。この飛騨王朝の岐阜の位山ピラミッドを中心にする文明と、東三河の石巻山ピラミッドを中心にした文明もその時代はひょっとしたら重なるように思います。
 ピラミッドは縄文の祭祀に関係するといわれていて、全国各地にピラミッドと思える山が見つけられています。そこには縄文の遺跡もありかなり古いもので、東北にあるピラミッドと言われる青森の大石神、秋田の黒又山、岩手の五葉山、福島の千貫森が飛騨以前の中心的な場所としてあったのかもしれません。
 本山先生のように、超常的方法などを駆使しないとその事実は明確に成らないのかと思いますが、日本、地球での歴史は面々と続き今に至っています。しかし多くの問題が山積してその対応が求められています。縄文的な精神と先端科学技術を融合して地球環境を豊にし、人間の真価、叡智が発揮できる世界にと思って、更なる次なる旅に向かいます。