2015年12月11日金曜日

530「好日一如8」2015,12,10



 6日も元気に目覚め、朝風呂に入り、昨夜のお酒も残らずに清清しい気分です。天気は良いのですが風が冷たく露天風呂は頭寒足熱ですが十分に活性できました。朝食は1匹のさんま焼きが付いて豪華なバイキングです。たらふく食べて8時に宿を出発しました。



 最初の目的地、万石浦から牡鹿半島に橋を渡って直ぐにあるサンファン記念館に向かいました。



 サンファン記念館は伊達政宗の命を受けて支倉常長が渡欧した慶長使節団ミュージアムです。道路からサンファン号を見下ろしましたが、震災で折れたマストも復元され記念館も平常に会館されていました。少し内容を紹介します。

「サン・ファン・バウティスタ号は、仙台藩初代藩主・伊達政宗が江戸時代初頭に同藩陸奥国領内で建造したガレオン船。仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船である。
 慶長18年(1613年)、徳川家康の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、仙台藩士・支倉常長を外交使節に任命し、支倉一行がスペインとの貿易交渉のため太平洋を横断。その際に乗船した巨大帆船がサン・ファン・バウティスタ号である。スペイン風ガレオン船(南蛮船)の様式を取っている。伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある。
 伊達政宗はこの慶長遣欧使節において、その正使にはビスカイノ提督ではなく、政宗と親しいフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロを任命した。ルイス・ソテロ、支倉常長、ビスカイノ提督らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、「日本初の対ヨーロッパ外交交渉」を行う旅に出た。
 支倉らが目指したのは、スペイン帝国の中枢を成す、スペイン王国のフェリペ3世(ポルトガル王兼任)である。当時スペインはフェリペ3世の父、フェリペ2世の時代に最盛期を終えた段階にあったが、依然としてスペイン帝国は「世界最大の植民地帝国」であった。
 支倉常長とルイス・ソテロは、スペインの首都、マドリードの王宮でフェリペ3世と謁見した。しかし、この時期に日本国内では、徳川家康がキリスト教徒の大弾圧を行っていた。この情報がスペイン側に伝わり、支倉一行は窮地に立たされる。支倉一行は劣勢を挽回するために、ローマの教皇との謁見を計画した。
 支倉一行はローマで、名誉ある「ローマ入市式」を行うなどの大歓迎を受けた。支倉常長はローマ市民権を与えられ、さらに貴族に叙された。支倉らはローマ教皇、パウロ5世と謁見し、教皇にスペインとの外交交渉の助力を頼んだ。
 ローマ教皇の支持を得た支倉一行は再びスペインのマドリードを訪れ、フェリペ3世と外交交渉を行った。しかし、結果的にこの外交交渉は失敗に終わった。」

  長々と紹介したのは、私は政宗には陸奥の国、東日本の独立を、キリスト教を利用して目論んでいたのではと想うのです。その為にローマ法王から日本国主の認を得て交易で権益を得ようとしたのでは無いでしょうか。1611年の慶長三陸地震で伊達藩は被害を受けその直後にも係わらず、半年でサンファン号を建造し渡欧させる財力も技術も相当なものを持っていたのでしょう。しかし蝦夷、アラハバキの中央に対する謀反ですが失敗に終わりました。
 参加者のYさんは大学ではスペイン語の教官でフェリペ3世所縁の方のようで興味深く見学していました。

 記念館の直ぐ近くにテンメイの仲間の佐藤造船所があります。311東日本大震災で被害を受けて、その復興には私たちも毎月のように片付け作業など手伝いました。ようやく再建工事も始まり暫くぶりに寄りました。既に工場が壊され、護岸、基盤整備が出来ていよいよ工場建築まで進んできていました。来年には完成でしょうか。もう直ぐ5年です。大変なご苦労をして折られますが復活再生を願っています。




当時の様子は次のブログ「81曙光2011年4月1日」にあります。
http://sendaitenmei.blog108.fc2.com/blog-entry-81.html



佐藤造船所の佐藤さんは風貌が支倉常長の肖像画にそっくりなのです。ある日その事に気付いて彼に話したら、きょとんとしていました。後日、仙台市博物館にその絵を家族で見に行ったら皆さん納得したようです。

 記念館のある土地は彼の親戚の土地だったようです。しかし、彼は今のような常長の扱いには批判的です。彼の中にある何かがそうさせるのでしょう。
 はせくらみゆきさんによると、私をはじめ天命塾の面々にフェリペ3世初め、当時の常長の時代を共有したものを持っている方が何人か居るようです。スペイン語の先生のYさんもそのようです。