富山観音に着いて門を見ると仁王門です。先ほど昼食を頂いたお鮨屋さんは仁王寿司です。仁王寿司の恵みを頂かないとこの仁王門を通り、観音様にお参り出来なかったようです。
富山観音は富山(116,8m)の山頂にあり、車で山頂近くまで昇れます。富山は松島四大観のひとつで麗観といわれ、松島湾の海や島々から仙台、蔵王を一望に出来る展望所で、古来より「松島の景悉く(ことごとく)富山に在り」と賞せられている景勝地です。
富山観音は坂上田村麻呂が大同年間(806~810)に慈覚大師が作った千手観音菩薩像を安置したことがはじまりと言われます。石巻の牧山観音・涌谷町の箟獄(ののだけ)観音とともに奥州三観音と呼ばれ、人々に信仰されてきました。 堂は伊達政宗の長女五郎八姫(いろはひめ)が承応3年(1654)に改修させたもので、方三間、屋根宝形造瓦葺で、石積み基壇は珍しいものといわれています。観音堂向かって右手の梵鐘は明暦3年(1657)に五郎八姫から寄進されたもので宮城県の文化財に指定されています。
何故、坂上田村麻呂がこの3つの地、富山、牧山、箟獄に観音様を祀ったのか、その謂れは以下のようです。
「征夷大将軍坂上田村麻呂の東征のとき、牧山で賊将大岳丸を退治し、死体を首・胴・手足に分け、牧山・富山・箆岳の三ヶ所に埋葬し、そこに観音堂を建立した。
そして、牧山には魔鬼(まき)山寺を建立した。また、田村麻呂が退治したのは、石巻地方にいた魔鬼一族の酋長の妻、魔鬼女(まきめ)であるともいう。
宮城県の牧山(魔鬼山)・富山・箆岳(ののだけ)の三山には、観音堂が建立(跡地だけのもある)されており、「奥州三観音」と呼ばれている。
田村麻呂が退治した鬼の体を分け、それぞれに埋葬しているとのことだが、富山(松島町)の鬼は『大竹丸』、箟岳(湧谷町)の鬼は『高丸』、牧山(石巻市)の鬼は『魔鬼女』と、鬼の名前が錯綜している。
宮城県遠田郡涌谷町箟岳の無夷山「箟峯寺」の伝承では、蝦夷征伐の時、田村麻呂は敵味方双方の戦死者を葬った上に観音堂を建てたのが寺院の始まりだと案内書に記している。ただし、この地で黄金が採集されたことに留意を要する。」『宮城の伝説』(角川書店)
坂上が祀ったといわれる奥州三観音は縄文時代の海岸の山で正三角形をなす位置にあるのです。そもそもこの3つの地はどこも素晴らしい眺望で、蝦夷がこの地を治めるにあたっての聖地であり、北上川から太平洋に出る要所でもあり、大和王権はそこを封印する目的があったのでは無いでしょうか。
更にこの富山観音は伊達政宗の長女五郎八姫との所縁も深いところです。
「政宗と正室の愛姫(めごひめ)との間に結婚15年目にして初めて授かった待望の嫡出子であり、男児誕生を熱望していたが、生まれたのは女児だった。このため、男子名である五郎八しか考えていなかった政宗が、そのまま五郎八姫と命名したといわれている。
慶長4年(1599年)に有力大名との関係を深めようとする家康の策謀の一つとして、徳川家康の六男・松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚約することとなる。慶長11年(1606年)12月24日に忠輝と結婚した。忠輝との仲は睦まじかったが子供は生まれなかったと言われている。そして元和2年(1616年)、忠輝が改易されると離縁され、父の政宗のもとに戻り、以後は仙台で暮らした。」
母の愛姫は三春城主・田村清顕と正室於北(相馬顕胤の娘)の一人娘です。田村氏は坂上田村麻呂の末裔と言われています。愛姫は一時期キリシタンで五郎八姫もキリシタンだった様です。
坂上田村麻呂が蝦夷を鎮めた後に亡くなったのが811年、伊達藩を襲った慶長三陸大地震が1611年です。五郎八姫が坂上田村麻呂の血を継ぐ中で、富山観音の改修をなしたのかも知れません。そして東日本大震災は2011年です。
素晴らしい太陽のエネルギーが強烈に降り注がれ、最高の景色を満喫できました。
石巻市の日和山にある鹿島御児神社に向かいました。日和山からは東日本大震災の被害地が一望できます。瓦礫はすっかり片付いて更地になっています。冷たい風が吹く中、眺望しました。
予定より早く巡ることが出来て女川温泉の宿に早く着きました。その車中から万石浦に沈む夕陽は強烈で、宿の名の通りで、将に華夕美でした。宿ではゆっくり温泉を満喫し、美味しい海の幸に満たされ、2次会も全員参加で午前1時近くまで元気に、交流を深め、語らい、飲み交わしました。