「豊橋市牛川の熊野神社は、ユヤ神社と呼ばれる。神殿の裏に12個の石が並べられており、12社様と呼ばれていると聞く。熊野の修験者が来て、この地で不幸なことが続くのは、12社様をよく祭らないからだといい、これを厚く祀るとよくなったという話があるそうだ。
ユヤの名といい、12社といい、ユダヤの12部族を思い起こさせるのだが、いかがであろうか。ちなみに、ユヤ神社の祭神の1神はイザナミ神であり、その北の浪ノ上の地の旧名は、ナギエである。ナギエの神にちなんで、ナギの木が有名である。つまりイザナギ神、イザナミ神の伝承地でもある。
熊野神社のほぼ真東には、ピラミッド型をした尖り山「石巻山」が屹立している。この山は、三輪山とも呼ばれ、奈良の「三輪山の元山」と地元では言われている。
世界につながる「古代ピラミッド文明」の一大拠点かも知れない。」
この内容を元に、期待してその熊野神社を訪れたのですが、土地区画整理工事で最近、神社は真新しくなって昔の面影が無くなっていました。
神社の裏の12個の石も無く、些か残念でした。この神社には次の表記があります。
「豊橋市立牛川小学校 の西側にある熊野社は、事解男神(ことさかのをのかみ)、速玉男神(はやたまのをのかみ)、豊宇気比売神(とようけひめのかみ)、建速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)を祭神とする神社で、例祭日は10月第2日曜日だが、創建は明らかではない。」
「熊野神社の創建には諸説あり1説は欽明天皇の御代(539~571年)、村で大木の梢が光ったり、神の化身と思われる人物が現れ詩を詠んだり、子供が神がかりになり熊野神社からの神託を口にしたりと不思議な出来事が続いた為、熊野神社の分霊を勧請したと伝えられています。
1説は崇神天皇の御代(紀元前97~紀元前29年)、徐氏古座侍郎という人物が常寒長山の里(現在の豊川市下長山町)に熊野権現を勧請し崇敬したところ、多くの作物が取れ館を構えたと伝えられています。一般的には平安時代に編纂された「三河国内神名帳」に記載が無い為、それ以後に勧請されたと推定されています。中世に入ると領主である牧野氏から崇敬庇護され、享禄元年(1528)には牧野成勝が社殿を改築しています。」
熊野の神をこの三河には海を渡って伝えたようです。熊野も除福の渡来地に上げられますが、除福との繋がりはこの牛川町の熊野社と次に訪れる牛川稲荷神社に色濃く残っています。その視点で見ると以下の様な表記があります。
「徐福という人物に関する文献は司馬遷の「史記」・巻118「淮南衝山列伝」にある。秦時代(紀元前3世紀頃)、始皇帝の命を受けて、3000人の若い男女・百工を従え、東方の三神山に不老不死の霊薬を求めて船出した。そして、平原広沢を得て王となったという記述がある。徐福が目指した蓬莱の国があった場所は各種異論があり、台湾・韓国、・日本・アメリカなど各伝説が残っている。日本においても徐福到来の地は紀伊半島熊野・富士北麓吉田など各地にある。
徐福が目指した場所は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」とある。愛知県の東三河は「豊国・ホの国」と古代では呼ばれていた。また「ホウライ(鳳来町)」という地名もある。現に愛知県新城市にある鳳来寺山(標高:684.2m)は古代の数千mあった巨大な火山で『不二山』と呼ばれていた。
三河地方と熊野地方との交流は海路が主であった。中世の頃まで鎌倉街道が豊川(とよがわ)を渡った船着場の愛知県豊橋市牛川町字西郷にある浪ノ上稲荷社の下にあったといわれている。熊野に到来した徐福一団もしくはその末裔が不二山を目指して三河の地に訪れていた。
浪ノ上稲荷社がある牛川町内には熊野神社が2社(牛川熊野社、浪ノ上熊野社)あり、浪ノ上稲荷社の境内には20基もの立石がある。この立石に刻まれた文字には今まで見聞きしたことのない大神・地神の名が刻まれている。立石に刻まれた大神の文字は、この地に定着した徐福一団もしくは末裔の渡来人達の功績を讃え、神として崇めたものではないかと、古代史研究家・前田豊氏は推測している。また浪ノ上稲荷社の近くの石巻町にある牛川1号という発生期の古墳から中国将官用環頭の両刃剣(後漢時代・2世紀頃)が出土している。」
牛川稲荷神社は民家の間の細い道を進むと程なくありました。
社殿の後ろには沢山の石碑が立っています。弁天島のようなものもあります。石碑には大神・地神の名が記されていますが良く分かりません。前田氏は以下のように記しています。
「徐福一行の人名であるが、これらの名は牛川稲荷社の石碑に刻まれた、謎の大神の名と極めてよく似ているのである。中には同一名もある。私が最初に石碑の大神の字を見いだしたときは、これだけ大勢の大神を刻む牛川稲荷とはとんでもないところだ、と思ったのだが、その謎がここに来て、ようやく解けて来たのである。つまり「徐福一行は、蓬莱の地に辿り着き、産業を起こし、定着し、その功を讃え、神としてあがめられた」、という表現が事実であったのではないか、いうことに思い到ったからである。」
「尚、牛川稲荷の祢宜である鈴木氏に、石碑の由来を尋ねに行ったところ、この石碑は氏子のひとの守護神を祭ったものだと云われた。牛川稲荷の社殿ができたのは意外に新しく、以前は石碑群と古墳があっただけであるようだ。石碑群も大正時代に整頓されたそうで、内容も分からず台石に、字を彫り込めたものを、逆さに積んだりしたものもある。しかしその古さは確かなものであり、彫刻された字が風化して、読み取り難いものも多い。その後の調査で、この地域の住人は、これら石碑の大神の子孫であることが判明した。徐福一行がこの地の先祖であれば守護神として祭られるのも納得できる次第である。」
(東三河と徐福伝説 秦の徐福は東三河に定住していた 前田 豊)
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