砥鹿神社の御祭神は大巳貴命ですが、創建等は以下のようです。
「社記(天正2年(1574年)の「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」)では、大宝年間(701年-704年)に文武天皇の時に天皇の病を鎮めるための勅使として草鹿砥公宣(くさかどのきんのぶ)が派遣され、本茂山(本宮山)の神を迎えて里宮が創建されたとする。
現在も砥鹿神社奥宮が鎮座する本宮山は東三河地方では中心的な孤峰であり、山中には磐座、山麓には古墳群の分布が知られることから、古代から信仰対象であったと考えられている。また上記伝承に見える草鹿砥氏は砥鹿神社の旧社家で、同氏は穂別の後裔と伝えることから、かつて当地一帯を治めたとされる穂国造により奉斎されたと推測する説がある。」
奥宮に付いての表記です。
「本宮山砥鹿神社奥宮の創祀は、文武 天皇大宝年間以前より鎮座さられた事は、社伝に明らかである(約千三百年以 前)、海抜七八九、二米に位する、本宮山 の秀麗な山姿と全山を覆う樹林は、昔より東海無双の霊域として神聖視され、殖産の神、護国救人の守護神として広く 尊崇され、明治四年の官制より三河国 唯一の国幣小社に列格された、砥鹿神社の奥宮である。
大神の御神徳は弥々輝き、除災招福、交通 安全、等にも広く御神威を垂れ給っている。」
「この奥宮の地には古代祭祀遺跡(磐座イワクラ)が点在し、古くから神祭りが行われてきたことが想起されます。その信仰形態から砥鹿神社の創祀はここ本宮山から始まったと考察されます。」
奥宮の末社にアラハバキ神社がありますが、それに以下の表記があります。
「表参道四十九丁目「荒羽々気神社(あらはばきじんじゃ)」祭神大己貴命の荒魂(あらみたま)。健歩健脚の守護神と慕われる。」
更に大己貴命の和魂(にぎみたま)を祀る守見殿神社もあります。
大己貴命の荒魂がアラハバキとありますが、何でなの?と思ってしまいます。調べてみるとやはり同じ疑念を抱いた表記があります。
「大己貴命の前に地神の砥鹿神が祀られていた。その砥鹿神が穂国造の祖神だとすると、それ以前にこのアラハバキ神が地主神として祀られていた、ということになる。するとこれは1500年以上も遡る蝦夷の名もない神の残像なのであろうか。」
「僕は出雲が国譲りをする前の出雲の原初の神は「龍蛇神」であり、それはアラハバキ神と関係があるのではないかと考えているけど、
砥鹿神社の大己貴命 = 出雲の大国主命
大国主命の荒魂 = アラハバキ神
アラハバキ神 ≒ 龍蛇神
という、これらの要素をもとに大胆に仮説を立ててみよう。
松本清張の推理小説『砂の器』のキーワードでもあるように、出雲弁と東北弁はいわゆる両方ともズーズー弁であり、極めてよく似てる。これだけ距離が離れているにも関わらず不思議な現象である。言語的に見ても出雲の人たちと東北の人たちはルーツが同じの可能性が高いと思う。
これは東北の人たちが出雲にやって来たのかもしれないが、もしかするとヤマト王権に敗れて、国譲りをした出雲王朝の人たちが東北まで逃げて来たのかも入れない。そして自分たちが信仰していた龍蛇神を「アラハバキ神」として祀ったのかもしれない。
奈良の方に意識を向けてみると、出雲の大国主命(オオクニヌシ)が奈良の三輪山で大己貴命(オオナムチ)として祀られ、そしてそれは蛇神と結びつく。そしてまた一方で長髄彦(ナガスネヒコ)と大己貴命(オオナムチ)との関係も気になる。神武天皇の東征によって敗れた長髄彦は東北に逃げたという伝承もある。」
東三河に祀られる神々はほとんどが出雲の神です。そして出雲と陸奥の繋がり、出雲神とアラハバキ神の関係がこの東三河で紐解けるかもしれません。
山頂の駐車場から直ぐに赤い鳥居が見えます。砥鹿神社の末社で奥の院と言われる岩戸神社です。先ずはそこへお参りしました。奥の院の表記は以下です。
「本社より西方の谷を隔てた国見岩の岩窟中のあり、祭神 大己貴命」
参堂を下って直ぐに天の磐座があります。その巨石に光が差込みエネルギーを放射しています。更に下るとそこかしこ巨石が沢山です。巨岩の脇を下るとそこの岩窟の奥の院があります。
奥宮は少し離れていて10分程歩きます。杉木立に囲まれた鬱蒼とした中に静かに鎮座していました。
陽も傾き始め山を下りましたが遠くに本宮山の全容を見る事が出来ました。