その謂れは以下です。
「社伝によれば、仁寿2年(852年)、社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に下向し、一族が尊崇していた日月星の三光の神を山峡の岩窟の中に祀ったのが始まりである。穂積保昌が土地の人々に麻の栽培を教えたことにより「青麻」の地名・社名となり、神紋も麻の葉である。」
ここの御神水は霊験あらたかなようでいつも大勢の方が水を汲みに来ています。裏山の岩窟を見て、三光の滝へ向かいました。駐車場のところから小川に掛かった3本丸太の丸木橋を渡り、湿地を少し川沿いに登ると岩窟の滝の宮があり、小さな三光の滝があります。中々良い気の所です。
この神社では天命塾ではいろいろな行事を開催したことがあります。麻がらみでエネルギースポットとして知る人ぞ知るところです。
多賀城政庁は城柵で、大和政権のみちのく支配の出先機関、陸奥の国の国府だったところです。
「創建は724年で、蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。」
今はその政庁跡は東西103m、南北116mの築地塀で囲われ、建物跡はコンクリートでその外形を分かるように土台部分のみ復元しています。
南に下る広陵に立つと海方面からの南北大路を髣髴とさせる感じに開けています。仙台湾と仙台平野を一望できるこの丘では、心地良い日差しを浴びて暫し往時を思い感じました。大和側の思惑と蝦夷側の反感渦巻く最前戦基地も今は風化しています。
政庁跡の北側に陸奥総社宮があります。総社については以下の表記があります。
「古代、国司には各国内の神社を巡拝する任務があった。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。この制は平安時代に広まったものであるが、陸奥国の総社について当時の記録はない。」
「陸奥総社宮縁起
神亀元年(724年)、多賀城に国府が創建されてから177年後の延喜年号になると、第60代醍醐天皇の勅命により、律令政治の基本となる延喜式(エンギシキ/全50巻)の編纂が始まります。その中には(第8・9巻)日本全国の由緒正しい神社が選別されて延喜式内社として記載されました。その数は全国で2861社(3132座)あり、古来より霊験の著しいとされる名神を祭る名神大社とその他の小社に分別されました。
陸奥国の31郡では、名神大社15社と小社85社を数え、国府のある宮城郡には、志波彦神社(シワヒコ)と鼻節神社(ハナブシ)の名神大社2社と、伊豆佐比売神社(イズサヒメ)、そして、多賀城鎮護と陸奥国の鎮めである鹽竈神社にたいする、執奏社の性格をもつ多賀神社がありました。しかし平安初期以降、多賀神社だけが史上よりその名を消してしまいます・・・平安中期になると総社という制度が全国的になるにしたがって、陸奥国においてもこれにならい総社が建立されました。つまり、多賀城にもっとも重要かつ支えである多賀神社の地を総社とし、多賀の神(伊弉諾神、伊弉冉神)を総社中に編入し、あわせて陸奥国内の100社の神々を勧請して 陸奥国一之宮の鹽竈神社と陰陽ペアとなる陸奥総社宮が新たに鎮座しました.」
御祭神は以下の神々です。
・八塩道老翁神・奈名塩老翁神・金山彦神・奥津彦神・若狭彦神
・八塩道老女神・奈名塩老女神・金山姫神・奥津姫神・若狭姫神
・伊邪那岐神・大日霊神・猿田彦神・大国主神・事代主神
・伊邪那美神・天照皇大神・大年神・保食神・応神天皇
・アラハバキノ大神威・ツボケノ大神威・高龍神・闇龍神
陸奥国一百座の神々
この中で目を引くのはアラハバキノ大神威・ツボケノ大神威です。アラハバキが天の神でツボケは地の神で、アラハバキ神は岩木山にツボケ神は鳥海山にいて陰陽対を成すという表記に出会いましたが、果たして如何でしょうか。ツボケノ大神威は津軽のアソベ族、ツボケ族の神です。
境内の銀杏の木が黄色い葉をまだ沢山身につけて鮮やかです。杉の大木と白木蓮が目を引きます。過去には何とも都合よく神々を纏めてお祀りしたものです。そしてこの地では多くの神々が仲良く治まっていたのでしょうか。