2015年12月25日金曜日

544「石巻11」2015,12,25

 東三河の主だったポイントの地を駆け足で巡り帰路に着きました。今回の東三河は始めての地でありましたが、あまりにもいろいろな内容、要素があり、長い歴史の中で明らかに中心をなした場所だったように思います。
 縄文アラハバキ、出雲の神々、徐福の渡来、大和王権の成立、後の持統天皇の御巡幸などが絡む、将に源流なのかも知れません。記紀に記されていない世界は全てが偽書扱いされる中で、明らかに正史といわれる権力が作成した歴史では隠しきれない世界がそこかしこにあるのも事実です。古代史の復元は至難の業ですが、興味そそられる世界でもあります。
 スタートは東北の出身の私に中にある蝦夷的ないのちがアラハバキの存在を知ったところからでしたのでその中で雑駁にまとめてみたいと思います。無から有を生み出す能力は私にありませんので、先人の現した物の中で独断と偏見で取捨選択し整理してみます。

 本宮山頂上で、草鹿戸公宣卿の前に「神のはじめの神」が現われました。本宮山の砥鹿神社の祭神は、大己貴神でこの神は大国主とも大物主とも言われている出雲の神です。さらにこの神社の摂社に、大国主神の和(慈愛)の心を祭る「守見殿(和御魂神社)」と、荒々しい心を祭る「荒羽々気(あらはばき)神社」が祭られています。前田氏はこの「神のはじめの神」こそが根元神(大元神)「アラハバキ神」に相違ないと指摘しています。
 また、「照山山上の立石となって、鎮座している「天地主大神」も根元神である「アラハバキ神」であった。照山の北の金沢町には、荒神場という地名があり、これは、アラハバキ神の顕現の地であろう。
「東日流外三郡誌」に、日向族の記述があり「日本国日向に高天原天神地神の愚想信仰起こりて衆是れに従うもの多し。この導師は女人なり。」という。この記事はまさに、東三河の本宮山山麓で、天地主神をまつる天照大神の伝承と符合している。」とも記しています。
 
 江戸時代の三河出身の紀行家、菅江真澄は、寛政八年(1796)青森地方を巡歴したとき、森の小祠に「脛巾(はばき)の神」として、アラハバキ神が祭られていたが、表向きは松尾の神(祭神・大山昨命)を装う土俗神に過ぎなかった様だ(沢史生著「閉ざされた神々」(彩流社))。しかし、真澄はアラハバキ明神の名を聞き出したうえ、真澄のふるさとにある砥鹿神社(愛知県宝飯郡一宮町)のかたわらにもアラハバキの祠があったが、同じ神であろうかと、旅行記に触れられている。沢氏の著によれば、
「本宮山(789m)は愛知県新城市から望まれる姿の整った山である。わたしは本宮山から、市浦村の靄山(注、津軽の十三湖周辺の靄山)を連想した。つまり本宮山は元靄山であるのか、市浦村の靄山が本宮山に対する"新"宮山であるのかということだが、靄山の山容は大和の三輪山(モヤ山はミワ山がなまった山名か)や、その後方に位置する鳥見山にも似ているのである。三輪山はオオナムチにつながり、鳥見山はナガスネヒコゆかりの山である。そのことが、愛知県の本宮山や市浦村の靄山に、何らかのかかわりをもつように思えてならない。」とある。
「加えて新城市の"シンシロ"はかつて"ニイキ"郷と呼ばれたところでもある。「ニイキ」や「シンシロ」が「アラキ」「アラハバキ」からの転訛であったとも考えられよう。しかも本宮山の砥鹿神社には荒羽々気神社が末社に列せられているのである。
 神社を眺めるときは、本殿の神よりも、その周囲に何神が封ぜられているかに気を払わなければならない。摂社、末社の小祠に、本来は本殿にあるべきはずの神の正体が隠されているからである。この仕法を砥鹿神社に当てはめると、神社のヌシは新城の地名がらみで、アラハバキの神であった可能性が強い。」ということである。
 つまり、アラハバキ神が、かつて、参州筆頭の一宮である東三河の砥鹿神社の主祭神であり、東北十三湖の古代津軽・亀が岡文明や、奈良の三輪山とのつながりをもっていた可能性を示す貴重な見解を表明されていたのである。」 
「神のはじまりの神」前田豊 http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page007.html
 菅江真澄は津軽の靄山と東三河の本宮山、そしてアラハバキ神の関連を読み解いていたようです。果たして津軽と東三河にどのような結びがあったのでしょうか。

 徐福が秦の始皇帝の命を受けて不老不死の薬を求めて日本に渡来しましたが、徐福が始皇帝に上書した内容は、「東海に蓬莱、方丈 えい州という三神山あり、これ世界の大元祖にして、大元祖宗の子孫たる神仙が住み、不老不死の霊薬を伝える。・・われをしてこれを求めしめよ。」ということでした。
 果たして徐福が求めた、東海の三神山のある豊葦原瑞穂の国に「世界の大元祖」とは何なのかです。チャーチワードのムー伝承によると、ムー大陸を統括した、ラ・ムーの一派は、ムー大陸が沈没する前に、その大陸を逃れた。このような人々がいたことを記しています。 
 そこで、「ラ・ムー一派は日本列島の高地に移住し、縄文人となり、アラハバキ神を奉祭する初期日本の皇祖天皇一族となったのではないか。その場所こそは、日本の大元祖の居る地・高天原であった。その根拠地こそが東三河の高天原であったのではないか、というのが筆者の大仮説である。逆にいえば、日本の皇祖・天神は、ラ・ムーの血を引く後裔でもあるわけである。
 あるいは、伊勢の東の神島を中心とする海域に海底に沈んだ、より古代の神都があったのかもしれない。常世伝説はこの海域にあった。伊勢の信仰では、海中に供えものを流し、東の海を太陽の国として拝む。アラハバキに因む名の島もある。
 伊勢の東海は常世であり、海に沈んだムー大陸の首都であったのかもしれない。それは、「常滑」を含む伊勢湾周辺の地に伝承され、特に、しっかりと東三河の神都に引き継がれた。                                  
 紀伊半島の南の海には、水深500m以下の浅海が大きく広がっている。この海域も伊勢沖と同様に沈降したとすば、熊野からフダラク渡海するのも、失われた大地をもとめて、血が導くのかもしれない。」と前田氏は述べています。

「謎の出雲帝国」吉田大洋著によると、出雲神族の末裔と主張する、元サンケイ新聞編集局次長の富當雄(とみまさお)さんという方が語る日本古代史の重要な部分をピックアップしたものが以下です。
• 大国主命の祖先であり出雲神族の真の祖神である出雲の大神とは、クナトノ大神(=熊野大神=道祖神=サエノカミ)だった。
• 「われわれは龍蛇族である」(富氏)
• スサノオは朝鮮から蹉跌を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を敗り、婚姻により習合した。
• 出雲王朝はかつては北九州から新潟までを領有していた。
• クナトノ大神は岐(フナト)神、来名戸之(クナトノ)、祖神(サヘノカミ)などとも呼ばれ、57代にも渡って何人もいた。
• 天照大神は富家の伝承にはいない。宮中のアマテラス祭祀は平安時代以降に成立した。
• 大国主命も固有名ではなく代名詞であり、17代続いた。神武天皇も一人ではない(?)。
• タテミナカタは天孫族に服従せず、越へ後退し、母方(越のヌナカワ姫)の勢力をバックに信州へ行き、第2出雲王朝を築いた。
• タケミカヅチは富氏の伝承にはない。多氏一族が奉じた(=タテカシマノ命、那加国造祖)。鹿島神宮は社殿内陣の構造が出雲大社と似ていて、クナトノ大神も摂社にある。宮下文書では、タケミナカタはミカヅチとフツヌシの兄となっている。
• 藤原氏は富家伝承では帰化人。出雲大社社家の祖神だった天ノコヤネに続いてタケミカヅチを祖神とした。中臣氏は東国で鹿島神系と婚姻した。
• 物部氏は、その祖ウマシマジが出雲神族のトミヤ姫を母とする親出雲族で、後に(崇神天皇前後)親天孫族に転向した。島根に侵略基地を置き、出雲へ侵攻した。
• 天皇家で、神武系と崇神系は血族的断絶はないが、内紛によって別の系統から天皇が出た。
• 渡来した天ノヒボコ族は吉備に移り、スサノオ系のスサ族と同化し始め、天孫族はヒボコ族と政略結婚を進めた。
• 神武系の天皇家は武烈天皇で血統が絶え、大伴氏・物部氏・ヒボコ族らは中立に近い出雲神族から、古志方面の主張だった継体天皇を立てた。継体系は続く安閑→宣化で王朝が絶えた。
• 出雲族に戦いの歴史はなかった。
• 天孫族は伊勢に攻め込み、王の伊勢津彦は建御名方富命が統治する信濃へ逃れた。
• 天孫族の東国制覇はクナトノ神の先導によってなされた。
• 出雲族は北方から来た(BC2000年頃?)。ベーリング海を渡り、北海道、東北、出雲へ行った。
 そして、「富氏の大祖先はクナトの大首長(大神)だが、もう一つ隠された女首長(女神)にアラハバキがいた。そして、体制側によってクナトとアラハバキが抹殺されかけたときに、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変化したというものだ。」とあります。
「出雲神族の伝承は真実か」探求三昧&百瀬直也から引用
 http://tankyu.hatenablog.com/entry/20070513/izumo